黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

台地を行くVol.9三田段丘の石段の運命

2025-02-20 12:08:12 | 地理

台地シリーズは当初から23区の北東部を扱ってきたが、前回の大森貝塚は南東部だった。引き続き今回も南東部。ターゲットは三田段丘の「石段」である。そうでなくても23区の南と西は私にとって別の銀河系であるのみならず、三田段丘にはKOウニがある。この一事で私は窒息しそうなところを無理して歩いた理由はもっぱらタモリさんが推してるという噂の石段が最近の再開発で微妙なことになっているとの情報をゲットしたから、「健在」のうちにこの目で見ておきたいと思ったからである。

ということで、田町駅で下車して早速現地に向かう。桜田通りに出ると東京タワーが目に付いた。

この辺りのメルクマールなのだな。これまで歩いてきたところはスカイツリーだったが。やはり東京タワーはいい!色がいいし、カタチもいい……っと、ここで今回のルートのあらましを紹介しておこう。

三田段丘は、武蔵野台地の南東の端っこにあって、そこだけがぴょこたんと独立している。真田丸が大阪城の外郭にあって独立していたごとしである。

で、桜田通りを東京タワー寄りに少し歩くと、出た!KOウニ!

かねがね不思議だったのは、このKOウニの東門が他のビルに並んで狭苦しそうにしていること。ビルがキャンパス?さすが都会だとは思うけど、土のキャンパスはないの?田んぼが名称の某大学みたいな?と思ったら、この門の奥に広大なキャンパスが広がっていた。入口から覗くとすぐ高台になっていてその上におとぎ話に出てくるような校舎が建っているのが見えた。

なるほど、キャンパスは台地の上にあって、東門だけが台地の下にあるのだな。そのあたりのことは、台地の側面から見るとよく分かる。

崖が台地の法面であり、その上に校舎が建っている。間口が狭くて奥が広いなんて、まるで京都の町屋である。因みに、田んぼが名称の某大学もやはり台地の縁に建っていて、正門から入った先は坂道である。

さらに桜田通りを東京タワー寄りに進むと、左に上り坂が現れた。

台地の上に上る坂である。坂の途中には都立の三田ホッホシューレが見える。網の手引坂というのが坂の名称である。

この標識があるあたりが坂のてっぺん=台地の上であり、しばらく先に進むともう台地を下りる下り坂になる。

日向坂である。ここから少し戻ると、北側に下りる坂道がある。

神明坂である。さあ、目指す石段はこの先である。地図には石段に至るルートなど載ってない。勘を頼りに、路地に入って、何度かかくっかくっと曲がると、フェンスが行く手をはばみ、一見行き止まりのよう。だが、右手にちょろっと入る細道が目に入った。これだ。この先が目的の石段に違いない。で、進むと大当たり!

下の方では建設機械がうごめいていてなるほど再開発の工事中である。だが、石段は健在であった!それをこの目におさめた。めでたしめでたし!

……なのだが、ちょっと気になることが。これまで聞いたいた話では、石段の途中に踊り場があって、そこで、かっくんと右に折れて、すぐに左に折れて下に下りるはずである(こういう形状を「クランク」という)。だが、この階段は、踊り場らしき所で右に折れるはずの所がフェンスでふさがっていて、石段から一直線に金属製のいかにも応急で作りました風の階段が伸びている。

だから、「健在」と言ったが石段が健在なのは上半分だけ。クランクは消滅して下半分が新しく作り替えられるのだろうか?それとも、この金属製の階段は工事中だけの臨時の階段で、工事が終わったらクランクが復活するのだろうか。フェンスの合間から右側の様子を覗いてみると、

元の石段の下半分らしきものを視認できなかったことが気がかりである。

ま、とにかく一番下まで下りた。ここから先はまさに開発区域で臨時の通路が設けられていて、それが古川にかかる小山橋に通じている。その通路をちょっと行って階段を振り返るとこんな感じ。

階段の右側のフェンスで覆われている辺りは以前「小山湯」という銭湯があった場所である。タイムスリップして入ってみたい銭湯である。

臨時の通路に沿って歩くと、古川を渡る小山橋に出た。

こっちは上流側で、この先の渋谷区では渋谷川と呼ばれているそうな。原宿あたりでは暗渠という。そこも一度歩いてみたいと思っている。

同じ処から、台地を見上げるとこんな感じである(右端がさっき降りてきた階段辺り)。

やはり台地である。ただし、三田段丘の高さは20メートル以下で、近傍の台地よりは高さが足りないそうである。

この日はこれでおしまい。痛風の病み上がりだから歩く距離をなるべく少なくするためすぐに地下鉄に乗ろうと最寄りの駅を探したら麻布十番駅。

え?ここらへんてあのおハイソな「麻布」だったの?と思うと、歩いている人も駅のホームにいる人もみんなセレブに見えてくる「外国人」のワタクシであった。そう、私にとっての国境は隅田川である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台地を行くVol.8大森貝塚

2025-02-18 13:01:06 | 地理

小学校で大森貝塚のことを習ったときは、貝と言うのだから現在の東京湾の海沿いにあるのだろう、と思っていた。半世紀経って、現在の大森駅の近くにあることを知った。なるほど、先般、道潅山遺跡が西日暮里駅近くの台地の上にあることを知り、大昔は、現在の京浜東北線のあたりが海岸線で、海に挑む崖の上で人々が暮らしていたからそこが遺跡になるのだな、と(遅かれながら)お勉強したところである。であるならば、大森駅のあたりも昔は海岸線で、そこに接する台地の縁に集落があり、当時のゴミ捨て場が貝塚として現代に蘇ったことにガッテンである。

だが、疑問がある。貝塚は、台地の上と下のどっちにあったのだろう?集落は台地上にあったからゴミ捨て場も「上」?それとも、台地の上からぽいぽい下に捨てたから「下」?それから、モース博士は1877年に東海道線に乗ってて貝塚を発見したというのだが、車窓から貝殻が見えるものだろうか?いったいどこにどういう風に存在して博士の目に触れたのだろうか?このあたりの疑問を解消するために是非現地を見てみたいが、痛風で歩けなかったら延び延びになっていた。ようやく痛みが治まってきた。大森貝塚は駅の近くだから歩き復活第1弾にちょうどいい。ということで行ってきた。

「現場」は現在「大森貝塚遺跡庭園」として整備されている。ほとんどは再現模型だが、一箇所だけ、地下牢の入口みたいなところがあり、

そこを覗くと、実際の「貝層」が剥き出しになっていた。

そうか、こんな風に断層の中に貝の層があったのだな。おそらく、縄文人がポイ捨てをした貝が層になっていて、で、東海道線を通すために崖を崩していたら断層が現れて、その中の貝の層が列車から見えたのだな。私は、「貝」と聞いて、せいぜいシジミくらいを想像していたのだが(ウチでは貝は味噌汁にしじみを入れるくらいなので)、それよりずいぶん大きい貝ばかりである(5㎝以上ある)。縄文人の方が私よりもグルメであった。こんだけ大きいのが積み重なって層になれば、そりゃ遠くからも見えるよな、とガッテンした。また、大森貝塚遺跡庭園は台地の上にあり、線路(昔の海面)は随分下にあるから、

貝塚は台地の下ではなく上にあったことにもガッテン。やはり、ゴミ捨て場は自分ちの周りに作るものであり、高い処からポイ捨てをしたわけではないようである。縄文人も、なかなかに環境意識が高かったようである(?)。

因みに、この庭園は品川区にあるのだが、もっと大森駅側(大田区)に「大森貝墟の碑」がある。

こちらは、池上通りから逸れて線路脇に降りきったところにある。

もし、ここが発見の場だとすると「台地の下にあった説」が勢いを盛り返しかねないところだが、いっとき不明とされてきた発見の場が後の研究により庭園のあたりと判明したそうだから(改訂新版世界大百科事典)、「台地の上」でよいようである。なお庭園にも石碑があり、二つの石碑の本家争いは、同時に大田区と品川区の本家争いをも意味する。ここら辺に写真を撮りに来る人は二つの石碑を撮って並べて対立の構図にもっていくのが王道のようだが、私は庭園の石碑を撮り忘れた。興味が専ら土地の「高低差」にあるもので……因みに、「大田区」は、昔の「大森区」と「蒲田区」が合体してできた区なので、名称も二つを合体させたものだそうだ。

私にとって貝と言えば味噌汁に入れるシジミくらい、と書いたが、それは今でも同様である。先日も半額になっていたシジミを購入して味噌汁に入れたから、食後に貝殻が残った。

現在では、食品ゴミをポイ捨てすることは御法度だからコレが貝塚になって後世の人の研究対象になることはない。そう言えば、子供の頃、母から「煮て口を開けない貝は死んでる貝」と聞かされたが、最近の貝は活きがいいのだろうか。写真中、口を閉じている貝は一個だけである(外周円上にある)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山の話Vol.4亀有駅から見た富士山

2025-01-30 11:26:25 | 地理

こないだ江戸川を渡るべく千代田線(常磐線)に乗っていて、いつもは北向きの車窓から中川と江戸川ばかりに注目していたのだが、ふと南側に目を移すと夕焼けに照らされた富士山が見事であった。ググって見ると、亀有駅の綾瀬よりのホームの端は、はたして富士山が見える場所として有名であった。なので、このたびは富士山の写真を撮るために乗車券を購入し(JRに貢献し)亀有に向かう。

なるほど、ここは良い場所である。

山上の雲はよいアクセントだが、山体にかかる雲は退散してほしかった。

私の他に、もう一人カメラをかかえた人がいた。だが、御茶ノ水の聖橋からJRと地下鉄の立体交差を見んとして集まる人数に到底かなわないのは郊外だからだろうか。

この日、山を撮るためにポチったおニューのコンデジ(光学で20倍までズームにできる)の初出勤である。マニアは一眼レフだとかなんだとかで重装備をするしょうだが、私ごときはコンデジで十分である。なお、私にとってはおニューであるが、中古で買ったから個体としてはおニューではない。

以前は、近場に大きなビルがあって富士山はそのビル越しに見ていたようだが、そのビルがなくなってよりよく見えるようになったらしい。ビルが建って見えづらくなるのが常だが(荒川を渡る千代田線の車窓からの富士山も大昔はもっと楽に見られた)、ビルがなくなって見やすくなるのは希有なことである。

ときたま鳥の群れがバァーっとはばたくのだがムクドリだろうか?ムクドリはウチの近所の電線にも大挙して止まっている。

富士山の左端にちょこっと写ってるのが蛭ヶ岳(丹沢)、右端が大室山である。へー!この位置からだと大室山は富士山の右に見えるのか。拝島駅からだと富士山の左側にある。

すなわち、こういう位置関係である。

冒頭の写真に戻るが、この季節、空がもっとも赤いのは(太陽が沈むのは)もっと左(南)である。だんだん季節が暖かくなるごとに太陽が沈む位置が右(北)にずれてくるから、そのうち、富士山と夕陽のコラボが見られるのではないか、と期待しているワタクシである。そういう季節になったら、また乗車券を買ってJRに貢献しようと考えている。

なお、「亀有」という土地は、昔は「亀無」と呼ばれていたという。「ない」より「ある」方が良い、ということだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山の話Vol.3屋根越しの赤城山

2025-01-09 18:42:17 | 地理

そんなわけで(Vol.2からの続き)、すっかり赤城山に魅せられてからというもの、北方を眺めるときは必ず赤城山の姿を追い求めていると、かつて見えなかったものが見えてくる。私は、40年近く前に二年間だけ入間市に住んでいた。このたび、昔懐かしさに当時住んでいた辺りを歩いてみたのだが、なにが驚いたって、当時毎日のように乗り降りしていた駅から赤城山が見えるのである。

当時は、まったく気付かなかった。なにせ、山と言ったら富士山くらいしか知らず、赤城山という名前は国定忠治の「赤城の山も今宵限り」で聞いたことがあっただけ。どこにあってどんな形をしてるかなど皆目知らなかった。だから、この景色が目に入っても脳はなんの反応も示さなかったのだと思われる。今の私にとっては、この景色はお宝以外の何物でもない。

かように人間の注意は求めるものだけに集中し、求めないものの情報はスルーするらしい。だから、刑事さんは、指名手配の犯人を群衆の中から見分けるし、猫好きは田園風景の中から猫の姿を見分けるのであろう。

それにしても、入間市と言ったら埼玉県の最南部で東京都と境を接している。そこから群馬県の中央にある赤城山がこんなに大きくくっきりと見えるのだから驚きである。もし、当時の私が今の私なら、この地に降りたったその日にこの山容を視認し驚喜乱舞したことだろう。そして、2年とは言わずそのまま住み着いていたかもしれない。

因みに、山梨に、コンビニの屋根越しに富士山が見える場所があって、外国人が押し寄せ車道にはみ出て問題になっていた。自治体は対策として道路に黒い幕を張り物議をかもしたが今は撤去されているようだ。掲載した写真で見える赤城山は団地の屋根越しである。別に車道に出なくても見えるから黒幕を張られることはないだろう。その前に、人々がこれを見たさに押し寄せる事態にはならなそうである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関門海峡が関門であるのはたまたまだった件

2025-01-03 12:17:02 | 地理

ブラタモリの再放送を見てて思ったことその1。伏見は東西の「関門」である、と聞いて、私、「関門」て関門海峡が語源だな、あそこは本州と九州を行き来する際に絶対通らなければいけない場所で、壇ノ浦の戦いに見るように潮の流れが激しく渡るのが大変だから、転じて「通過するのに困難を伴うところ」(大辞林)の意味になったんだな、と思ったら大ハズレ。「関門」とは関所の門のことだという。関門海峡が関門であるのはたまたまらしい。

その2。東海道57次(53次のルート(江戸ー京都)から分かれて大阪に向かうルーロ)の終点の高麗橋の上に、始点の日本橋と同様高速道路がかかっていた。日本橋の上の高速はそのうちなくなるそうだが高麗橋はどうなのだろう?

その3。京都競馬場は珍しく第三コーナーに坂があるが、それは自然の地形を活かしたものである、さあ、何があったんでしょう、ヒント、ここには以前巨椋池という大きな湖がありました……と聞いて、私の脳裏にまず浮かんだのが「台地の尾根」。昨年は、上野台地や本郷台地の尾根をさんざっぱら歩いたものだ。だが、ここは池や川のある湿地帯……ってことは、分かった、「土手」だ。ブー。正解は「堤防」。ここで疑問。土手と堤防と何が違うんだろう。大辞林によると、「土手」とは、土の堤で、水や風や敵の侵入を防ぐために設けられたもの。それに対し、「堤防」はもっぱら水を防ぐためのもの。ってことは、土手>堤防、すなわち、堤防は土手の部分集合であって、私は正解であった(先生に言って×を○に変えてもらわにゃ)。因みに、昨年は、川(中川他)の土手もずいぶん歩いたものである。

因みに、私は、川も大好きだが、池・沼の類いも大好物である。大きな湖もよいが、ちょっとした貯水池のような水溜まりに大いに心が惹かれる者である。ドイツの民話に出てくるような、精霊が住んでそうな鬱蒼としたヤツは一層好きである。山、台地、川に続き、池沼についても当ブログに書き散らしたいと思っている。そんなだから、判例の中でも「奈良県ため池条例事件判決」が大好きである。判決の内容が好きなのではなく、「ため池」と言う言葉にそそられるのである。

ブラタモリのレギュラー放送が春から復活するのはなによりも吉報。だが、考えてみればタモリさんは今年80歳になられる。80歳でぶらぶら歩きができるのは健康でなければできないこと。ご健勝のご様子で何よりである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする