77年前の今日。 3月10日は東京大空襲の日だ。
先の大戦の末期、アメリカ軍が大規模な戦略爆撃をし、無差別に焼夷弾を落とした。
東京の下町は、焼け野原となり、民間人が11万人以上、犠牲となった。
当時、私は2歳の幼児。
母の姉(私の伯母)が住んでいた藤沢市の鵠沼の家に疎開していた。
赤ん坊同然の私には、全くと言っていいほど、記憶がないのだ。 何も覚えていない。
3月10日。 藤沢から見た東の空は、真っ赤だったそうな。
そのころの東京は、木造建築の家が多かった。
私が疎開する前にいた下町は、見るも無残な焼野原になってしまった。
この空襲で、私の従兄である、伯母の息子が犠牲者となった。
次兄と一緒に逃げていたらしいのだが、離れ離れになってしまい、翌朝、近所の防火桶の傍で遺体となって見つかった由。
伯母は、一夜にして、髪が真っ白になったそうだ。
中学4年生(飛び級)で、大学に合格した次兄は、兄を助けられなかった…という後悔の念にさいなまれ、その後、
精神を病み、人生を棒に振ってしまった。
戦争というのは、直接・間接にかかわらず、悲劇を生むものだ。
当時、父は兵役で中国に行ってたし、留守家族を守る母は必死だったことだろう。
これは空襲とは直接関係ない話だが…。
東京から藤沢に疎開する時、家財道具をトラックで運んだのだが…。
下駄箱を荷物の中から抜いて、その隙間に、私の雛人形の箱を、従兄は入れてくれてたそうだ。
東京の家は全焼し、下駄箱は燃えてしまったが、私の雛人形は無傷で残った。 ( ^^) _U~~
後年、優しそうな穏やかな顔をした従兄の遺影に線香を手向けるたびに、
「お雛様、守ってくれてありがとう♪」
と、合掌したものだ。
今、ウクライナがひどいことになっている。
同じ爆撃でも、木造つくりの日本と違って、コンクリートのビルの街は、破壊がすさまじい。
映像を見るたびに、東京の大空襲のことが思い出される。
人間は、なんと愚かなことをしていることか。
教訓はちっとも生かされていないように思えて、歯がゆいばかりだ。
ロシアは一体、何をしたいのか…。
★一日も早く、ウクライナが安寧な世の中になりますようにお祈りいたします!