黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

スター錦野のフルート(夢はかなう)

2024-11-02 11:10:45 | 楽器

数日前に見た夢は、「Spufé Sé」という綴りを見て、意味が分からず、「この綴りを覚えておいて、明朝起きたら辞書を引こう」と思う内容だった。夢の中で、これは夢だと理解している点が奇っ怪だった。実際、翌朝、起きたときに綴りを覚えていて辞書をひいた(意味はやはり分からなかった)。夢が実現した(かなった)わけである。この場合の「夢」は夜見る夢(Traum)のことであるが、「夢」には願望(Wunsch)・希望(Hoffnung)の意味もある。大谷選手が実現した「ワールドシリーズで優勝」の夢はもちろん後者である。

大谷選手は、既に高校生のとき「人生設計ノート」に「ワールドシリーズ優勝」を書いていた。その他、当該ノートに書いたことを次々に実現するから、そこに書いたことは「夢」というよりタイトルそのままに「設計」だったようである。38歳時には「結果が出なくなり引退を考える」そうだから、いっそう現実的である。だが、メジャーリーグを引退してもそれで終わりではなく、帰国してリトルリーグを指導し優勝させると書いたそうだ。大谷選手の場合、これも「夢」ではなく「設計」なのかもしれない。

何歳になっても夢を持つのは良いことである。例えば、シニアから楽器を始めて名人になる夢だって見てバチは当たるまい。スター錦野は、70歳を過ぎてフルートを始めて3年経った今、ちゃんと曲を吹いていたから大したものである(徹子の部屋)。私は、いろんな楽器をやる中、特にフルートに苦戦してるから尚更尊敬である。聴くと、スター錦野は昔からトランペットを吹いてたというから楽器の素養はおありなのだな。ウチにはトランペットもあるが、これはもう苦戦どころではなくなかったことにしているからウチの楽器のラインナップには入ってない。それでも格闘した経験のおかげでちゃんと吹いてる人を尊敬できるようになった。競馬のファンファーレも吹けたらいいなと思う。

ラインナップに入ってる楽器については、プータローになった時点で、どれもこれも一日10分ずつ練習して全体的に底上げしよう(護送船団方式)という「設計」をしたのだが、既に「夢のまた夢」と化している。計画がブレるところが大谷選手と超凡人たる私の違いである(だが、現総理大臣とは似たり寄ったりである)。こないだある楽器について体験レッスンを受けたときは、よし、あれもこれも先生につこう!と心中の熱気球がおおいに膨らんだものだが、気球は直にしぼんで墜落してしまった。お月謝をどうやって工面しようか、という心配は杞憂に終わった。

そんなくせして、トロンボーンを買って吹いてみたいという夢は相変わらずである。性懲りもないとはこのことである。

因みに、友人にアマチュアのカウンター・テナー(裏声で高い音域を歌う男性歌手)がいるんだけど、彼はもういい歳。カウンター・テナーは衰えが早くて、彼の歳のカウンター・テナーなど滅多に聞かない。でも、彼は歳に抗っていつかシューベルトの「美しい水車屋の娘」のリサイタルを開くと言っている。本人は「設計」のつもりだけど私から見たらこれも「夢のまた夢」である。人のことで悪いけど。

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体験レッスン(宗旨替え?)/ジョン・シピン選手

2024-10-21 07:16:50 | 楽器

ある楽器の体験レッスンに行ってきた。その楽器は、次の中の一つである。

おっ!これまで先生に習いに行ったのはピアノだけで、後はことごとく独学だったのに宗旨替えか!? いや、「楽器=独学」を宗旨と定めていたわけではなく、結果としてそうなったのである。

私だって、もともと楽器を習いに行きたかった。だが、子供の頃、親が習いに行かせてくれなかった。理由は「ウチにはお金がない」「音楽をやる必要がない」の二つであった(が、今、思うと、父が毎晩飲んだくれるお金はあった。要は「子供に音楽をやらせる」お金はない、ということである)。ところが、どうした風の吹き回しか、突然母が私に駅前のピアノ教室に行ってこい、と言い出した。で、行ってみたら、ピアノは我流を直すために一からやり直しだが、ソルフェージュ(楽譜を見て歌うこと)と聴音(音を聴いて楽譜にすること)はもうできあがってる、とえらく評価してくれた(作曲の先生を紹介してやる、とまで言ってくれた。だが「高いけど」が付いていたので親に相談するまでもなく諦めた)。ところが先生が替わった。二人目の先生は怖かった。私の鍵盤のタッチが重いのはオルガンを弾いてるせいだと言って、オルガンは弾くな、と言った。私んちにはオルガンしかないから、先生の命はやめろと言うのに等しい。それでピアノ教室には行かなくなった。これがトラウマとなり、楽器(歌も)は独学でするもの、という習慣がついたのである。後年、母に、なぜあのとき私にピアノ教室に行かせたのか聞いたら、あまりに家でオルガンを弾いてうるさいから厄介払いをしたかったと白状した。腑に落ちた。なかなか正直者の母であった。

じゃ、この期に及んで体験レッスンに行ったのはなぜか?実は、本番で演奏する話が持ち上がったのだが、どうにも上手くいかない箇所があり、背に腹はかえられずに先生を探したところ、近場に、猫のいる練習場を見つけたからである。行くにあたって、二つの状況を想定した。次の通りである。
①独学なのにこんなにできてすごい、と褒められる。
②我流で変なクセがついていてダメ、とけなされる。
かりに②でもブログのネタになるからよいと思っていた(ブログは物事を客観的に見直すから精神衛生上有益である)。結果は①でほっとした。だからと言って有頂天になるほど私は子供ではない。体験レッスンは、これまでの方向性が間違ってなかったことを確認し、課題の解決のヒントを得るのに十分で、大層ためになるものであった。

もし、この先生に習うことになったら、堰を切ったように他の楽器も先生につくかもしれない(巨人軍だって、かつて外国人選手をとらないことを宗としていたが、一度、その禁を破ったら後から後から外国人選手が来るようになった)。そうなると、母の口癖「ウチにはお金はない」が、半世紀を経て、所を変えて現実の問題として浮上することになる。レッスン費をどう捻出しようか。レッスン以外はいっさい家から出ず、毎食大根飯で飢えを癒やす生活になるやもしれぬ(おしんか)。

因みに、巨人軍の外国人選手第1号はばりばりの大リーガーの看板をひっさげて入団したデーブ・ジョンソン選手である(当初、看板倒れであった)。それから、当時「巨人軍の選手は紳士たれ」と言われていた(そうじゃない人もいるだろうに、と思った)。だから、大洋ホエールズ(って知らないでしょ)から巨人に移籍したジョン・シピン選手は、大洋時代はひげもじゃでライオン丸だったが、巨人のユニフォームを着て現れたその姿は髭をきれいにそっていてなかなかの男前になっていた。

 

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