>>>安倍首相が珍答弁 「募っている」けど「募集」ではない
出典:朝日新聞ウェブサイト 2020-1-28 https://www.asahi.com/articles/ASN1X6H4XN1XUTFK024.html
募っているけど募集はしていない――。28日の衆院予算委員会で、安倍晋三首相から「桜を見る会」をめぐる「迷答弁」が飛び出し、現場は騒然となった。
首相の地元事務所名で、同会を含む観光ツアーへの参加を募る文書が地元有権者に送られていた問題で、共産党の宮本徹議員が文書を示しながら「この文書は見たことがなくても、募集していることはいつから知っていたのか」と追及した。すると、首相は「私は、幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」と述べた。
宮本氏は厳しい表情で「私は日本語を48年間使ってきたが、『募る』というのは『募集する』というのと同じですよ。募集の『募』は『募る』っていう字なんですよ」と諭した。だが、首相は「ふさわしい方ということでいわば募っているという認識があった。例えば新聞などに広告を出して『どうぞ』ということではないんだろう」などと苦しい説明に終始した。
◆ぼ‐しゅう〔‐シフ〕【募集】 の解説
[名](スル)広く呼びかけて必要な人や物を集めること。「標語を募集する」
類語-------------------
公募(こうぼ) 急募(きゅうぼ) 募る(つのる)
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出典:デジタル大辞泉(小学館)
>>>愛知県職員が保護の高齢者置き去り
報道によると,愛知県津島市にある愛知県福祉相談センターの職員2人が、70代の男性を保護したあとの対応に困り,男性をセンターの管轄外の名古屋市の公園に連れて行き、そのまま置き去りにしていた。職員2人の上司も、当初、置き去りの事実を隠すよう指示していた。
1月17日、大治町でキャッシュカードを持たずにATMを操作していた町内に住む70代の男性を警察が保護し、津島市にある県の海部福祉相談センターに引き継いだ。
この時、男性は会話や筆談ができない状態で、センターの50代の男性職員と20代の女性職員の2人が、上司にあたる50代の課長補佐級の職員にも相談しながら、男性の宿泊先を探すなどしたが、受け入れ先が見つからなかった。
対応に困った職員2人は、深夜にセンターの車を使って管轄外の名古屋市中村区にある公園に男性を連れて行きそのまま置き去りにした上で、公衆電話から偽名を名乗って119番通報した。
置き去りにされた男性は、1月20日、衰弱の症状が見られたため入院し、現在も入院中。
大村愛知県知事は「福祉や医療、人命に関わることで、ゆゆしき事態だ。家族にはおわびしたい。こうしたことは二度とあってはならず、関係の職員を規則に照らして厳正に処分したい」と話している。
福祉相談センターとは
平成20年4月の地方機関見直しにより、生活保護やDVの相談などを行っている福祉事務所と、児童の養護相談などを行っている児童相談所、および障害のある方への相談・手帳等の判定業務などを行っている身体障害者・知的障害者更生相談所を統合した機関である。
>>>海自幹部-女性向け風俗店経営
「自衛隊法第62条で副業が禁止されており、許可がなければ、これに抵触する。」
>>>今こそ「政治の倫理化運動」を
出典:産経新聞 2020-1-28 文芸批評家・新保祐司
昨今の政界の緩みを慨嘆している国民はさぞ多いことであろう。これを改善していくために、後藤新平による昭和初年の「政治の倫理化運動」を思い出してみるのも役に立つのではないかと思う。
≪後藤新平が抱いた危機感≫
後藤新平は、明治から昭和の初年にかけて活躍した「大政治家」である。明治31(1898)年、児玉源太郎台湾総督の下で民政局長(後に民政長官)となり、台湾の近代化に努め、明治39年には、初代の満鉄総裁となる。その後、逓信大臣、内務大臣、外務大臣などを経て、大正9年、東京市長。大正12年9月1日の関東大震災の直後、内務大臣となり帝都復興院総裁を兼務し、大規模な復興計画を立案した。政界引退後は東京放送局(現NHK)初代総裁、少年団(ボーイスカウト)総長を歴任し、昭和4年に死去した。
この人物には、単に政治家に大の字を冠しただけでは収まらない「思想家」としての深さがあった。今日から見て、「時代の先覚者」としてとらえられるのもその故である。
その後藤が、「政治の倫理化運動」を開始したのは、大正15/昭和元年の年の4月からであるが、このような運動を行った背景には、「国難」が来ているという危機意識があった。
関東大震災から半年後の大正13年3月、この年の1月に内務大臣ならびに帝都復興院総裁を免ぜられ下野した後藤は、東北帝国大学に招かれて学生たちに向かって講演をした。それは、翌月私家版の小冊子『国難来(こくなんきたる)』として出版されたが、この小冊子が、ほぼ100年の時を経て昨年の秋に復刻して刊行された。文芸批評家、中村光夫に「百年を単位にして」というエッセイがあるが、とかく歴史を短く考えがちな日本人にとって、長い時間を踏まえて物事の過去、現在、将来を考察することは今日のような文明の深刻な危機の時代においては特に必要である。
≪国難を国難として気づかず≫
「国難」とは、他国からの侵略のみを指すのではなく「平和の仮面をかぶって、ぢりぢり寄せ来る外患や、制度の美装にかくれ人情の弱点につけ込んで、徐々に国民の肉心をむしばむ内憂」にこそあるのだと言い、「真に恐るべきは、目に見える敵国・外患ではない。国難を国難として気づかず、漫然と太平楽を歌っている国民的神経衰弱こそ、もっとも恐るべき国難である」と喝破している。そして、「最大級の国難として挙げざるをえないのは、政治の腐敗・堕落である」と慨嘆している。