ブログを書き始めてから何度も書いたけど長男の安否がわかるまでの間の心がつぶれそうな思いを今でも思い出すとぞっとする。
16年たっても、遺族をはじめ、震災の痛手を負い続けている人たちがいる。同じ苦しみを繰り返してほしくない。いつまでも語り継いでいかなければね。
長男もこの日は特別な一日だと祈りをささげないではいられない、今の自分があるのは奇跡だと思うからと、毎年心新たにするという。
あの日長男は就職一年目で西宮の独身寮にいた。
まさに高速道路が折れてバスが宙吊りになっていたすぐそばだった。
最初テレビをつけてあ~地震があったのね!ぐらいに考えていたのが時間が経つごとに大変な事態になっていることがわかり息子の寮に電話したがもちろんつながらない。
夫は会社で私は家から電話をかけ続けていたが繋がらなく被害がどんどん拡大しているのがわかった。大阪支店に電話しても繋がらない状態、私は本当に心配で泣きながら電話をかけ続けた。
夕方になってやっと長男から無事と言う公衆電話からの連絡が入った。携帯電話もなかったし!
ちょうど活断層を境に息子のいる所はみな無事で反対側は軒並み家が倒壊して、人々の呆然とした様子が息子にもわかり気の毒だと泣き声になっていた。
息子は4階にいて落下物で怪我もあったが一階の人は外が稲妻のように光ったらしい。後1時間遅かったら電車の中だったからどんな事態になっていたかもっと被害がでて自分もどうなったかわからなかったと言っていた。
それからは水道ガスも出ないので大阪の建築現場から帰りに大阪市内でお風呂に入り、外食して、洗濯物は我が家に送ってきた。 それを私は洗濯をして大阪の現場に送り返すという日々が続いた。
独身寮も二人で一部屋を使うことにして復興の作業員の方に提供して日曜日にはボランティアで働いていた。
もう16年経ち復興も目覚しくても心の傷なんて癒えてなんていない。自殺する人や、独居死去年だけでも60人以上居る。
そんな中で皆頑張って生きて来た事に私たちは忘れてはいけないと思う一日。
私ももし長男がどうかなっていたら今の幸せも無かったし可愛い嫁の好江ちゃんや絵里子にもめぐり合っていなかったわけだから感謝しなければいけない 。
長い長い一日だった。
写真はスノードロップです
そんな大きな音が!
私はニュースで知るまで何もわかりませんでした。
人が人らしく生きれている世の中であって欲しいですよね。
今の神戸はすっかり復興しているように見えますがそうではないのですよね。
高速道路の反対側に長男がいたら私は今こうしてNET元気なんて未だになかったと思います。
ご主人様も辛い思い出がおありなのですね。
決して忘れてはいけない日です
幸い被害は無く。。。
でも大変だったようです。
そしてこの日忘れられないのは次女の入試日。
朝早くゴーという音で目覚めた。
こんなに遠い所でです。
後のニュースで知ってびっくり!
長女の入試日は湾岸戦争勃発の日。
なんだか。。。
生きているといろいろあるけど皆が幸せに生きられる世界に
なるといいですね。
助かって本当に良かったです
その日の親御さんのお気持ち辛いほど分かります、
読ませて頂きながら涙が零れました。
倒れた 高速道のお近くに?
高速道から北側は殆ど全解状態でした
あの明くる日 神戸まで義姉を探しに自転車で二人で行きました 途中で高速道からバスが半分落ちそうなのを見ながら泣きながら走りました。
息子さんお怪我をなさったそうですが、犠牲者に成らなくて本当に良かったです
キットご先祖さまがお見守り下さったのですよ
震災記念碑にジジさんの同僚の方の名前が刻まれています 家屋の倒壊で犠牲になられたので...
あの日から一週間後 一緒に旅行の予定だったので毎年この日にお参りに行きたい!って
涙を流しながら名前を撫ぜています。
今日も数名方が涙しながら手を合わせていられました
この思い風化しないで語り次がれていかなくてはいけないと強く思います