飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

研究授業に対する考え ある投稿から

2024年11月16日 06時07分17秒 | 教師論
こんな投稿を目にした。

私が教師熱が下がったのは6年目のこと。
その年5年研という研修があった。
5年経験した教師が集まり、5人グループを作り、その中のひとりが公開授業をして、そのグループの人と初任者が見にくるというもの。
私はその年、県指定の研究授業も決まっていたので、この公開授業は当たらないと思い込んでいた。
しかし、一本釣りで当たったのだ。
校長も無理だと断りを入れてくれたのだが、結局押し切られる形となった。
そして、5年研の5人の小グループで集まったときに言われた。
「授業当たらないんだ、良かった!」
「今年も何の授業も当たらなくてよかった」
私が一番若いのもあるだろうが、口々に言われがっくり来た。
5年目の公開授業で一本釣りをされてる教師は、私のようにたいていなにか授業をかかえて、それにプラスこの授業で本当にげっそりしていた。
結局、小グループで研究しての公開授業と言いながらも、自分で指導案をつくり、指導主事とやり取りをして授業を行った。
当たらなかった人は見るだけで、当たったら理不尽すぎる授業にアホらしくなり、心もポッキリ折れた。
研究授業って魂込めまくるから、命削れる。
2本授業をしたら白髪がどっと増えた。
まだ若かったのに。

次の学校に赴任したら、「静かに生きて、研究授業からも逃げてやるぜ」と意気込んでいたのに、隣の市に移動になって赴任1年目から市の研究授業があたったのだった。
宝くじあたらんのに、なんでこればっかり当たるんや!
経験年数も給料も同じなのに、仕事量の不平等さに愕然とした。

以上引用終わり。

この先生の気持ちを痛いほどわかる。
自分の力量を高めるためとは分かってはいるが、自分も研究授業者の選出には理不尽さを感じることもしばしばあった。
もちろん、頼まれたことをすべて断らなかった自分の責任ではあるが。
しかし、さすがに市内研究会の実践発表、研究授業、そして県の教育研究会の実践発表、市指定の研究発表会中心授業の4つの発表と研究授業を抱えた年はきつかった。
大変な時期は、真夜中の2時ころ帰宅して、朝日とともに出勤なんてことを毎日繰り返していた。
家族との会話はほとんどなく、ラインでコミュニケーションをとっていたくらいだ。
今の働き方改革の中では信じられないことだが、プロ教師を目指す先生方や授業の名人と言われる方々は、このくらいのことはおそらくしていたと思う。
学校に泊まり込んで研究をしていた時代もあったので。

今となってはこれも自分の教師修業の中では意味のあることでいい思い出だが、当時は死ぬかと思った。
しかし、なぜか心的ストレスがたまるとか、過労死するんじゃないかと考えたことはなかった。
まだ、若かったこともあっただろう。
また、自分が、目指しているプロ教師になるにはこのくらの壁は誰でも超えてきたものだと思いこんでいた。
まあ、その思い込みもあながち間違いではなかったが。

この心がポッキリ折れてしまった先生は本当に気の毒だと思う。
私が残念だと思うのは、この先生が一人で頑張っていたことだ。
まわりの年の近い先輩がなぜもっと支えてあげなかったのか。
孤立させることなく、自分の研修だという思いでなぜもっと同じ歩調で研修を深めてあげられなあっかのか。
その点だけが残念である。
自分の場合は、先の一番苦しかった時代にも、尊敬できる先輩がいつも声をかけて相談にのってくださった。
また、若手は一緒になって夜遅くまで教材研究をしていた。
だから、孤立感はまったくなかった。
その仲間は現在も志を同じくした教師仲間として、教育サークルで一緒に学んでいる。

saitani


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