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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

母ネタVol.5ペースメーカー(雉も鳴かずば打たれまい)

2024-12-09 11:05:35 | 家族

母が病院に通ったのはペースメーカーを入れていたからである。ペースメーカーを入れた人は、毎日血をさらさらにする薬(ワーファリン)を飲まなければいけないから、定期的に病院に行って薬をもらう必要があるのである(血液が金属に触れると固まるという話をなんかで聞いた。ワーファリンはそのために飲むんだな、と独り合点した)。

ペースメーカーを入れたきっかけは、「めまい」である。母は「めまいがする、めまいがする」と愁訴しては病院を渡り歩いたが、どこでも「異常なし」で追い返されていた。そんななか、「めまい」とは関係なさそうな心臓の欠陥が見つかった。病院はペースメーカーを入れることを勧めた。入れないとぽっくり逝く可能性があるという。そう言われたら普通の人は断れないだろう。まして、母は、何事も他人任せの人だったから断るという選択肢はなかった。

認知症は薬が飲めなくなって発覚する、と言われるが、母の認知症が発覚したのも薬がきっかけである。ある日、母から電話があって薬がなくなったという。え?決まった量より余計に飲んじゃったの?と思って病院に連絡したら、薬をもらいに行くはずの予約日を母からキャンセルしたという(母はそのことを覚えてなかった)。で、その日のうちに私が同行して病院に行き、後で私だけ診察室に呼ばれて先生が言うには「認知症だ、間違いない、この後大変なことになる」とのことだった(その予言は正しかった)。

認知症が進行して、施設でケアプランをたててもらうようになったのは(Vol.1参照)、この後のことである。その際、診療も施設に往診に来ている先生にしてもらうことになった。足腰の弱った母をタクシーに乗せて病院に行くのは重労働になっていたから往診の先生に診てもらえることは何にも増してありがたいことだった。そのために、病院の先生に、施設の先生宛の所謂「紹介状」を書いてもらう必要があったので、そのことを病院の先生に言うと、先生は事情を察してこころよく紹介状を書いてくれ……なかった。かなりお怒りになり、嫌みを並べ立てた。それでも、一応、紹介状を書いてくれた。

その後も、ペースメーカーの作動チェック等を元の病院でしてもらっていたので縁が切れたわけではなかった。そのうち、ペースメーカーの電池が寿命なので取り替えることになり、そのための手術を要するから2泊入院することになった。手術は無事成功。そのとき先生から「これまでペースメーカーはあまり作動してなかったようなので(つまり、心臓が元気でペースメーカーのサポートが不要だったので)、このたびは消費電力を抑えて13年もつようにした」と言われた。じゃ、なんのためのペースメーカーか?そもそも入れる必要があったのか?と納得のいかない私であった。

その翌日のことである。病院から電話があった。母が徘徊して手がつけられないから引き取ってくれ、という内容だった。だからって追い出すの?じゃ最初から1泊で良かったんじゃん、とここも納得のいかない私。とにかく、母を施設に連れ帰った。

施設の往診の先生は大変良くしてくれて大いに助かった。ただし、ときたま、その先生が来れないときがあって、代わりの若ーーい先生が来るのだが、その先生は、ちょっとでも異常があるとすぐに私に電話をしてきて「大きな病院に行って診てもらってくれ」と言う。え?おたくで分からないの?そのための往診じゃないの?しかも、それがゴールデンウィークにあたったりすると大病院も開いてない。途方にくれてるうちにいつもの先生と連絡がついて「それ、ウチで診察できるから(大病院に行く必要はない)」とのこと。でしょー?きっと、あの若い先生は自信がなくて判断できないもんだから大病院に行けと言ったんだと私は思っている。

母が「老衰」でなくなったのは、ペースメーカーの電池を交換して「13年持つ」と言われたその半年後である。

そういう母をみてきて、私が心に決めたことがある。ペースメーカーはどんなに勧められても絶対に入れない、ということである。そもそも母がペースメーカーを入れたのは「めまいがする」と愁訴したせいである。それがなければ、(結果的に)役に立つことがなかったペースメーカーなど入れずに済んだだろう。「雉も鳴かずば打たれまい」である。

最近、私もめまいらしきものを体験した。ああ、母が言っていたのはコレか?と思った。だからと言って大騒ぎして「雉になって打たれる」=「ペースメーカーを入れられる」ようなことはしない。それよりも、最近はめまいの専門外来ができてきたからそっちに行く方が百倍ましだと思う。駅へのバスの車窓からも「めまい」を謳ったクリニックが見えるから、よっぽどひどくなったらそこへ行こうと思っている。

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母ネタVol.4混浴温泉

2024-12-08 14:34:58 | 家族

そのドイツ人の先生こそ(二つ前の記事参照)、お風呂に入るための裸とそれ以外の裸を別のものと言ったドイツ人女性(11/16の記事参照)である。その発言は、ドイツのドイツ語学校が企画したチェコへの遠足(バスを使った。私は不参加)に参加したクラスメイトが「混浴温泉もあったが裸にならなければいけないので入らなかった」と言ったときに出たものである。

因みに、その遠足の最中に一行が入ったレストランで、一行がドイツから来たと聞いた給仕がサービスを拒んだという話が出た。当時、理由がよく分からなかったが、先日、第二次大戦終了直後に東ヨーロッパに住んでいたドイツ人が迫害され追い出されたドキュメンタリーをテレビで見たから今ではなんとなく分かる。いまだに、ドイツ人は、東ヨーロッパで嫌われているということらしい。「いまだに」と書いたが、私がドイツの語学学校に行ったのは35年前だから、状況が変わってるかもしれない。30年は一昔である。

そのドイツ人の先生が東京に来たとき居酒屋に行った話を書いたが、ちょっと「アレ?」と思ったのは、そのとき先生は短期の合宿で日本人にドイツ語を教えるために来日していたのだが、夜、お風呂に生徒と一緒に入って生徒と一緒に真っ裸にならなければいけなくてイヤだったと言ってたこと。もちろん一緒に入ったのは同性(女性)のみである。混浴でさえも「お風呂に入るための裸は別物」と言った先生がどうしたことだろう。ただ、分かる気もした。私も、ドイツで混浴温泉に裸で入ったとき、周りのドイツ人に注目されてる気がして恥ずかしかった。先生も、周りの日本人に注目されてる気がしたのかもしれない(ただし、日本人の毛は黒いから局部の位置がピンポイントで分かる点で、より恥ずかしいとも思う)。

さて、これからが母の出番である。日本の混浴温泉には子供時代に入ったことがある。子供の頃、毎夏父の実家への里帰りに家族が同行したのだが(それがわが家の唯一のレクリエーションだった)、ある夏のこと、たまたま親戚一同が父の実家に勢揃いしたので、温泉に行こうということになった。その温泉、脱衣場は男女別だが、その先の大風呂は男女混浴。親戚一同は老若男女の別なく、なんのためらいもなくすっぽんぽんになった。そんな中で、裸を断固拒否したのが母だった。父に、みんなの交流場なんだから恥ずかしがることないだろ、と言われても絶対脱がなかった。なんとシミーズを着けたまま温泉につかった(マナー違反)。そういやー、母は、若い頃は脱ぐのがいやだと言って病院にも行かなかった。そんな母も80を超えてからは、病院に行きまくって脱ぎまくっていた。人間、歳をとると前頭葉が退化して恥ずかしさが薄れると聞く。つまらない駄洒落を言うのもそのせいだという。私が、駄文を弄して平気なのもそのせいかもしれない。

因みに、ネット情報では、現在、混浴は家族風呂等の例外を除き法令で禁じられていると言うものだらけである。母がシミーズで入浴したのは半世紀以上前のことだから法令の内容が現在と違うということで説明がつくかもしれないが、20年前にも、某温泉地に混浴風呂があった。有名な温泉地の大旅館である。しかも、決してタオル等を持って入ったらダメとされていた(絶対、局部を隠してはいけない、と言ってるようであった)。ネット情報との間に齟齬が生じている。条例の違いなのだろうか?私は、法律関係の仕事をしていたが、混浴関係は専門外なので分からない。

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母ネタVol.3肉嫌い~給食の脱脂粉乳

2024-12-06 08:52:18 | 家族

母は、肉が大っ嫌いであった。母の料理に肉が入ってたのはカレーだけである。しかも、細切れをほんのわずかだけ使ったから、宝探しのように注意深く探さなければありつけなかった。母は、宝探しが上手で、自分のためによそったカレーの中から的確にお宝を発見しては子供の皿に入れてくれた。絶対に肉を口にしてなるものかとの執念が感じられた。

あるとき、母が数日家を空けて、母の代わりに母の母(私の祖母)が私らの面倒を見にきてくれて、そのとき、初めてトンカツとやらを食べた。超美味しくて、私は祖母に「おばあちゃん、こんなに美味しいものがこの世にあるんだね」と言った。私を不憫に思ったは祖母は、後で母を「普段子供に何を食べさせてるんだ」と言って叱ったそうである。

母が肉嫌いになったのは、子供の頃食べて気持ちが悪くなったことが原因だと言う。すなわち、生理的に受け付けないのである。それに対し、観念的に受け付けない人もいる。ドイツのドイツ語学校で懇意になったドイツ人の先生が東京に来たとき、居酒屋に連れてったのだが、ヴェジタリアンの先生がまぐろの赤身に手を付けない。どうやら私の発音が悪くて肉と勘違いしたらしい。誤解が解けるとすぐ食べた。すなわち、先生は、同じ色、カタチであっても、肉だと思えば食べないし、魚だと思えば食べるのである。

そんな母が、私が実家を出て相当経った頃、「肉を食べられるようになった」と言い出したので、じゃあ、久々に里帰りをして、実家の面々にステーキを振る舞ってやろうと思い、サーロインを焼いて面々の前に芳香を漂わせる肉塊をどんと置いてやると、母は、オペラ「影のない女」の皇帝のように、あるいは、「怪物くん」で怪物ランドに言ったひろしのように石になってしまった(固まってしまった)。それではまるで私が「食べなきゃゆるさへんからね」と拷問をしている風であった。

そういう拷問を私達は実際に経験したことがある。小学校の給食である。悪名高き脱脂粉乳は不味いを通り越して気持ち悪かった。何でも食べる私もコレだけは無理だった。実際、吐いた子もいた。でも、先生は残すことを許さず、飲めない子(私を含む)の机には給食タイムが終わって5時間目に入ってもまだ脱脂粉乳の入った容器が置かれていた。許されるのは、飲むか吐くかしたとき。で、吐くと先生が吐瀉物の臭いをかいで、胃液の臭いがしないと「わざと吐いた」と認定して拷問を継続したのである。今なら立派な(ひどい)ハラスメント。それどころか児童虐待と言われるかもしれない。今の生徒は、口に合わないと平気で残すらしい。すると、生徒に全部食べてもらえるように、って味を工夫するという。まっことスターウォーズの世界=大昔、別の銀河系のお話である。

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母ネタVol.2施設の群れのボス

2024-12-05 13:08:40 | 家族

母が入居していた施設にも、娑婆と同様に群れができていてボスばーさん、もとい、お局様が仕切っておられた。群れは、食堂で発生するらしい。その群れの中で、母は端の方にいて居心地が悪そうだった。事実、私にこっそり「人間関係がいろいろある」と言っていた。そんなこともあろうかと思ってIHコンロが付いてて自炊できる施設を選んだのだ。食堂になど行かなきゃいいのに。と思ったが、やはりお局様には一日一回は拝謁してご機嫌を伺わなければならないらしい。人間は社会的動物だとはよく言ったものである。また、施設も、食堂に来るかどうかで入居者の安否確認を行っているとのことだった。

もともと母は料理が大っ嫌いであった。母が独居してる頃、サンマが安かったのでたまには親孝行しようと母の分も買って持って行ったら、母はサンマを見てぎょっとして「こんなもの、いったいどうするんだ」と聞くから「塩焼きにして食べる」と言うと、できない、もって帰れ、と突き返されたことがある(「こんなもの」と言われたサンマも気の毒である)。実家にいた頃、母の魚料理の記憶がカレイの煮付けだけなのは私の記憶力の問題ではなく、それしか作らなかったからのようだ。だから、IHコンロは、多分、母は一度も使わなかったと思う。お湯させ沸かしたことはないと思う。部屋にいて喉が渇いたときは、コンビニで買ったジュースを飲んでいた。自分で買えなくなってからは、私に買ってこさせたものを飲んでいた。部屋に運び込んだ冷蔵庫に入っているものは飲料だけだった。料理をすれば、少しは認知症の予防又は進行の抑制になったと思うのだが。

認知症の予防又は進行の抑制と言えば、施設は、さまざまなレクリエーションを用意してくれていて、一回500円くらいで参加できたから、私は、せめてそういう機会に母の脳を働かせようと思ってさかんに行くことを勧めた結果、母は、多いときで、習字、歌謡教室、体操そして脳トレに行っていた。習字の腕前はたいしたものだった。その才能は、私は1ミリも受け継いでない。ところが、そのうち、なんだかんだ言い訳を作ってさぼろうとしだした。私は、叱咤激励して、とにかく行かせようと奮闘した。子供を無理やり塾に行かせる親の気分であった。因みに、歌謡教室の先生は、時間になると自ら入居者の部屋を回って参加を呼びかけていた。いかにも声楽家って感じの明るい元気な女性の先生であった。いちど、部屋に居合わせた私と鉢合わせしたことがあって、「あなたもご一緒に!」と言ってくれたが遠慮した。

私は、母に、毎日テレビで映画をみるとことも勧めた。平日の午後は、NHKのBSとテレ東で映画を放送してるが、字幕より吹き替えの方がいいと思ってテレ東を勧めた。そして、感想文を書くようにも勧めた。もちろんボケ対策である。だが、母が私の勧めに乗ったことはなかった。ほーんとに趣味のない人だった。あれだけ何もしないのだからボケるべくしてボケたという感じだった。

母がボケてひとつだけいいことがあった。ボケて何も分からなくなるにつれて、例のボスばーさんの存在をすっかり忘れたようなのである。部屋で待っているとすぐ分かるような大声でべらべらしゃべりながら食堂から戻ってくるようになった。あんなに隅っこで小さくなってた人が嘘のようであった。

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母ネタVol.1認知症とサ高住

2024-12-04 08:50:17 | 家族

いづれの御時にか……って、2,3日前の話だから今上天皇の御代に決まってる。あさイチで介護施設の特集をしていた、その話である。認知症患者の受け容れを◎○△で表した場合、民間業者の中では、グループホームが◎、介護付き有料ホームが○、サービス付き高齢者住宅(サ高住)が△であった。サ高住は、比較的元気な人が入っているイメージと言っていた。母をサ高住に入れた経験上、もっとも至極な結論だと思う。

母がサ高住に入ったきっかけは、ある日、母のかかりつけのクリニックの先生から私も一緒に来るように言われたことだった。すわ、なにごと?と思ったら「毎回、あなたのお母さんが診察室から出て行く様子が忍びない。独居は気の毒だから施設を考えたらどうか」というアドバイスであった。要は、母が出しまくる「可愛そうオーラ」に純真な若い男性の先生がだまされたのであった。事実、母は、後でこっそり「あの先生は心配性なんだよ」などと他人事。いったい誰が心配してもらってるんだ?バチ当たりもいいところである。まっこと、私の性格の悪さはこの母から受け継いだものである。それでも、先行きのこともあるから施設を検討してみると、サ高住ってヤツは賃貸借のカタチをとっていて、食堂が併設されてるけど部屋にIHのコンロもあってプライバシーが守られる。諸費用は、厚生年金の遺族年金とだいたいトントン。いいかな?と思って近場にある施設を見学して母にどう?と聞くと珍しく「入る」と即決。こうして母のサ高住生活が始まった。

その後、認知症が発症。しばらく私が毎日通って薬を飲ませていたが、いよいよ大変になってきた。まったく、「サービス付き」と言って、その分込みの賃料を払ってるのに全然サービスを受けてなくて、私の負担ばかりが増えている。これじゃサ高住にいる意味がない、との不満が昂じたところで施設長に相談。その結果、ケアマネさんを施設に常駐する人に変えて、そのケアマネさんに介護保険の範囲で介護計画を立てていただき、その実行はその施設の職員さんやヘルパーさんにやっていただくことになった。毎日の薬のチェックもヘルパーさんにやっていただくことになった。一挙に楽になった。もっと早く相談しなかった私が悪かったんだと思った。

ところが、その後暗雲が垂れ込めてきた。母の認知症がますます進んだある日、施設長が、区に介護認定の引き上げの申請をしているが、もし認められなかったら、ここでは必要なサービスができない。介護付き有料老人ホームなら可能だからそっちへの移転を検討してほしい、と言い出した。私は、二つの点で不服だった。
①最初に入居するとき、認知症になっても大丈夫、最後まで面倒を見る、ここを退去するのは亡くなったとき、と言っていたのと話が違う。
②介護に必要な介護認定が出ないかもしれない、というのが変である。介護のための認定である。その認定が介護におっつかないということは認定が間違っている、ということではないか(これは制度に対する不満である。まあ、たしかに、認定のときだけ張り切るボケ老人の話はあるあるではある)。

その後、しばらくして、施設長が「会社の方針が変わったので居てもらっていい」と言い出した。その頃、その会社のCMが頻繁にテレビに流れるようになって、私の中では符合した。こうして、その施設は母にとり終の棲家になった。途中、暗雲が垂れ込めた時期があったが、総じて、施設の方々には大変お世話になり、心底感謝している。

あさイチで、認知症患者の受け容れについて、サ高住は△で介護付き有料老人ホームが○としたことに至極同意なのはこういう経験があったからである。グループホームは認知症患者の受け容れには◎だし、常に集団でっていうのもどうかな?と思っていたら個室があるということを今回のあさイチで知った。だが、先般、グループホームで職員による虐待があったというニュースが影を落とした。

以上は民間業者に限った話だが、公共施設である特別養護老人ホーム(特養)について、あさイチが、「入居待ちと言われているが、それは安い相部屋の話で、少し高い部屋なら空いてることがある」と言っていた。これは、すごい情報である。特養なら例の◎○△のレートは◎である。これから施設を探す人にとっては、特養も十分視界に入るというわけだ。因みに、私は、両親ともこの世の住人ではなくなっていて、逆に、子供等がいれば、黒式部をどこの施設に放り込もうかと心配される立場であるが、そうした親族もいない。自分から進んで施設に入ろうとは今は夢にも思ってないし、ボケたときは自分では自覚しないだろうから施設に入ることは想像がつかない。近くに線路もないから、徘徊してるうちに線路に紛れ込んで電車にひかれて社会(及びどこかにいるかも知れない相続人)に多大な迷惑をかけるおそれもなさそうである(あっ、奥地の家は踏切が近かった(汗))

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