昨日が、弟の72歳の誕生日だった。
近所に住んでいながら、顔を合わすのは、まれで、せいぜい、年に2~3回程度。
異性の姉弟なんて、そんなものだろう…と、淡々とした思いだ。
弟は、6月25日、朝鮮動乱の日に生まれた。
当時、私は7歳。 世の中のことなど、知る由もなく、大変な日…だと言うことは、大人になって知った。
非鉄金属地金商を営んでいた父には、人生で、最も、追い風の時。
いわゆる、財産なるものは、この時に作られたようだ。
後の人生は、余録で食べてるようなもの。
それほど、軍需景気というのは、凄かったそうだ。
働き者の母だったが、弟を生んでから体を壊した。
当時、秋田の在から上京してた知り合いの女の子が手伝いとして、我が家にやってきた。
私とは、10歳以上も年上のお姉さんだったが、すぐに、親しくなった。
私が、母を凄い女性だと尊敬することの一つに、「人を育てる技術」を持ってることだ。
お店で働いてる、若い男の子たちも、彼女も、何処に出しても恥ずかしくないように育てた。
立派な社会人となり、個人商店の主となった人もたくさんいる。
業界では、「養成所」などと、言われることもあったとか…。(笑)
そんな母だが、一人息子だけは育て違いをした。
いわゆる、激愛だ。
別に、差別されていたわけではないが、弟には、上の姉二人より、甘かった。
ある日、何気なく、母に訊いてみた…。
「お母さんは、どうして、弟には甘いの?」
母は、すました顔をしてこう言った。
「弟は、あなたより、7年もお母さんと一緒に居られる時間は、短いのよ。
あなたは、それだけ、お母さんと長くいられるのだから、我慢なさい!」
後年、自分が母となり、二人の息子をもって、その意味が少し、理解できたように思える。
私も、次男坊が可愛くて、仕方がない。
同じ親から生まれた息子なのに…。(笑)
そういうわけで、弟は、どうも、3文足りないようで、ちょっと、問題児に育ってしまった。
何をやっても、長続きしなかった。
家業も継ぐことも無かった。
ただ、好きな英語を生業として、気が付けば、もう、72歳。
多少、腰や足が弱くなったようだが、元気に暮らしている。
気が付けば、私たち姉弟はとっくに母の亡くなった年を超えた…。
★ららる~♪さん!
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同じです♪ 頑張って、続けましょう♡