9月28日は島津斉彬生誕の日 「斉彬 生誕204年」
篤姫の養父に当たる第28代薩摩藩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)。斉彬公は,文化6(1809)年9月28日,薩摩藩主島津斉興の長男として生まれました。
幕末の名君と敬われる島津斉彬は,西洋文化に強い関心を持ち,洋学にも造詣が深く,先見性豊かな人物でありました。藩主としての期間はわずか7年に過ぎなませんでしたが,その政治,科学に関する識見は後世に大きな影響を及ぼしました。斉彬は,日章旗を国旗に制定した功労者でもあり,照国神社に祀られています。
斉彬は,新日本建設の理想をいだき,西洋文化の輸入に努めました。日本の最先端を行った集成館事業では,洋式の軍艦や大船を建造し,紡績,硝子,陶器,その他各種の近代的産業に着目,富国強兵策に尽力しました。
また,身分を問わず有能な若手人材に志を説き,小松帯刀,西郷隆盛,大久保利通といった人材を登用して維新回天の基礎を築きました。
幕末,小松帯刀は薩摩藩の家老として,大政奉還などを巡り朝廷や幕府を相手に交渉するなどの活躍で知られます。
>>> 「明治日本の産業革命遺産」に登録決定の集成館事業
薩摩藩主・島津斉彬が取り組んだ集成館事業は,「明治日本の産業革命遺産 「九州・山口と関連地域」の一つとして,国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録が決定した。
◆集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)
幕末の1851(嘉永4)年に第28代薩摩藩主に就いた島津斉彬(しまづなりあきら)は,欧米列強による植民地化を防ぐべく富国強兵を実践し,大砲鋳造や 造船を核とした様々な産業を興した。これが集成館事業であり,その事業の核が,1865(慶応元)年竣工の集成館機械工場(現尚古集成館)である。ここ に大砲鋳造のための反射炉や,ガラス工場,鍛冶工場などが建造され,最盛期には1,200人もの人が働いていた。
なお,集成館事業は大砲製造や洋式帆船の建造,武器弾薬といった軍備分野だけでなく,食品製造,ガス灯の実験など,社会インフラの整備など幅広い分野に及んだ。
斉彬の死後,その遺志を引き継いだ,藩主島津忠義(しまづただよし)によって,1867(慶応3)年に集成館の西隣に日本初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所が建設された。併せて,イギリス人技術者の宿舎として,鹿児島紡績所技師館が建設された。
集成館機械工場は,現在国の重要文化財に指定され,その内部は島津家に伝わる資料を展示する博物館「尚古集成館」(しょうこしゅうせいかん)として 公開されている。いま集成館の跡地一帯は,国の史跡に指定されており,敷地内にある尚古集成館には斉彬を撮影した銀板写真(国重要文化財)を含む,集成館 事業 に関する資料などが展示されている。
斉彬や忠義が取り組んだ集成館事業は,「明治日本の産業革命遺産 「九州・山口と関連地域」の一つとして,国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録が決定した。
◆尚古集成館(しょうこしゅうせいかん 旧集成館機械工場)
鹿児島市吉野町9698-1
・TEL 099-247-1511
・入館料 大人 1,000円,子供 500円(仙巌園と共通券)
・開館時間 8時30分~17時30分(3/16~10/31) 8時30分~17時20分(11/1~3/15)
・休館日 年中無休
・アクセス 鹿児島から宮崎に走る国道10号沿い左側
・JR鹿児島中央駅から車20分 鹿児島空港から 車40分
バス:鹿児島シティービュー 仙巌園前(磯庭園前)下車徒歩1分
◆鹿児島紡績所技師館
鹿児島市吉野町9685-15
・入館料:一般200円,小中学生100円
・開館時間:8時30分~17時30分
・休館日:年中無休
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※photeの出所: 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域
http://www.kyuyama.jp/index.html
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kagoshima_03.html
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削られた面に現れるぼかしが印象的な薩摩切子。名工の技が光る逸品です。【復元】島津 薩摩 薩... |
決心した。内政は横暴に流れながら,諸外国に対しては卑屈極まれる。志のあるものが奮って尽力せねばならぬ時は迫れり (島津斉彬)
安政5(1858)年の初夏,幕末が混迷を深める原因となった政治事件が次々と起きた。まず彦根藩主・井伊直弼の大老就任と違勅開国,そして御三卿(ごさんきょう)の一人で当時,数えで22歳の一橋慶喜(のちの15代将軍)を退け,13歳の紀州藩主・徳川慶福(よしとみ14代将軍・家茂)が将軍世子となったことである。
一連の政局に,時代に逆行する徳川幕府の専断と朝廷軽視を痛切に感じた薩摩藩主,島津斉彬は,集成館にシャーフル・ライフル(新式の騎兵用元込め銃)3干挺の製造を命じるとともに,側近の西郷隆盛にこう伝えたという。
「決心した。幕府のなすところ,内政は横暴に流れながら,諸外国に対しては卑屈極まれる。このままでは外国からの抑圧に屈するだけだ。志のあるものが奪って尽力せねばならぬ時は迫れり。ついてはまず天下人心の方向を定めねばならぬ。そのためにはいまは軍事操練に大いに力を入れ,この秋には押し出して事をあげたい。また,かねてからの同志の藩と手を携えて行動を起こすつもりだが,その根回しはほぼ完了している」。
この年の同じ年の7月8日(旧暦)。斉彬は鹿児島湾を望む天保山の調練所での訓練観閲後に体調を崩し,その8日後に急逝。 死因についてはコレラ,毒殺説,赤痢説,あるいは食中毒と諸説あるが定かではない。容体を記した藩医の記録によると,発熱と腹痛に始まり,1日に30回を超えるひどい下痢が続き,1週間後に息を引き取る。自分で釣った魚を鮨にして食べた後,下痢をしたとも記録に残されている。
歴史に「もし」はないというが,斉彬公が水や食べ物に細心の注意を払い,健康管理に万全を期していたなら,日本の歴史は変わっていたかもしれない。
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◆島津氏ゆかりの場
▼鶴丸城(つるまるじょう)-鹿児島城
城壁には西南戦争の銃弾跡が残る鶴丸城。今も石垣や堀,石橋などが残る。島津氏は薩摩入部以来,居城を何度か移転し,島津家18代家久が築いた鶴丸城(鹿児島城,府城ともいう)に移ったのは慶長7(1602)年だといわれている。
それ以前,まず島津氏の5代貞久までは北薩・山門院(やまどのいん)の木牟礼(きのむれ)城(現・出水市高尾野町)に居城があった(当主は在城せず)。
「人をもって城と成す」という精神に基づいてつくった天守閣のない質素な屋形であった。天然の要塞で,その地形から鶴丸城と呼ばれた。
いま,鶴丸城城趾には,鹿児島県歴史資料センター黎明館,県立図書館が建つ。
・アクセス:JR鹿児島中央駅から市電鹿児島駅前行き10分市役所前下車徒歩5分
▼福昌寺跡(島津家墓地)
玉竜山福昌寺(ふくしょうじ)は,島津元久が島津家の菩提寺として創建。いまは,島津家歴代の墓地のみが保存されていう。この寺の十五世忍室文勝和尚とザビエルは深く親交を結び,宗教について大いに語り合ったといわれます。最盛期には1500人の修行僧が修行を行うの南九州屈指の曹洞宗の大寺だったという。1869年(明治2年)の廃仏毀釈により廃寺。
・所在地 鹿児島市池之上町48 (旧鹿児島市北部
・アクセス:JR鹿児島中央駅から市営バス22番葛山行き20分玉龍ぎょくりゅう)高校前下車徒歩3分,上之原行バス25分 玉龍(ぎょくりゅう)高校前下車,徒歩8分