みなさん
あなたにも、家族の思い出って、きっと一杯あることと思います
そしてまた、思い出したくても、あんまり思い出せないくらい、
自分が小さい頃に居なくなってしまった家族のこと・・・
ほんの時々でも、思い出すようにしないと忘れてしまうから、
意識してたまに思い出す家族のこと・・・
・・・ありませんか・・・?
私には、3歳か4歳まで一緒だったおじいちゃんが、そんな家族です。
新宿区西五軒町34番地、これが私が住んでいたところ
今でも、この町の名前はあるのかしら・・・
平屋で、ガラガラと開ける玄関は路地の角から2件目
向かいには、小さなパーマやさんがありました。
庭には、濃いローズピンクの薔薇が、棚のように咲いていたと思います
おじいちゃんは、よくパンのみみを縁側の上の屋根に干し、
乾いて反り返ったみみを集めて、すり鉢でゴリゴリすりおろし
パン粉を作ってくれました
あるとき、三輪車に荒縄をしばって、おじいちゃんに引っ張ってもらい
歩くと15分ほどかかる熊谷組の会社ビルに2歳違いの兄と二人、連れて行ってもらい
入り口のなだらかな傾斜をスーっところがる三輪車のスリルを味わうことを覚えて、
それ以降、休みのたびに、連れてって、連れてってとせがんだそうです
・・・そうです、と書いたのは、・・・余り良く覚えていないのです
なんたって、まだ小さかったから・・・
おばあちゃんは、食事のあと、よくおじいちゃんの食器をお盆に載せて
熱湯をかけていました
どうも、おじいちゃんは胸を患っていたそうで
そういえば、最後の頃は、おじいちゃんの部屋にはずっと布団が敷いてありましたっけ
おばあちゃんは、まめにおじいちゃんのお世話をしていました
私は、おばあちゃん子で、いつでもおばあちゃんのあとにくっついていたので、
おじいちゃんの部屋にも、しょっちゅう行っていた記憶があります
おじいちゃんは、私に、絵本を読んでくれたような・・・
これも、余り覚えていません。
あるとき、おじいちゃんが、ちょっと具合が良くないといって、
布団から起きて、コタツに背を待たれる姿勢になりました
おばあちゃんは、このほうが楽かとか、座布団を背中にあてたら良いとか
色々と、良い按配にしてあげようとしていたと思います
私は、そばに居て、どうしたのかなぁ~と見ていました
おばあちゃんが、ちょっとお勝手に行って、私もそれについて
すぐおじいちゃんのところに戻ったら、
おじいちゃんは、もう、目を閉じたまま、動かなくなっていたのです
あの時の
「あれ、おじいさん、おじいさん。もう、行っちゃったんですか・・・」
という、おばあちゃんの声は、今でも覚えています。
布団の上で、コタツに背を持たせかけ、庭の方を向いて
目を閉じたままのおじいちゃんの首は、うなだれていました
私が生まれて初めて、家族の死を見たときでした
訳もわからず、あふれ出てくる涙を、袖でやたらと拭いていた記憶があります
あれから何十年経ったでしょう
48年?49年?
約50年前の今日、おじいちゃんは天に昇りました
道も舗装されていない、車なんか、お金持ちのうちにしかなかった頃
すぐそばを流れていた神田川は、まだ上に高速道路なんかなくて
都電が走ってて、
上野には、傷痍軍人が白い着物着て軍隊帽かぶって、
アコーデオンで軍歌を弾く人の隣で義手や義足で頭下げてて
横丁の家は、皆鍵なんか閉めてなくて
おかずを余分に作っては、お隣やお向かいに持って行きあって
斜向かいのお宅がテレビを買ったんで、ご近所皆で夜見に行ったりして・・・
まだまだ、そういう時代でした
そう・・・そんな頃、おじいちゃんは少ない想い出を残して
天国に旅立ちました
今日、急におじいちゃんのことを書きたくなったのは、
きっと、おじいちゃんが、たまには思い出しておくれって言ってるのかな
こんなに大きくなった私を、それでも可愛い孫と思って
見守ってくれているんだろうな・・・・
「おじいちゃん・・・」
あなたにも、家族の思い出って、きっと一杯あることと思います
そしてまた、思い出したくても、あんまり思い出せないくらい、
自分が小さい頃に居なくなってしまった家族のこと・・・
ほんの時々でも、思い出すようにしないと忘れてしまうから、
意識してたまに思い出す家族のこと・・・
・・・ありませんか・・・?
私には、3歳か4歳まで一緒だったおじいちゃんが、そんな家族です。
新宿区西五軒町34番地、これが私が住んでいたところ
今でも、この町の名前はあるのかしら・・・
平屋で、ガラガラと開ける玄関は路地の角から2件目
向かいには、小さなパーマやさんがありました。
庭には、濃いローズピンクの薔薇が、棚のように咲いていたと思います
おじいちゃんは、よくパンのみみを縁側の上の屋根に干し、
乾いて反り返ったみみを集めて、すり鉢でゴリゴリすりおろし
パン粉を作ってくれました
あるとき、三輪車に荒縄をしばって、おじいちゃんに引っ張ってもらい
歩くと15分ほどかかる熊谷組の会社ビルに2歳違いの兄と二人、連れて行ってもらい
入り口のなだらかな傾斜をスーっところがる三輪車のスリルを味わうことを覚えて、
それ以降、休みのたびに、連れてって、連れてってとせがんだそうです
・・・そうです、と書いたのは、・・・余り良く覚えていないのです
なんたって、まだ小さかったから・・・
おばあちゃんは、食事のあと、よくおじいちゃんの食器をお盆に載せて
熱湯をかけていました
どうも、おじいちゃんは胸を患っていたそうで
そういえば、最後の頃は、おじいちゃんの部屋にはずっと布団が敷いてありましたっけ
おばあちゃんは、まめにおじいちゃんのお世話をしていました
私は、おばあちゃん子で、いつでもおばあちゃんのあとにくっついていたので、
おじいちゃんの部屋にも、しょっちゅう行っていた記憶があります
おじいちゃんは、私に、絵本を読んでくれたような・・・
これも、余り覚えていません。
あるとき、おじいちゃんが、ちょっと具合が良くないといって、
布団から起きて、コタツに背を待たれる姿勢になりました
おばあちゃんは、このほうが楽かとか、座布団を背中にあてたら良いとか
色々と、良い按配にしてあげようとしていたと思います
私は、そばに居て、どうしたのかなぁ~と見ていました
おばあちゃんが、ちょっとお勝手に行って、私もそれについて
すぐおじいちゃんのところに戻ったら、
おじいちゃんは、もう、目を閉じたまま、動かなくなっていたのです
あの時の
「あれ、おじいさん、おじいさん。もう、行っちゃったんですか・・・」
という、おばあちゃんの声は、今でも覚えています。
布団の上で、コタツに背を持たせかけ、庭の方を向いて
目を閉じたままのおじいちゃんの首は、うなだれていました
私が生まれて初めて、家族の死を見たときでした
訳もわからず、あふれ出てくる涙を、袖でやたらと拭いていた記憶があります
あれから何十年経ったでしょう
48年?49年?
約50年前の今日、おじいちゃんは天に昇りました
道も舗装されていない、車なんか、お金持ちのうちにしかなかった頃
すぐそばを流れていた神田川は、まだ上に高速道路なんかなくて
都電が走ってて、
上野には、傷痍軍人が白い着物着て軍隊帽かぶって、
アコーデオンで軍歌を弾く人の隣で義手や義足で頭下げてて
横丁の家は、皆鍵なんか閉めてなくて
おかずを余分に作っては、お隣やお向かいに持って行きあって
斜向かいのお宅がテレビを買ったんで、ご近所皆で夜見に行ったりして・・・
まだまだ、そういう時代でした
そう・・・そんな頃、おじいちゃんは少ない想い出を残して
天国に旅立ちました
今日、急におじいちゃんのことを書きたくなったのは、
きっと、おじいちゃんが、たまには思い出しておくれって言ってるのかな
こんなに大きくなった私を、それでも可愛い孫と思って
見守ってくれているんだろうな・・・・
「おじいちゃん・・・」