黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

高血圧のパラドックス

2025-02-23 15:35:53 | 健康

ある日、気がついたらおでこが痛い。鏡を見るとこぶができていて血がにじんでいる。前日か前々日に作ったものらしい。きこしめていたから打ったときは痛くなかったのだろう。酒は麻酔の効きを悪くするがそのものが麻酔である(格言を思いついた喜びで痛みを忘れるワタクシである)。

ちょっと前のトリセツショーで、コーヒーの効用を言っていた。言われなくてもコーヒーは1日5杯飲んでいる。だから、今さら聞くまでもないが、励みになるから(?)聞いてやろうじゃないの。糖尿病予防、肝機能保護?どっちも検診で心配ないと言われている。それとも、ずっとコーヒーを飲んできた効用なのだろうか?さらに聞く。え?痛風発症のリスク低下?これは異な事を聞く。こんだけコーヒーを飲んでるのに発症したのはなぜだ。ここのところは腑に落ちない。

これに対し、チコちゃんで言っていた冷え性の原因には大いに納得した。寒くなって手足が冷えるのは、体の根幹部分の熱を逃がさないため手の血管が閉まるせいなのだそうだ。だから、冬場は暖房費をけちらずに部屋の温度は高めに維持すべきなのだ。私などは、数年前まで、暖房費をけちって寒さに打ち震える自分の姿を修行僧に見立てて悦に入っていたが、おかげさまで毎冬しもやけになっていた。バカであった(あらゆる方面でバカである)。いや、しもやけだけの問題ではない。寒いと高血圧になって脳溢血の危険が増えるという。だから、暖房費はケチってはいけないのだ。と山のように反省し、今では暖房を惜しまず使っている。ただし、それはそれで別のリスクがある。電気代の請求書を見たとき血圧が急上昇して倒れそうになった。物事には良い面と悪い面があるものである。

因みに、「高血圧のバラドックス」という言葉を初めて聞いた。いい薬が開発されているのに高血圧に苦しむ患者が減らないことを言うのだと。なんか変だ。パラドックスという言葉は、私の理解では、良いと思ってやったことが逆に悪い結果をもたらすような場合に使うと思っていて、すると、一般に高血圧の患者が減らないのは単に患者がその薬を飲まないだけのことだからパラドックスにはあたらず、高血圧予防のために暖房をがんがん炊いて電気代の請求書を見て血圧が上がる私の場合こそがバラドックスなのではないか?と思った次第である。だが、大辞林には、パラドックス=逆説とはある条件に対して予期される結果の現れないことを言う、とある。そうか、そんなんでパラドックスになるのか。それならいい薬を開発したのに予期した結果(患者が減る)が現れないことを「高血圧のバラドックス」と言っておかしくないわけだな。と了解した。私が無知蒙昧であった。失礼いたしもうした(本気で謝ってない)。

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新宿駅西口で往生して北○○駅のタクシー乗り場でも往生した件

2025-01-18 10:46:57 | 健康

先週のトリセツショーが痛風をとりあげたのでくいついて見たら「痛風を発症した人は受診しましょう」。結局それ?がっかり。ただ、「牛乳を飲むと発症率が下がる」は新情報であった。

それよりも、今週のトリセツショーはひざ痛についてだったが、「運動しすぎると軟骨が破損して炎症がおきる」には耳がダンボになった。歩くとき膝に150㎏もの負荷がかかるのなら足の指にもかかるだろう。私の痛風は、歩きすぎで発症したのではないか?と疑っていたが、そもそも痛風の発症ではなく、歩きすぎで関節が破損して炎症がおきてるのではないか?という疑問が浮上中である(昨年はたしかに歩きすぎた。一日おき、あるいは連日3時間川辺を歩き回っていた)。とにかく、歩くより自転車の方が負荷がかからず運動ができる、というのは役立ちそうな情報であった。

そんなわけで痛風が治らない。いっときのように夜眠れないほど痛いということはなくなったが、歩くのには不自由なままである。これまで、ゆっくりとしか歩けない高齢者をみるたびにお気の毒と思っていたが、今の私はまさに「お気の毒な高齢者」である。

だが、所属している合唱団の初練習とあれば無理をしても行きたいところ(内輪の発表会も目前だし)。ウチから○○駅まではバスがある。間は電車に乗って、新宿駅西口から会場までもバスがある。よし、決行だ!新宿駅西口は現在工事中で前回バスターミナルにたどり着くのに相当な時間がかかったが、今回は大丈夫だろう。

と思ったら甘かった。前回同様、迷いに迷って30分遅刻する羽目になった。迷う理由が分かった。「西口地上へ」と「西口バス乗り場へ」の二つの案内標識を一緒にしてはダメなのだ。「地上へ」に従って進むと地上には出るがバスターミナルにはたどり着けない。あくまで「バス乗り場へ」に従わなければならぬ。ときどこその標識が雲隠れするが、そこであわてふためいて方向を変えたら運の尽き。そのまま直進すると再び「バス乗り場へ」が現れ、ターミナルにたどり着ける。このことが分かったから次回は大丈夫だ。「三度目の正直」と言うではないか。

だが、これはこの日の苦難の始まりに過ぎなかった。会が終わって会場近くのバス停(予め調べはつけてある)でバスを待つ(終バス時間も調べはつけてある)。ところが、一向にバスが来ない。この夜は特に寒くて凍死しそうである。よくよく時刻表を見たら一時間間違えていた。終バスはとうに終わっていた。仕方なく、最寄りのJRの駅まで歩いた。痛む足をかばいながらえっとこえっとこ歩いて変な力がかかったのだろう、翌朝、痛風の足よりも全身が痛い。

だが、天は更なる試練を用意していた。舞台は私の住む区に移っている。終バスは終わっている。いつもなら北○○駅から25分歩くのだが無理(なぜ無理かって?あのー、ここまで読んでくださった?)。するとタクシー。○○駅からだとタクシーはたくさん来るが2000円かかる。北○○駅からだとタクシーはあまりこないが1200円で済む。私のことを知ってる人なら私がどちらを選んだかは火を見るより明らかだろう。待ちましたとも、北○○駅のタクシー乗り場で。来ない。待てどくらせど来ない。そのうち、次の電車が到達したらしく改札から人が出てきたがまだ来ない。寒さはいやますばかり。このままでは凍死である(?)。ここまで並んで確保してきた「1番乗り」の地位に固執したい気もしたが(離れた途端に他の人が並んですぐにタクシーが来たらシャクである)、意を決して、その場を捨て、近くの大通りまで行ってタクシーを待った。おっ、空車が来た!と思ったら、私と空車との間を黄色い作業車がふさいだため取り逃がしてしまった。作業車は私をあざ笑うようであった。気を取り直して待つとまた空車が来た。今度は捕まえることができた。地獄に仏とはこのこと。仏(フランスではない。「ほとけ」と読んでちょうだい)のドライバーは中国人だった。発音は外国人ぽさが残るがヒアリングは完璧だった。聞くと2年間日本語学校で日本語を勉強したという。2年でこんだけヒアリングができるんだ!すごい!と思い、大いに仏様をヨイショした。「やばい」という言葉が昔は悪い言葉で今は「すごい」の意味だってことも知っていた。接客態度も満点だった。「このドライバーはどうでしたか?」というアンケートが来たら5点満点を付けたところである。

それにしても、その夜の北○○駅のタクシー乗り場は役に立たないことこのうえなかった。信じて待って凍死したら私の遺族の損害賠償請求が認められるだろうか?だが、訴える相手がいないし(被告適格者がいない)、そもそも私に遺族になるような人(原告適格者)がいない。関係ない人が関係ない人を訴えても請求は却下である。かりに、内容が審理されたとしても、信じた私が馬鹿だったと言われて請求が棄却されること請け合いである。

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飲酒決行(痛風のその後)

2025-01-05 15:25:51 | 健康

発症から3週間経ち、痛風の腫れ・痛みはかなり引いたがまだ完治してない。歩くとき足をひきずってしまう(そういう歩き方になってしまったのか?)。そんな状態でカンタータを歌う会の会日を迎えた。普段は会場まで新大久保駅から15分歩くのだが、なるべく歩く距離を短くしたい。調べると近くまで行くバスが新宿駅西口から出ている。よし、これを使おう。時刻とターミナルを確認して西口に向かった。着いた。なんじゃこりゃ?工事をしていて、様相がまるっきり変わっている。どう行けばターミナルに出られるのか分からない。仕方なくぐるっと回ってようやく目の前にターミナルが見えたと思ったら歩道がなく、警備員のお兄さんが渡らせまいとばかりに仁王立ちしている。仕方なく、また地下に戻り、さっきとは逆方向にぐるっと回ってようやくターミナルに着いた。余裕をもって出てきたからよかったが、ぎりぎりの時間を組んでいたら遅刻したところである。そもそも、バスに乗ろうと思ったのは歩く距離を短くしたかったからである。もしかすると、新大久保駅から歩いたのとあまり変わらなかったかもしれない。そんな具合であるから、新宿駅西口からバスに乗ろうとする人は心して念入りに下調べをなさることを推奨する者である。かように、当ブログは世のため人のためになる良いブログである。

さて。この日、人と話すのは昨年のクリスマスイブに痛風で病院に行って以来。お酒を飲むのはもっと久しぶりである。え?完治してないのに飲むのかって?飲むなら乗るな、飲まないのなら歌うな(?)、である。だが、決死の覚悟でもある。痛風が発症した以上は、お酒やプリン体の摂取を控えても意味がないどころか、逆に、発症後に尿酸値を下げると症状が悪化するという(だから、病院ではロキソニンと湿布が処方されただけだった)。だが、曲がりなりにも患部は腫れが残っている。腫れにアルコールがいいわけはない。普段はそんなことを気にしなくても、今回は症状がひどくて夜中に七転八倒したものだから神経質になっているのである。しかし、焼肉を喰らうのであれば、

赤ワインを飲まないわけにはいきもうさん。

だから、最初はそろりそろりと飲み出して、気がついたらブランクを感じさせない飲みっぷり!久々に人としゃべったこともあって杯が進んでしまったのである(杯が進んだのは焼肉が相当に美味であったせいもある。旨いものを食べたのも久しぶりである)。

で、翌朝(今朝)、激痛で目が覚めて、見たら患部が腫れ上がっていた……ということはなかった。結果は「吉」と出たのだろうか……

今回、痛風をこじらせてしまったわけだが、そのことについて、疑問点が二つ。その1。発症したらすぐ受診して適切な治療を受けろ、でなきゃ悪化する、というのだが、上記の通り受診しても尿酸値を下げる薬が投与できず、せいぜいロキソニンが処方されるだけとなると、いったい「適切な治療」ってなんなのだ?ロキソニンが処方されるだけなら市販の薬でもよいわけである(実際、私が行った病院でロキソニンが処方されたのは、私が年末年始を乗り切るだけのストックを有していなかったからである)。

その2。実は、私は、ひそかに昨年歩きすぎたことが痛風がこじれた原因ではないかと疑っている。科学的因果関係など知る由もなく、ただ、状況的にそう思っているのだが、昨日のアフター会でこの話題になったとき、会に参加していた痛風仲間から「『歩きすぎると発症する』と言ってる人がいる」との証言を得た。証言者は痛風経験者であり医者ではないから、これは鑑定人の鑑定意見ではなく証人の証言であり、証言の証拠価値をどう見るかは裁判官の自由心証に委ねられるのであるが、私にとっては、これは重大証言である。

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杖(痛風の友)

2024-12-25 09:54:35 | 健康

この杖は、母が使っていたものである。

病院に行く母に付き添ったときいつも見てたヤツ。母が病院に置き忘れたこともあったが回収して、結局、私が「相続」することとなった。形見のつもりで自分が使うことはないだろうと思ってたら、なんとなんと、今回多いに役立ってくれた。というのも、いつもなら1週間を過ぎると快方に向かう痛風が逆に威力を強めていて(本土に上陸しても威力を落とさない台風のよう)、特に寝ようと横になると激痛が走り寝られない。観念して病院に行こうか?でも、痛風で病院に行っても結局ロキソニンを処方されるだけ、という話もある、だったら、市販のロキソニンでよいのではないか、しかし、この痛さは耐えがたい、もしかしたら尿酸値を下げる薬とかをくれて、それで軽快するかもしれないとか考えて、「溺れる者は藁をもつかむ」で病院に行くことを決意。ところが、一歩玄関の外に出ようと思ったら一歩も歩けない。家の中では裸足でどうにか這いずり回っているが(猫の世話があるので)、靴を履くとなると痛い方の足がちょっと地面につくだけでも激痛が走る。どうしよう。すると、玄関の傘入れに挿してあった「母の杖」に目が留まった。これだ。使い慣れてないから上手く歩けたとは言い難いが、これなしには病院にはたどり着けなかったろう。「今回多いに役立ってくれた」とはそういうことである。杖をついたときのコツコツという音を聞くのは久しぶりである。

で、診察を受ける。やはり聞いていた通りであった。(先生)「ロキソニンを飲んでる?まだある?年末年始で足りなくなるか。じゃ、その間の分を出しときますね」。なんでも、尿酸値を下げる薬は腫れが引いてから飲むべきで、症状があるときに飲むと逆に症状が悪化するおそれがあるという。あ、その話、聞いたことがある。尿酸値が下がる過程で痛風発作が起きる、これは避けられない関門である、という話である。私自身、最初に痛風の発作がおきたのは禁酒をしたときだった。というわけで、結局、ロキソニンと湿布を処方してもらって、痛い足を引きずって帰宅した。まあ、薬局で市販のロキソニンを買うのも制約があったりするかね(以前、ある薬局に追加で買いに行ったら「市販の薬は受診するまでのつなぎです。早く受診してください」と言われた)。今回、年をまたいだ後の分もゲットできて少し嬉しい。ちょっと治った気分……と思ったら、夜中には相変わらずの激痛であった。

今回、尿酸値を調べる血液検査をして、先生も「どーせ値は高いんだろうけど」と言ってて、私も同感で、腫れが引いた頃に検査結果をふまえて今後どーするか(尿酸値を下げる薬を飲むか)を相談するということなのだけど、次の診療日って言われてないな。電話がかかってくるのかな?私、電話には出ないんだけど。なんか、そのままになっちまいそう。

それでも、今回だけは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」にはしないつもり。真剣に食事を考えよう。ビールは既に飲んでない(サワーに代えている)。鶏肉も最近控えている。肉よりも魚の方がまだ良いか?と思って、イワシのフライを作ったりしたが、

なんと、イワシやカツオはプリン体を多く含み痛風に悪いそうだ。知らないとは恐ろしい。そんなことをやってたから症状が悪化したのかも。まてよ。尿酸値を下げる薬を飲むと症状が悪化するということだったな。ってことは、イワシのフライを痛風発症後に食したことは良かったのだろうか、悪かったのだろうか。さすがに、この数日禁酒しているのだが、それで症状が悪化したのだろうか。だが、この腫れた足を見たら、どんな酒であろうとアルコールを摂る勇気はない。

実は、○日前(○には整数が入る)は私の誕生日で、貧乏な私でもこの日だけは誰憚ることなく……もともと人間は一人だから憚る人はいなかった……もとい!お天道様に憚ることなく「ちゃんとした」レストランで(ちゃんとしてないレストランってどこだ?)自分で自分を祝ってあげようと思っていたが、この事態だからお預けになっている。それどころか、この状態が続く限り家にあるモノで食いつながなければならぬ。米は買ったばかりでたくさんある。米ばかり食べて脚気になったらどうしよう(って、いくら何でも脚気になる前には腫れはひくだろう)。

病院は人でいっぱい。看護師さんと患者が「熱が39度」等々と話している。インフルエンザが大はやりらしい。コロナに罹った人もいるだろう。ウィルスが跋扈してそうな空間ではあるが、私は区のタダ券でインフルとコロナの予防接種を受けているからまあ大丈夫だろうと思っている。

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痛風に加持祈祷!?

2024-12-17 13:04:00 | 健康

道長が危篤になって、加持祈祷が盛大に執り行われた(大河ドラマの最終回)。源氏物語を読んでいても、偉い人が病気になると必ず「加持祈祷」という話になる。現在の「病院に行って薬をもらう」に相当するのが「加持祈祷」なのであろう。病気になって加持祈祷が盛んに行われるのは偉い人だけ。不平等は世の常である。まあ、それでも加持祈祷はなんの役にも立たなかったわけだが。

「光る君へ」は毎回見た。平安時代は武士が台頭してくる末期がよく映画・ドラマで描かれるが、平安時代のど真ん中を描くものってあまりなかったと思う。いまいち宇宙人のような印象だった当時の人も、現代人と同様に、ご飯を食べ、軽口をたたき、ぶちぶち文句を言ってたんだなー、と思えてよかった(当たり前だが)。源氏物語がいっそう面白く読めると思った。

堂々と不倫を描く大石静の脚本も潔かった。紫式部の娘・賢子(ドラマでは「かたこ」と呼んでいたが「けんこ」の可能性はないのだろうか)が実は道長の娘という設定を史実だとする学者ははたしているのだろうか。道長と紫式部のラブシーンも何度かあった。源氏物語では、そういうシーンは行間に隠れていて、うっかりすると見落とすのであるが(え?いつやったの?って感じ)。だからというわけではないが、私は、本ドラマのラブシーンは好かんかった。江戸時代だったら儒教でがんじがらめで紫式部も貞女ってことになってたからこんなドラマは無理だったろう(もともとテレビがない)。

なお、私は現在痛風闘病中である。だが、偉くないから加持祈祷をやってはもらえない。だが、やってもらっても役に立たないから結構である。役に立つのはロキソニンである。だが、ストックが切れた一昨日の日曜日、私は、ロキソニンを求めて町中をちゃりで走り回った。ようやく売ってる店をさがしあてて買えたときは1時間半経っていた。汗をかいていい運動になり痛む足以外はいっそう健康になった。痛む足はいっそう痛んだ。

いつもだと、痛風は2,3年に一度発症するのに、今年は半年で3回目である。何がいけないのだろうか?鶏肉犯人説のほか、最近浮上したきたのが納豆犯人説である。健康にいいと聞いて毎昼納豆を食べ始めたのだが、納豆もプリン体を多く含み、食べ過ぎると痛風の原因になりうるが、通常の量では「食べ過ぎる」ことはないとも聞き、現在のところ、容疑者とまではなっておらず「参考人」程度の扱いである。

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