12月16日は田中角栄元首相の命日。 死去して30年の節目を機会に,公開資料や氏について論じた書籍を通じて今につながる田中政治の功罪、さらには今なお人を引きつける人間性を探る。
12月16日は田中角栄元首相の命日。今年は死去して30年の節目に当たる。ロッキード裁判で懲役4年・追徴金5億円の実刑判決が下されたのは40年前の1983年10月12日。その後、上告審中の1993年12月に亡くなった。75歳であった。
田中角栄氏には、”金権まみれ”という不評がつきまとう。が、死去から30年余りが経過したにもかかわらず、関連書籍がベストセラーになるなど根強い人気を持つ。また、日中国交正常化に見られる、その決断と行動力を懐かしむ信奉者がいることも事実である。
自らの才覚と器量で頂まで上り詰めた今太閤には、金権政治家との烙印が押されている。だが、田中氏は誰彼かまわずに「カネ」をバラまいていたわけではなく、そこには「哲学」があった。私生活面では、本妻はな夫人、神楽坂芸者だった辻和子さん、そして、金庫番でもあった佐藤昭女史と、3人の女性との間にそれぞれ子供をもうけ、破綻することなく関係を持ち続けた。ここから、角さんの人づきあいの流儀、人間性が垣間見える。
『 絆―父・田中角栄の熱い手 』 p133- 田中京著 発行:扶桑社
私にとって、やはりオヤジは人としての 〝道″を教えてくれる師匠だった。
新開などに悪口を書かれても、「彼らは書くことが仕事なんだ。俺のことを書くと、とにかく売れるらしいんだな」と笑っていた。
昭和四十九年に金脈問題で内閣を退陣に追い込まれたり、その二年後にロッキード事件で世間から袋叩きになったときも、愚痴や言い訳がましいことは私たちに一切言わなかった。
掌を返したようにオヤジに冷たくなったり、無責任に批判するようになった人たちを冗談めかして、「あいつは俺よりも先に近くから、まあ、いいんだよ」 「ああいう奴はゴキブリホイホイで退治するしかないな」と言うくらい。
細かい事情は何も言わない。こっちもオヤジを信じていたから何も聞かない。男同士それでよかった。酒を酌み交わすだけでわかり合えた。
『決定版 私の田中角栄日記(新潮文庫)』 p-37 佐藤昭子著 発行:新潮社
田中が来た時、雑司ヶ谷の家には社員が一人っしかいなかったという。
「仕方がないので引き返そうとしたら、すぐそばにポヤがあって道が通行止めになった。非常線が解かれるのを待っていたら、君が帰って来たんだ。あと五分早く来ていたら、ボヤがなかったら、君とは永久に会えなかったかもしれん」
運命の五分。白山下の料亭の一室で、田中はしみじみと言った。
「きょうは二月二十三日か。また君のお母さんの祥月命日だなあ。ほんとに不思議な因縁だ。俺と君が初めて会ったのもお母さんの命日だったし、こうして会えたのは、死んでも死に切れないで君のことを心配していたお母さんが俺に君を託したんだよ」それから三十年余、田中は毎年二月二十三日には必ず二人だけの食事にさそってくれた。病気で倒れるまで、一年も欠かすことなく。