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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

嫌われ者×嫌われ者=人気者(?)

2025-04-02 09:41:39 | 歴史

私が小学生の頃、日本は高度成長の手前で輸入超過だった。その後、行動成長期に入り、1980年頃に「ジャパン・アズNo1」なんて本が出たりした。GNPは上にアメリカがいたし、一人あたりの所得で言えばずっと順位が落ちたからNo1のわけがないのだが、アジアではたしかに優位にあって、その分調子に乗っていたのだろう、C国の偉い人が「(自国を)貧乏な隣国」と言ったとか、K国の映画だかドラマのプロデューサーが「今度のヒロインは洗練されてなければならない。だったら日本人だ」と言ったとかいう話をオールドメディア(当時はオールドではなかったが)が自慢げに報じていた。

それから数十年が経ち、日本はGNPでC国にとっくの昔に抜かれ、累々と屍を重ねる日本の家電メーカーにK国のサムスンがとって代わった。文化的にも、Kポップや韓流ドラマは世界を席巻し、日本の若者やマダム層もこれらの推し活に励んでいる。

その分、近隣国の反日感情は弱まったらしい。反日感情はコンプレックスの裏返しの一面もあるところ、K国の若者にとっては生まれたときから自国の方が日本より上であるからコンプレックスなど微塵もなく、だから反日感情も持つ必要がないらしい。だから、日本文化でいいなと思ったら屈託なく取り入れるのだという。

すると、逆に日本の先行きが心配になるわけだが、小学生の頃に再び戻ると、当時、イギリスは「英国病」とやらに罹っていて停滞していた。だが、鉄の女サッチャーを経て、いつしか病から脱却したから日本も回復があるかもしれない(昨今の何も決められないぐずぐずの政治・社会を見ているとそうそう良い夢は持てないのだが)。

因みに、日本は、薄まったとはいえ近隣国の中で嫌われ者なわけだが、その日本社会の中で私は嫌われ者である(私のことを好きなのは猫二匹だけである)。この場合、嫌われ者の中の嫌われ者、すなわち、「嫌われ者」×「嫌われ者」の解はどうなるのだろう?「嫌われ者」をマイナスととらえると、マイナス×マイナスでプラス(人気者)になる。あるいは、「嫌われ者」を価値の少ない者、例えば1/100ととらえると、(1/100)×(1/100)=1/10000となり、一層嫌われ者ということになる。

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ストリップあれこれ/ヨシとアシ

2025-01-30 16:26:52 | 歴史

あさイチで宮崎を特集していて、天岩戸の説明で、岩戸に隠れてしまった天照大神(あまてらすおおみかみ。「てんしょうたいしん」と呼んではなりませぬ)を引っ張り出すため「さまざまな儀式」が行われたと言っていて、なにが「さまざまな儀式」だよ、アメノウズメのストリップだろうにNHKは「ストリップ」と言えないものだから「さまざまな儀式」なんて言い方をしてるんだよな、大河で吉原の遊郭の話をしてるくせに変なところだけ気を遣っちゃって……と思いながら、そもそもホントにストリップだったのかな?この目でたしかめてみなきゃ、と思って古事記の現代語訳を見て、イザナギとイザナミの国作りのところでは「ちゃんと」「あなたの体の足りないところに私の体の余ったところを入れて子作りをしよう」となっているので、よし、これなら信用できると思って、天岩戸の箇所を読んでみると、おろ?アメノウズメが胸をはだけて、なんちゃらを陰部まで引き下げて踊り狂った、とあるけれど脱いだとは書いてない。これって、激しく踊って衣服が乱れただけなのかもしれない。しかも、それを見ていた神様達は大笑いをした、とある。ストリップを見て大笑いというのも変な話だ。専門の偉い先生は、是非「ストリップだったのかそうでなかったのか」を検証してほしい。

それに対し、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」の七つのヴェールの踊りは、一枚ずつヴェールを脱いでいくから正真正銘のストリップのはずなのだが、これもオペラの演出によってストリップだったりそうでなかったりして、例えば、あるサロメはホントに全部脱いで舞台上ですっぽんぽんになったけど、別のサロメは、ただ舞台をうろうろ歩き回るだけで一枚も脱がなかったから「オペラでストリップも見られるよ」と言って客を呼んだのであれば詐欺である(って呼ぶわけがない)。

浅草六区のフランス座は、かつてはストリップ劇場で、合間にお笑い芸人(渥美清、ビートたけしと言った錚錚たる面々)の漫談やコントが行われていて、ストリップを見に来た客の前で芸をして受けるのは至難の業だが渥美清は大受けだったというからさすがである。その六区をこないだ久しぶりに歩いたら、フランス座の看板からストリップの「ス」の字もなくなっていた。ストリップ業から撤退したそうだ。それに対し、同じ六区の「ロック座」はストリップ劇場として健在だった。そう言えば、以前勤めていた会社と同じフロアーにあった会社の女子社員が仲間うちだけで行く都内巡りの行き先の相談をしていてロック座が候補にあがっていて、一人が「こんな機会でもなきゃ行けないし」と強力にプッシュしているのが聞こえてきた。彼女らが実際にロック座に行ったか否かは知らない。

そのロック座の向かいに今はJRAのWINDS(昔で言うところの場外馬券売り場)があり、そのあたりは以前「ひょうたん池」であったことは前に書いた。

なお、大河の舞台である吉原は浅草エリアの中にあって六区からもそう遠くないと思われる(かつての浅草は、浅草寺と、猿若町にあった芝居小屋と、吉原の遊郭が客の集まるスポットであった)。現在の航空写真で見る吉原は他地区から連続する街並みの一画にあって周りと区別ができないが、江戸の当時はヨシの生い茂る湿地帯の中にぽつんとあったそうな。ヨシが生い茂っていたから「よしわら」なのであろう。因みに、ヨシは、元々はアシと呼ばれていたが、アシは「悪し」に通じて宜しくないということで「ヨシ」になったそうである。「亀無」を「亀有」に変えたことに通じる話である。

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ナイル川と椿三十郎(水流の変更)

2025-01-17 15:49:22 | 歴史

その古代中東の歴史書によると、今、トルコ共和国のあるアナトリア半島にヒッタイトという国があって、その国民はインド・ヨーロッパ語族(現在のヨーロッパ人)に属するということ。同地がトルコ人の国になったのはずっと後のことだという。そう言えば、お隣のイランの人々もインド・ヨーロッパ語族であった。その更に東方のインドもである。

その歴史書にはエジプトのことも載っている。ナイル川が毎年氾濫したおかげで土地が肥えたという話は聞いていたが、その方法は、溢れた水をわざと農地に溜めて(水門を閉めて)水がもたらす栄養分を土地に取り込んだのだそうだ。「氾濫」というと大変な災害を想起するが、その言葉とは裏腹に、当時の農民は積極的に増水を利用したらしい、ということが新発見であった。

ところで、ナイル川は多くの国々を流れエジプトはその最下流にある。現代において、上流の国々がダムをこしらえたためナイル川の水量が減って、エジプトは小麦の一大輸入国になってしまったという。かように、一つの川がいくつもの国を流れていると、ある国が川にしたことが他国にも影響を与えてしまうということも新発見であった。日本のように、源流から河口までが国内で完結していては起こりえない事態である。

ただし、もっと規模を小さくして、水流を小川に、国を個々の邸宅に置き換えればあり得る話となる。例えば、びわ湖の周りの集落では、各家の敷地内に隣から流れてくる水流があって、各家がその水流を家用に利用するのである。私は、その様子をテレビで見たとき、そうか、民法の水流に関する規定はこういう場合に役立つのだな、と思った。その規定の内容というのはこうである。水流地の所有者は、対岸が他人所有の場合は(こっち側だけが自己所有の場合は)その水路又は幅員を変更してはならないが、両岸が水流地の所有者に属するときは(自分とこの庭の中を流れている場合は)水路及び幅員を変更することができ、変更した場合は水流が隣地と交わる地点で元に戻さなければならない(いずれも異なる慣習があるときはそっちが優先する)というものである。

黒澤明の「椿三十郎」を見たときもこの規定のことを思い出した。すなわち、椿三十郎が肩入れする若侍達はある屋敷に身を隠しているのだが、その隣が敵の屋敷であり、二つの邸宅を小川が貫いている。敵側が上流である。椿三十郎は、身分を隠して敵の屋敷に入り込んだ。突撃の合図は、その小川に白い椿の花を流すことであった。私は、映画を鑑賞しながら、あの小川はそれぞれの庭の中を流れているので(両岸とも屋敷の主に属するので)、自分とこの庭の中では流れも幅も変えることができるが、隣の庭との境において元に戻さなければならないんだよな、と思ったものである。因みに、映画のクライマックスで流れて来た合図の椿の花があまりに大量だったので思わず笑ってしまったものだ。

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アムル人とケムール人/アッシュルバニパル

2025-01-17 11:13:41 | 歴史

イスラエルとハマスの間で停戦合意が成立したのは喜ばしい限り。このまま戦火が収まってほしい。他方、私の中東歴史熱は収まる気配を見せず、今も古代オリエントの歴史書を読んでいるのだが……

中学の頃、世界史の参考書にアッシリア(現在のイラクの北部)の王様の名前として唯一書いてあった「チグラトピレセル」(現在は「ティグラトピレセル」と表記するようだ)がどうしても覚えられない。覚えるとっかかりがない。だが、当時は根性があった。しゃにむに暗記に努めたら覚えた。そうやって脳細胞に刻まれた「チグラトピレセル」は半世紀経った今でも忘れることはない。きっと、親の名前を忘れても「チグラトピレセル」は覚えているだろう。ところが、今読んでる歴史書にその名がいつ出るかとわくわくしながら読み進めても一向に出てこない。出てこないままアッシリアの章が終わってしまった。代わりに出てきた王様の名前が「シャムシ・アダド」「アッシュルバニパル」等々。別にググって得た情報によると、ティグラトピレセルは中興の祖ではあったが1番手で覚えるべき名前ではないようだ。私が必死で覚えた名前はそんな程度のモノだったのか。満足感は半世紀経って粉々である。この歳になって「シャムシ・アダド」などどうやって覚えられよう?

そうなると、件の世界史の参考書が恨めしい限り。だが、そういうものだ。「チグラトピレセル」はまだましである。作曲家や曲を解説した中学生向けの本を最近押入の奥から発掘して読んだら、リヒャルト・シュトラウスの代表的なオペラとして「サロメ」「エレクトラ」「バラの騎士」と並べて「グントラム」を挙げていた。よりによって、失敗作との呼び声高く、シュトラウスが自宅の庭にお墓を作って楽譜を埋めた「グントラム」を、である。しかも、「ナクソス島のアリアドネ」「影のない女」「アラベラ」等々の錚錚たる名曲を差し置いて、である。初演こそ失敗したが今では評価されて人気曲(「椿姫」のような)というわけでもない。今でも、上演されることはほとんどない。日本における中東の古代史やリヒャルト・シュトラウスに関する半世紀前の情報量がその程度のものだった、ということだろうか。

とぐだぐだ書いてるうちに、なんとなく「シャムシ・アダド」が覚えられそうな感じになってきた。なお、「アッシュルバニパル」については、そういう名の現役の競走馬がいるから、先に覚えられそうである。

因みに、シャムシ・アダド王はアムル人だという。おお、ウルトラQに出てきたアムール人か!と思ったら、あっちはケムール人だった。

 

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昔は金ぴか

2025-01-03 18:46:46 | 歴史

年末年始は、ブラタモリのほか、お城、ピラミッドを特集した番組を見て、正月気分は皆無。誰とも「よいお年を」「明けましておめでとうございます」を言ってない。ま、年末年始は猫には関係ないし。

そのピラミッドの番組を見て初めて知った話(としよりに、なってもしらぬ、ことばかり(季語のない五七五を川柳という(これも初めて知ったこと)))。ピラミッドは、今では、巨石が向きだしでごつごつした茶色だが、創建当時は化粧石で覆われていて、白くてつるつるだったという。てっぺんは金色だったという。

そう言えば、日本の古墳も、今では木々に覆われて小山のようだが、完成当時は木など生えてなくて石がむき出しでピラミッド同様「巨大建造物」の趣きだったそうな。

木はあっという間に生えるからなー。明治神宮も100年前は荒野で、木を植えるところからその歴史が始まったそうな。それが今ではあのような鬱蒼とした森になるのだから木の成長は速い。私の奥地の家の庭は、庭の草木をすべて伐採したが、2か月後にはかなり草がはえてきた。

そのうち、切り株から芽が生えてくるのだろうか。自分が伐採を経験したものだから、現住所のお向かいの家が一年に一度伐採をするのもこれまでと違う目で見るようになった。おっ、随分切ったなー、てな感じである。

因みに、前方後円墳はなぜ角張った方が前で丸い方が後ろなのかという疑問に対して、かつてどこかの専門家がテレビで「理由はない」と言っていた。その通りなのだろうか。それとも、理由を語る専門家もいるのだろうか。

文化遺産の今昔の話をもう一つ。奥州藤原氏が創建した中尊寺金色堂のことである。金色堂は、昭和の時代に大修復をする前は、金箔ははがれ、痛みもひどく、かなりくたびれた姿であった。それを大修復によって金ぴかにしたのである(それからさらに半世紀経ったので、最近も修復をしたそうである)。ところが、くたびれた姿を見慣れた人の中には金ぴかになってありがたみが減った感じを持つ人がいて、それを言う人もいたらしい。古いモノは古ぼけて見えてこそありがたい、ということなのだろう。私が通った高校のある先生は、そういう意見に異を唱えて「創建当時は金ぴかだった。その当時の姿が再現し、それを見ることができることこそありがたい」と言っていた。

金色堂を昔のように金ぴかにしたのなら、古墳も草木を伐採して昔の姿を蘇らせよう、という話になっても不思議はないように思うが、そうした話は寡聞にして聞いたことがない。

 

 

 

 

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