黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

コラールの成り立ちVol.8カンタータ第94番

2024-12-25 18:10:35 | 料理

いちど一段落した「コラールの成り立ち」シリーズだが、再開することにした。ブラタモリも来春復活することだし。ただし、ブラタモリは視聴者の熱い要望によって復活するのであるが、私のコラールシリーズは誰にも求められてないのに押し売りのように復活するものである。

今回のお題はカンタータ第94番(BWV94)。月に一度、仲間で集まって、バッハのカンタータの中から一曲選んで練習なしで3回ぶっ通して歌う会があって、その会の次回のお題曲である。終曲のみならず全体が元曲であるコラール又はその変奏から成っている曲(コラール・カンタータ)で、かつ、その源流(元曲)をたどる旅がなかなか数奇。本シリーズにうってつけである。

そのコラールとは、バルタザール・キンダーマン(Balthasar Kindermann(1636~1706))の……ということはコラールのいつもの例のごとくこの人が作詞をした、という意味であるが……「Was frag ich nach der Welt」(世に何を問う?)であり、こういう曲である(歌詞は第1節。メロディーはBWV94の終曲。なお、同終曲で使用しているのは第7,8節である(後述))。

第1節の直訳(拙訳)は「この世を、そして、その宝物を気にかける必要があるだろうか、もし、私が、主よ、あなたの傍らで喜んでいられるのなら。私は、あなたを唯一の喜びと定めた。なぜなら、あなたは私の憩いだから。この世を気にかける必要があるだろうか?」である。

8節ある歌詞はすべてそのまま、又はアレンジして使われる。すなわち、
第1曲は合唱で、ソプラノパートが第1節をこのコラールのメロディーに乗せて途切れ途切れに歌う。合間に入る器楽は技巧的なフルートのパートが目立つが背後の弦楽器が奏でるメロディーは元のコラール由来である。
第2曲はバスのアリアで、第2節をアレンジした歌詞を歌う。
第3曲はテナーが一人二役でコラール(第3節)とレチタティーヴォを歌う。コラール部分のメロディーは、3拍子にアレンジされているが元のコラール由来である。
第4曲はアルトのアリアで、第4節をアレンジした歌詞を歌う。
第5曲はバスが一人二役でコラール(第5節)とレチタティーヴォを歌う。コラール部分のメロディーは、アレンジされているが元のコラール由来である。
第6曲と第7曲はそれぞれテナーとソプラノのアリアで、歌詞は第6節をアレンジしたものを分割して割り当てたもの。第7曲のメロディーは一見元のコラールとは別曲に見えるが、根っこはコラール由来である(と、私は思う)。
そして、終曲(第8曲)でコラールは全容を現し、合唱が第7節と第8節の歌詞を元のコラールのメロディーで歌う。

では、その元曲であるコラール「Was frag」のそのまた源流へ遡ることとしよう。詩はここまでである。この先に源流があるのはメロディーであり、それはヨハン・ヘールマン(Johann Heermann(1585~1647))が作詞をした「O Gott, du frommer Gott」である。この賛美歌は、そのメロディーを「Was frag」のほかにも多くの賛美歌に供給している製造元である。供給先の賛美歌にはそれぞれの歌詞とタイトルが付せられ(OEMのよう)、それがさらにバッハのいろいろな曲の元曲になっている。例えば賛美歌「Gelobet sei der Herr」はBWV129の、同「Ich freue mich in dir」はBWV197a(第7曲)の、同「O Jesu,meine Lust」はBWV128(第5曲)の元曲である、という具合である。「Was frag」もBWV94のほか、BWV64の第4曲の元曲になっている。そして、その元曲の元曲が「O Gott」というワケである。

ところが、その「O Gott」についてはまだ先があった(製造元自身が下請けから供給を受けているごとし)。それは「Die Wollust dieser Welt」という賛美歌である(注1)(注2)。この「Die Wollust」の作詞者は、ヨハン・ヤコプ・シュッツ(Johann Jacob Schütz(1640~1690))。有名なハインリヒ・シュッツとは別人である。

これで終わりではない。メロディーについてはさらに先がある。それはアダム・クリーガー(Adam Krieger(1634~1666))の世俗曲「Seit daß der Tugend Pfad hat Hercules betreten」 であり、そのメロディーをアハスヴェルス・フリッチュ(Ahasverus Fritsch(1629 ~1701))がシュッツの詩「Die Wollust」(上記)にあてはめて賛美歌に仕立て上げたのである(注3)(注4)。世俗曲が宗教曲になるって話は「血潮したたる」を始めとしてよく聞く話である。これでようやく最上流にたどり着いた。筑波山の山頂近くのちょろちょろした水流を見る思いである。

以上の流れを相続関係説明図風に表すと次のとおりである。

なお、上図で多くの賛美歌がメロディーの供給を「O Gott」から受けているが、同時に、彼らは他からもメロディーの供給を受けている。すなわち、「O Gott」はあっちにもこっちにも通いまくって関係を結んでいるが、その「あっちやこっち」には他のメロディーも通ってきている、ということである。まるで、平安時代の婚姻事情である(?)

筑波山の山頂近くの水の流れってどんなだ?って声が聞こえた気がしたので、載せておく。

え?誰もそんなことを言ってない、空耳だ、でっちあげだって?そんなに声を揃えて言わなくてもいいのに……

注1:http://www.kantate.info/choral-title.htm#Die%20Wollust%20dieser%20Welt
注2:バッハ・コラール・ハンドブックP204
注3:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Die_Wollust_dieser_Welt_(Krieger-Fritsch_1698).jpg
注4:https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:O_Gott,_du_frommer_Gott_(third_tune)

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皿ごと蒸す/冬至と柚子/朝ドラを見る生活習慣

2024-12-22 14:06:48 | 料理

昨日は冬至。一年で昼が一番短い日。これからどんどん日が長くなって、歩き回れる時間が増えるというのに痛風で歩けずにいる。これでは、年内に筑波山に行くのは無理そう。私に会うために筑波山の山頂で待ってても無駄そうだからやめておきなね(元々そんな人はいない)。

知人から柚子をいただいた。ありがたい。2,3日前に「あさイチ」の「ごはんだよ」コーナーで、ブリの柚子香蒸しを紹介してたからそれを試そう。柚子は冬至にお風呂に入れるものらしく、下さった方もそのために下さったようだが、もらってしまったら用途はこっちのものである。有り難い柚子を烏の行水にちゃちゃっと使うだけ、というのはいかにももったいない。

蒸し料理って、蒸し器に具材を乗っけて作るものだと思ってたら、件の「あさイチ」では、お皿にブリと柚子を交互に円形に並べて(中央にしめじを乗せて)、そのお皿ごと蒸し器に乗せて蒸す、というやり方であった。へー、そんな方法があるんだ!試してみた。

たしかに蒸せた。でも、肝心のお味は、番組でゲストの横澤夏子さんが「おっいしー」と言ってたほどではなかった。もちろん私の腕の問題だろう。下味を付けて30分寝かせるところ3分しか寝かさなかったし。因みに、横澤夏子さんは表情がとっても豊か。朝ドラ受けでよく大泣きしてるし、経理システムのCMでは切れまくってるし。演技力がおありなのか、もともと感情豊かなのか、両方なのかは知りません。結構、ファンです。

最近、「オールドメディア」と言われて旗色の悪いテレビだけれど、料理番組や紀行番組は、おしつけがましいコメンテーターがいないんで見ている(コメンテーターがおしつけがましい、というよりも、自分が言いたいことを代弁してくれるコメンテーターを連れてきて専門家に祭り上げるテレビ局がおしつけがましいんだと思う)。来春からのブラタモリ復活も楽しみである。ドラマは是々非々。いいドラマなら見る。現朝ドラは、ようやくギャルシリーズが終わって栄養士の話になったぽいから見れる(あれ?「ら抜き表現」って注意書きが出なくなったぞ)、毎日の朝ドラ視聴が私の本来の生活習慣だしー、と張り切ってつけたら栄養士になったヒロインが「一生ギャル!」って言っててがっかりした。結局、現ドラが続く限り私の生活習慣は元に戻れないっぽい。と思ったら、お昼に現ドラの再放送の直前に放送している「カムカムエブリバディ」は初回放送時に完走したから今回はいいやと思ってたのに、ちらっと見たらヒロインが気の毒で気の毒で見逃せなくなってしまった。ということで、私の生活習慣はお昼に復活している。

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まるで動物園(フィガロのアリア)

2024-12-21 13:41:17 | 料理

「フィガロの結婚」で一番有名なアリアは第1幕でフィガロが歌う「もうとぶまいぞ、この蝶々」だろうが、フィガロが歌うアリアなら第4幕のアリアがたいそう笑える。新婦のスザンナが浮気したと誤解したフィガロが、世の女性に対してありったけの罵詈雑言を浴びせる歌である。

フィガロは、罵詈雑言の方法として女性をいろいろなモノに例える。例えば、魔女、人魚、フクロウ、彗星、バラ、キツネ、クマ、ハト等々……まるで動物園。まあ、魔女は分かるとして、一見なんでこれが魔女と同列なの?と思うものもある。例えば「人魚」。アンデルセンの童話の人魚姫は木村多江的、つまり薄幸だが、ここでは「Sirene」、つまり、きれいな歌声で船乗りを惑わして遭難させる「セイレーン」のことだと分かればガッテンである。因みに、「セイレーン」は「サイレン」の語源である。

フクロウ(civetta(e))には「色気で男を陥れる女性」の意味があるそうだ。意外である。
明るく輝く彗星がなぜいけないかというと、光を奪うからだという。理屈をこねればなんでも悪口になってしまいそうである。
バラはトゲがあるから、ということは容易に想像できる。

キツネ(volpe(i))には「vezzoso(e)」という形容詞が付いている。この形容詞は、「愛らしい」のほか(これだと悪口にならない)、「しなをつくる」という意味があるからそっちだろう。だが、もともとキツネに「しなをつくる」イメージがあるのか、それともこの形容詞が付いて初めてそういう意味になるかは浅学な私には不明である。なお、ヤナーチェクのオペラの「利口な女狐」などは、たしかに魔女と同列でしかるべきである。

同様のことが、ハト(colomba(e))にも言える。「maligno(e)」(意地悪な)という形容詞がついているが、もともとハトに意地悪な側面があるのか、それともこの形容詞がついて意地悪になるのかは浅学な私には不明である。いずれにせよ、一面では「平和のシンボル」に祭り上げときながらここではこの扱い。人間とは勝手なものである。

分からないのがクマ(雌熊=orsa(e))。「くまのプーさん」ではなく秋田のスーパーに入ってたてこもったクマの同類でしょ?と思ったら、「benigno(e)」(温厚な)という形容詞がついている。「温厚なクマ」、まさにプーさんである。魔女と同列の理由が不明である。因みに、秋田のスーパーに入ったクマは立て籠もった先が食べ物の宝庫だからなかなか出てこなくても不思議はなかった。罠にかかった後は、電気ショックで駆除されたという。せめて、供養に食べてあげたら?と言う人もいたろうが、麻酔銃を使っているので食べることはできず焼却したそうである。因みの因み、大正時代の話だが、某村に大惨禍をもたらした人食いグマの肉を、駆除後にその村の住人がしきたりに従って食ったそうだ。

このアリアを、日本語の訳詞で聞いたことが何度かあるが、その中で、一回聴いたきりだが強烈だったのですっかり覚えてしまったものがある。出だしはこうである。

原詩は「ちょっと目を見開け!」である。逐語訳にはなってない。中間部にはこんなくだりが出てくる。

原詩は、「(女は)男が苦しむように魔法をかける魔女」であるから、こちらは、かなり逐語訳的で、かつ、うまく音符に乗せている。と、感心する一方、こんな歌を歌ったら怒られるんじゃないの?とも思った。半世紀近く前でもそう感じたのだから、ジェンダー平等が強く言われる今なら百叩きの刑……という世相に一石を投じたのがドラマ「ふてほど」である。年末に一挙再放送するという。考えてみれば、イタリア語の原詩で歌われたら「高尚な音楽!」とか言ってすましておいて、日本語になって意味が分かった途端に文句を言うのも変である。

一般に、訳詞で歌う場合、直訳のままだと言葉が多くなって音符に乗せるのが大変。チコちゃんで、秋川雅史さんが「ジングルベル」を直訳した歌詞で歌っていたが、まるで早口言葉。それを見事に歌っておられた。

この歌を誰で聴きたいかと言えば、それはヘルマン・プライである。フィガロといえばプライ。前回の記事に書いたベーム指揮の映像のフィガロも、そしてウィーン国立歌劇場の初来日の際のフィガロもプライであった。そのとき、スザンナを歌ったのがルチア・ポップである。

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冷やご飯

2024-12-13 11:37:36 | 料理

買ってからじわじわ順位を上げ最近は今年の買い物ベストスリーに入るいきおいのミニクッカー。毎日1合炊いて2食で食べきっている。2食目は冷やご飯。これが美味しい。圧力鍋で炊いてた頃は、一度に多量に炊いて小分けにしてラップに包んで冷凍し、食べるごとにチンしてたから冷やご飯を食べる機会はなかった。

冷やご飯であることは写真で分かる。


カタチになっているのは冷えて固まっているからである(冷やご飯のカタチで占いができる?)。

ご飯について一つ疑問。最近は精米技術が進化してるから一生懸命研ぐ必要はない、一回程度たら~とすればいいと聞く一方で、料理人は今でもごしごし研いでいる。私は、無洗米でないにもかかわらず一回たら~っとすら研がないですぐミニクッカーで炊き始めている。もともと、銘柄不明の安い古米だからそんなところでよいだろうとたかをくくっているのである。

そんな銘柄不明の古米ですら物価上昇の波が押し寄せている。激安スーパーで米を買って会計をしたら8000円を超えていた。なんかの間違いか?と思ったら間違いではない。米の価格(10㎏で5000円超え)が全体を押し上げたのである(なお、地名の「押上」は昔の海岸線で波が陸を押し上げていたから付いたという)。それでも、5㎏にすると2500円超は一般と比べるとかなり安い。さすが、銘柄不明の古米である。

江戸時代に起きた米価高騰による打ち壊しのときは、短期間に米価が4倍になったという。日本史上最も有名な米騒動は1918年(大正年間)でそのときは3倍だという。現在は2倍弱だが当時とは食糧事情が異なる。当時は米が主食であった(今でも主食?でも比重が違う)……どころでなく、江戸時代の江戸っ子は米飯ばかり食べていた(だから脚気になった)。その米の値段が4倍になったと言ったら、これは大事(おおごと)である。打ち壊しが起きるわけである。だが、大変統制のとれた、秩序正しい打ち壊しだったそうである(NHKの「英雄達の選択」より)。「打ち壊し」と「秩序正しい」は二律背反の感じもするが、そこが両立するのが日本人である。

「冷やご飯」から「ご」をとると「冷や飯」(ひやめし)になって、思いっきりネガティヴになる。

なお、私も銘柄米の新米を炊く機会があれば(生涯訪れるか不明だが)、そのときはしっかり研ぐ所存である。

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半身浴/釜ゆで

2024-12-11 11:54:37 | 料理

12月も、はや3分の1が過ぎて街路樹の銀杏はこないだまで緑が混じっていたものがまっ黄っ黄。ウチの冷蔵庫の野菜室も色づき始めた(もともと見切り品だから足が早い)。天ぷらにして使い切ろう、だったら油を使うんだから鶏を唐揚げにしよう。天ぷらと唐揚げは、「類」は違えども同じ揚げ物であるから「種」は同じ。油の入った鍋を使って連続して作れる。ということで実行。

その油のことだが、例によって前回の残り油を廃油缶に戻したヤツを使うのだが、キャラメル色が相当濃くなってきて、食した日の夜中、胃の不快感で目がさめることもある。そろそろ限界のようだ。捨てよう……などという発想は私にはない。使い切ろう、である。すなわち、これまで減った分だけ新しい油を足して量を維持してきたが、足すのをやめた。すると、だんだん食材全部が油に浸からなくなってきた。どこかで見た光景だと思ったら私のお風呂の様子である。お湯をけちって15㎝しかはらないから体の半分が湯上に出ているのである(半身浴。これはこれで健康に良いとも聞く)。だから、ときどき体を回転させて体全部がお湯に浸かるようにする。同様に、油の中の具材もときどき回転させて全部が揚がるようにする。これで十分である。そして、ついに油を使い切った!次回からは「澄んだ」油で揚げられると思うと感無量である。

「ごはんだよー」に出演した某料理家も、NHKの人から油をあまり使わないように、と言われたそうで、頭の出た具材に一生懸命油をかけていた。

ただし、少ない油で揚げ物をすると、火が出るおそれがあるそうだ。だから、ずっと、横にはりついていなければならない。

なお、私が揚げ物に使っている鍋は、コレ。

金属製だし大きさが一人用にちょうどいい。だが、もともと何用の鍋かは不明である。以前は、レトルトカレーを湯煎するために使っていた。

因みに、石川五右衛門は、一族郎党もろとも秀吉によって釜ゆでの刑に処せられたが、そのときは熱湯ではなく油を使ったそうである。人間素揚げである。中には五右衛門の年端もいかない子供も含まれていたそうである。子供と言えば、信長が浅井を討ったとき、秀吉に命じて、浅井の長男の万福丸を串刺しにした。釜ゆでといい、串刺しといい、残虐刑を絶対に禁止する現在の日本国憲法から見れば許されざる行為である。そう言えば、故西田敏行が秀吉を演じた「女太閤記」で、万福丸を「串刺しにしたあ」とあっさり言う前田吟演じる蜂須賀小六に対して西田秀吉が「なんてことを」と言って嘆くシーンがあった。私は、主人公を「心優しき善人」にしておきたい脚本のあざとさを感じたものであった。

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