黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

春は3回、夏は6回

2025-01-16 15:23:24 | 映画

男男の話が続いたので男女のことも。ネット動画が「市原悦子が語る江戸のなんちゃら」って映画を奨めてきたからてっきり江戸の地理の話(幕府開幕の頃は日比谷が入江でその外側を「江戸前島」と言って今の銀座辺りだった等々)だと思って見始めたら、冒頭に「昭和61年9月25日東京高等裁判所判決に基づき昭和61年12月18日東京税関の通関許可を受けた」という「お断り」が入った。判決・税関とくれば猥褻案件?当たりであった。つうか、判決に基づく通関許可を受けたから猥褻物ではない、という案内である。すなわち、この作品は「愛のうつし絵 市原悦子が語る江戸文化の神髄」というタイトルで、浮世絵の中でも春画にスポットライトを当てた作品であった。「浮世絵の中でも春画」と書いたが、この作品に拠ると、浮世絵は春画から始まったし、美人絵は遊女の肖像画から始まったそうである。

さような断り書きを入れるくらいだからなかなかの意欲作であり、「単体」は遮るものなく映し出されていたが、結合シーンにはすべて小判が貼り付けられていた。これが限界だったのだろうか。映画「ヌオーヴォ・チーネマ・パラディーゾ」(ニュー・シネマ・パラダイス)には、当局の規制が強くなりキスシーンがすべてカットされたことに対して映画館内の客が盛大にブーイングをするシーンがあったが、この映画(江戸のなんちゃら)を映画館で見た人々は小判を見て、小判より絵を見せろ、と叫んだとは思えない。なにしろお役所には頭の上がらない国民性である。よくぞここまで見せてくださいましたとの感謝の念に堪えなかったものと推察する。

「小判」と書いたが、「大判」だったかもしれぬ。なにしろお金には縁がないから違いが分からない。

そう言えば、都内の美術館で春画展が開かれたことがある。ちょうど10年前であるから、平成も後半期に入っていた。そう考えると、昭和の時代にあそこまで表現した制作陣には喝采を送るべきだろうか。

ところで、作中に、春画の最高傑作という作品が出てくるのだが、人物の背後に「春は3回、夏は6回」と書いたものがあった。絵の内容からしてまぐあいの回数だと思うが、1日の回数だろうか?季節における回数だろうか?前者なら多すぎるし、後者なら少なすぎる気がする(オペラ「ばらの騎士」のオクタヴィアン(17歳)なら一日でも多すぎないだろう)。いずれにせよ、春より夏の方が回数が多くてしかるべき点については同オペラのオックス男爵も「Juni(6月)、Juli(7月)、August(8月)」と言って同意の様子である。

特に、「8月」を高い音で伸ばしているから(楽譜の赤丸)、男爵は8月を最適の季節と考えているようである。もっとも、これは外でいたす場合の話であり、昨今の地球温暖化のことを考えると熱中症には十分注意しなければならず、できるなら冷房の効いた室内でいたすべきだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アナログ

2025-01-13 12:05:45 | 映画

映画「PERFECT DAYS」の主人公(公衆トイレの清掃員。演:役所広司)は、スカイツリーの見える浅草近辺に住んでるぽいが、仕事場は渋谷の公衆トイレで、洗浄便座が付いているのは当たり前。そんじょそこらの住宅のトイレよりもおしゃれできれいだから、家でせずにわざわざ出向く価値があるくらい。外国人はびっくりな様子だが、日本人だってびっくり。だが、ご時世なのだろう。奥地の乗換駅のJRの某駅のトイレですら洗浄便座付きである。

主人公の生活は、アナログで溢れている。読む本は古本屋で買ってくる紙の本だし聴く音楽はカセットテープ。最近、カセットが人気だそうだからこのあたりは驚くに値しない。だが、写真屋さんに入っていって何をするのかと思ったらフィルムの現像の依頼。お昼に公園で木漏れ日の写真を撮っていたカメラはフィルム式だったんだ!フィルムってまだあったんだ!写真屋さんは今でも現像をしてくれてたんだ!で、ググったら「フィルムは人気」だって。どの分野でもアナログが復活している様子。たしかにCDよりレコードの方が音がいいとは思うけど、ノイズのもとになる盤面のほこり取りに相当苦労したところにCDが出たとき盤面にクレヨンでいたずら書きをしても音が出る!なんて便利なんだ!と感動した過去は忘れられない(なぜか例がクレヨン)。

主人公は一人暮らし。仕事は二人チームなのだが主人公は相棒とはほとんど口をきかない。おお、ここに私が憧れる仙人生活の師匠がいた!この師匠を見習って私も仙人になろう、と思ったのも束の間。毎日、仕事がはけると銭湯に行って顔見知りと会釈し、その後、浅草焼きそばに行って店主とコミュニケーション。週に一度は馴染みの小料理屋に行って女将(演:石川さゆり)に迎えられる。それどころか、毎日仕事場である女子トイレの隙間に紙をはさんで密かに利用者の(名も知らぬ)女性と交換日記ならぬ交換五目並べ(違う?)をしている。なんだ、全然一人じゃないじゃん。なんだか裏切られた思い。やはり人間は一人では生きられないということか。そう観念した私は、川を越えてもう一度人里に行く決心をしたのである。

因みに映画の主人公が通う浅草焼きそばは実在する。あれ?と思ったのは看板に「サッポロビール」の文字がでかでかとあること。浅草から吾妻橋を渡るとすぐそこにアサヒビールの本社ビル(オブジェが有名)があるのだが、ここは昔アサヒビールの吾妻橋工場があってビヤホールが併設されていて、そんなわけだからここら辺はアサヒビールの牙城であり、特に老舗はアサヒを置いていることが多い。そんな中にあってサッポロビールを正面に据えるのは、関ケ原で東軍の中に突っ込む島津勢のごとし。なぜだろうと思って一つ仮説を立てた。実は、吾妻橋工場は大昔(漱石の時代)は札幌ビールの工場だった。その後、札幌と朝日と日本ビールが合併して大日本ビールができ、件の工場は大日本ビールの工場になった。戦後、GHQによる財閥解体によりアサヒとサッポロが分割し、件の工場はアサヒビールが引き継いだ(以上は史実)。浅草焼きそばは、吾妻橋工場が札幌ビールの工場だった時分に札幌ビールを扱うようになり、その後変わらず今に至る、というストーリーである。だが、浅草やきそばが入る浅草地下街は1955年に開業したそうだ。財閥解体の後である。だから、私の仮説は、今回も大ハズレで終わったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始のテレビ番組の想い出

2024-12-30 16:32:45 | 映画

歳をとると時間の進みが早く感じられるのは物事にワクワクしなくなるからだという(チコちゃん情報)。そう言えば、今どき、年末年始と言っても、テレビはつまらないし、痛風で足は痛いしで、せいぜい「ふてほど」と「孤独のグルメ」の再放送を期待するくらいである。結構、楽しんでるって?小学生の頃はこんなものではなかった。長さから言うと、夏休みにはかなわないが、冬休みの方がワクワク感が大きかったのは、「もーれつア太郎」等のアニメの再放送のほか、テレビでよく怪獣映画を放送したし、大晦日は「レコード大賞」「紅白歌合戦」「行く年来る年」、新年の夜は「芸能人隠し芸大会」という流れがルーティンとして確立していた。

私が最初に見たゴジラ映画も、冬休み中にテレビで放送された「ゴジラの逆襲」(第2作)だった。テレビは白黒だったが元の映画も白黒だったからそこは問題なかった。だが、暗いシーンになると画面がまっくろけっけで何も識別できなかった(今でも同じ)。そこは想像で補った。想像の世界ではゴジラはどこかの公園に現れた。それがそのまま夢につながって、夢の中で私はよくゴジラに追いかけられた。あんなにでかいのに毎回隠れてる私を的確に見つけ出した。「大巨獣ガッパ」もテレビで見た。カラー作品だったがわが家では白黒作品て、やはり所々識別不能だった。

「紅白」についてはだんだん演出過多だなぁ、と思うようになった。特に、演歌の大御所を競馬の馬にみたてて「○○号ー」と呼ぶコント(?)はよく覚えていて、子供ながらに馬鹿馬鹿しいと思った。馬にならされた大御所も不機嫌そうだった。

私が小学校の高学年になると、紅白の変わりに第九を見せてくれ、と親にせがむようになった(当時は、テレビは一家に一台であった)。私の懇願は実を結び、某N響の第九を視聴したのだが、いまいちな感じがした。で、新聞のラテ欄を見ると、同じ夜、10チャンネル(当時)でカラヤンとやらがベルリン・フィルとやらを振った第九を放送する、とあったので、これも見せてくれ、とせがむと、「一回見たからもういいだろう」と返ってきた(母は、映画館で映画をみるときも、途中から入って、当時は入れ替え制ではないから次回のさっき見た箇所まで見ると「もう一回り見たからいいだろう」と言って退出するような人だった)。だが、このとき私はかなりねばったのだろうか、結局カラヤンとやらの第九を視聴することができた。「だんち」だと思った(「団地」だと思ったのではない)。

さらに年月が進んで私が中学生になると、テレビが子供部屋にもしつらえられるようになり、年末年始は自室にこもって映画を観るのが楽しみになった。そうやって観た作品の一つがパゾリーニ監督の「デカメロン」である。お子様にはあまり見せない方が良さそうなシーンにあふれていて、これを観ることができたのは自室にテレビがあったればこそである。その中に「馬のような体勢でする」シーンがあり、このシーンを読みたいがためにもっと大きくなってから図書館でボッカチョの原作を借りて読んだものである。

あと、思春期の男子が年上の女性といろいろあって、ベッドルームで男子が目覚めるとそこに女性の置き手紙があって、女性が男子の代筆をしたかのように「今日、ボクはオトコになった」と書いてあっておしまい、という作品があった。この作品のタイトルが分からない。血眼になってネット内を探しまくったが出てこない。この作品ではないか?という情報をいただいて、そのDVDをポチって観たがラストシーンが違っていた。残りの人生で、なんとか作品を特定したい、そしてもう一度観て、半世紀前に味わったキュンとした気分をもう一度味わいたいと願うワタクシである。

なお、冒頭に「歳をとると時間の進みが早く感じられる」、それは「ワクワクしなくなるからだ」と書いたが、逆に、ワクワクしているときの方が、その瞬間においては時間が早く進み、退屈な時間は長く感じられるものである。一見、逆である。その理由を考えてみた。思うに、ワクワク行為の最中は夢中だから時間があっという間に進むのに対し、ワクワク行為を後から振り返ると思い出すことがたくさんあって時間が長く感じられる、ということではないか、とわれは思うのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ホームアローン」における正当防衛の成否

2024-12-29 09:17:42 | 映画

映画「ホームアローン」の1~3をディズニー+で観た。第1作が公開されたのは30年以上前で、一人でお留守番になった男の子が泥棒一味を撃退するお話(「2」は舞台がおもちゃ屋さんになる)。撃退の方法は、家にいろんな仕掛けをして、それに泥棒をひっかける、というもの。「4」以降も制作されているから超人気シリーズなのだろうが、私は、ちょっとやりすぎ?という感を持った。床にビーズを撒いて泥棒をこけさせる程度なら可愛いのだが、高圧電流に感電させたり、油で髪の毛を燃やしたり、上階からブロックを落として頭にぶつけるとなると命にかかわる。制作者は正当防衛を主張するのだろうが、そこのところを検証したい。

正当防衛が成立するためには「急迫不正の侵害」に対する「やむをえずしてした行為」であることが要件である。正当防衛なら無罪である。まずは「急迫性」について検討しよう。泥棒が来ることは予見されていたから、主人公はたっぷり時間をかけて家に仕掛けをした。そんな時間があって「急迫」と言えるだろうか。警察に通報する時間は十分にあったのだからまず通報すべきではなかったのか(なお、「3」では真っ先に警察に通報するも警察が信じなかったから「3」は議論から除く)。通報することはしているが、もうさんざん泥棒に痛い目を遭わせた後である。まるで、さんざん怪獣を投げ飛ばした後にスペシウム光線を浴びせるウルトラマン、はたまたさんざん助さん格さんに代官と越後屋とその家来に痛い目を遭わせた後に印籠を出させる水戸黄門のごとしである。この件に関しては判例があり、「急迫不正の侵害があらかじめ予期されていたとしても、そのことから直ちに急迫性を失うものではない(正当防衛が成立しうる)」とのことである。だが、判例は「この機会を利用して積極的に相手に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだときは(積極的加害意思があった場合は)、急迫性の要件を満たさない(正当防衛は成立しない)」とも言っている。主人公の少年に積極的加害意思があったかどうかについて吟味すべきである。

「急迫不正の侵害」要件を満たして正当防衛が成立する状況であったとしても、やり過ぎると過剰防衛になり、有罪だが刑が減軽又は免除される可能性が出てくる。正当防衛については、緊急避難と違って、やられた場合のダメージとやり返したことによって生じたダメージを厳格にくらべっこする必要はないが、「相当性」は必要である。すなわち、前者に比べて後者があまりにも大きい場合は過剰防衛となる。では、泥棒を命の危険に陥れたらどうだろう?財産をとられそうになったので命をとるというのはやり過ぎの感がある。だが、寝込みを泥棒(強盗)に襲われた際、相当性など考える余裕はない。夢中になって反撃して強盗があの世に逝って過剰防衛というのは腑に落ちない。そこはちゃんと特別法が用意されていて、被害に遭った際、こちらの生命、身体、貞操が危なくなった場合、又は、そうした場合でなくても(単にモノをとられそうになっただけでも)恐怖、驚愕、興奮、狼狽によって犯人を殺傷した場合は、相当性とかに関係なく正当防衛が成立することになっている。では映画の主人公はどうだろうか?たしかに、途中から泥棒たちは「ぶっ殺してやる」と言って少年を追う。だが、それはさんざん痛い目に遭わされた後のことである。少年は、冷静に作戦を立てて泥棒を陽動して罠にはめている。恐怖、驚愕、興奮、狼狽があったとは考えにくい。特別法の適用は微妙である。

以上の考察は、しかしながらまったくの無駄骨である。少年は100%無罪である。なぜなら、14歳未満の者は刑事責任を問われないところ、少年は8歳だからである。因みに、アメリカ人でありアメリカ在住の少年に対して日本国刑法の適用を考える意味があるだろうか。もし、少年に正当防衛が成立しないとすれば考えられる罪状は傷害罪である。被害者(泥棒)はアメリカ人であり現場はアメリカである。この場合、日本国刑法の適用はない。基本的には、日本国刑法の適用があるのは日本国内の行為であるが、例外的に国外犯に適用される場合がある。本件はその例外のいずれも該当しないからである。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする