30代の頃、年に数回、公の研修会に行かせていただいた。
そのとき、有名な学校ともなると授業開始の頃には、教室は参観者であふれ、列が二重三重にもなり、声さえもほとんど聞こえないという状態もめずらしくなかった。
したがって必然的に研修会には受付開始の30分前には会場に到着するような行動をとるようになった。
教室で子供たちをまっていると次々の登校してくる。
その頃の自分は好奇心旺盛というか、厚顔無恥というか、目の前にいる子供たちに
「申し訳ないけど、ノートを見せてくれる?」
にお願いをよくした。
子供たちも何ら動じる様子もなく、「どうぞ。」と言わんばかりに差し出す。
前時の授業の内容や普段のノート指導がどうなっているかを知るためだが、期待通りのときもあり、期待を裏切られることもある。
有田先生の指導は、「ノートは頭の作戦基地だ」という表現で、ノートの書き方はあまりこだわっていないが、独創的な考えがたくさん書かれていた。
ノートにどのような意味を持たせるかによって評価の観点も変わってくるし、評価の観点によって子供たちの意識がどこへ向くかも決まってくる。
しかし、ノート指導がきちんとされていない学級の授業レベルは高確率で低いことが多かった。
一見活発に意見を言ったり、一部の子どもがすばらしい意見を言ったりしている授業でもノートの取り方に問題があることも多々ある。
ある学校のノート点検の項目である。
1 日付とページ数をかく。
2 授業とは関係ないことを書かない。
3 大きな字で、丁寧に書く。マス目からはみ出さない。HBかB以上の鉛筆で書く。
4 間隔を空けすぎない。ノートを飛ばさない、空ける場合は三行まで。四行以上空いてしまった場合は、それぞれの教科にあった学習内容を書く。
5 大切なところは、赤鉛筆など色を変えて書く。
6 線を引く時は、定規を使う。
7 プリントはノートにはる。
このうち、日付を書く、間隔をあける、定規をつかう、この三点を徹底しただけでも子どものノートは劇的によくなる。
この足下の指導をないがしろにして、生きる力とか授業のねらいがどうだとか議論するのは、まったく意味がない。
ノート指導は基礎基本として、全体で取り組まなければならいない重要事項である。
saintai
そのとき、有名な学校ともなると授業開始の頃には、教室は参観者であふれ、列が二重三重にもなり、声さえもほとんど聞こえないという状態もめずらしくなかった。
したがって必然的に研修会には受付開始の30分前には会場に到着するような行動をとるようになった。
教室で子供たちをまっていると次々の登校してくる。
その頃の自分は好奇心旺盛というか、厚顔無恥というか、目の前にいる子供たちに
「申し訳ないけど、ノートを見せてくれる?」
にお願いをよくした。
子供たちも何ら動じる様子もなく、「どうぞ。」と言わんばかりに差し出す。
前時の授業の内容や普段のノート指導がどうなっているかを知るためだが、期待通りのときもあり、期待を裏切られることもある。
有田先生の指導は、「ノートは頭の作戦基地だ」という表現で、ノートの書き方はあまりこだわっていないが、独創的な考えがたくさん書かれていた。
ノートにどのような意味を持たせるかによって評価の観点も変わってくるし、評価の観点によって子供たちの意識がどこへ向くかも決まってくる。
しかし、ノート指導がきちんとされていない学級の授業レベルは高確率で低いことが多かった。
一見活発に意見を言ったり、一部の子どもがすばらしい意見を言ったりしている授業でもノートの取り方に問題があることも多々ある。
ある学校のノート点検の項目である。
1 日付とページ数をかく。
2 授業とは関係ないことを書かない。
3 大きな字で、丁寧に書く。マス目からはみ出さない。HBかB以上の鉛筆で書く。
4 間隔を空けすぎない。ノートを飛ばさない、空ける場合は三行まで。四行以上空いてしまった場合は、それぞれの教科にあった学習内容を書く。
5 大切なところは、赤鉛筆など色を変えて書く。
6 線を引く時は、定規を使う。
7 プリントはノートにはる。
このうち、日付を書く、間隔をあける、定規をつかう、この三点を徹底しただけでも子どものノートは劇的によくなる。
この足下の指導をないがしろにして、生きる力とか授業のねらいがどうだとか議論するのは、まったく意味がない。
ノート指導は基礎基本として、全体で取り組まなければならいない重要事項である。
saintai