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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

仕立屋=切る人+縫う人=外科医

2025-03-31 14:48:15 | 言葉

その仕立屋のことだが(「千一夜物語」の中の「仕立屋の物語」の仕立屋のことだが)、ドイツ語訳では「Schneider」、すなわち「切る人」である。思い出すのは朝ドラ「カーネーション」で、洋裁家のヒロイン糸子が洋服をこしらえるとき生地をハサミで一気呵成に切るシーン。まさに「切る人」であった。もちろん、切ったままでは服にならないから、その後は縫う。「仕立屋の物語」でも、「schneider」(切る)と「nähen」(縫う)がセットになっていた。だが、ドイツ語は、仕立屋を表す言葉として、「Näher」(縫う人)ではなく「Schneider」を選んだ。切る方を重視したのだろうか。あるいは、「Näherin」には既に「お針子」(縫う専門)の意味があったので、縫うだけでなく切りもする仕立屋には「Schneider」を当てたのだろうか。

「切って縫う」は外科医の仕事でもある。

人が仕立てる対象は服以外にもいろいろあるのに、特に洋服作りが「仕立屋」になったのは不思議である。それを言ったら、「オペラ」も本来の意味は「作品」であるのに特に歌劇が「オペラ」になったのも不思議である。

なお、前記の「Näherin」が女性形なのは歴史的にお針子業を女性が担ってきたからだが、今朝のあさイチで見事な針仕事を披露したロッチのコカドさんのような男性が増えれば、辞書の「Näher」(男性形)にも「お針子」が載ることになるだろう。なお「näher」と小文字で書いた場合の意味は「より精密に」である。

 

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「逢い引き」と「合い挽き」

2025-03-24 10:36:41 | 言葉

「逢い引き」と打とうと思って「あいびき」と入力したら、AIが「合い挽き」と変換した。さすがAI!私に相応しいのは「逢い引き」ではなく「合い挽き」であることを見抜いている。毎日、せっせとお料理しているからね。食べるのは私です(逢い引き相手ということはない)。

言葉ネタついで。あたためていたヤツを吐き出そう。

ドイツ語の「トラウリヒ」は二つあって、一つは「traurig」で、もう一つは「traulich」。意味は真逆で、前者は「悲しい」で後者は「快適な」。もちろん、ドイツ人にとって「R」と「L」は全く別の音だから間違えようがないのだけれど、この二つの区別が苦手な日本人にとってはやっかいな話である。

同様なのが「イープリヒ」。一つは「übrig」で、もう一つは「üblich」。前者は「余分な」で後者は「普通の」。

悔しいので逆の例、すなわち、ドイツ人に苦手な日本語を紹介しよう。「渡辺さん」をドイツ人は「ヴァタナベサン」と発音してしまう。「w」がどうしても濁ってしまうのである。

因みに、ドイツ語のヤ行(j)は「ch」の有声音なので、ヤ行を言うとき冒頭にハ行が混ざって聞こえることがある。例えば「ヤー」は「ヒヤー」という具合である(ドイツ語の歌の歌詞の「Ja」を「ヒヤー」と発音するとそれらしく聞こえると指導する先生もいる)。昔、ドイツ人が日本人を「ヒヨシ」と呼ぶので、呼ばれた方が日吉さんなのか?と思ったら吉なんとかさんで、なるほど、と思ったことがある。

「ヒヨシ」は、江戸っ子にかかると「しよし」になる。

「しよし」と山梨の人が言ったら、それは「○○しろ!」という意味である。

「ひ」が「し」になることを散々冷やかされた江戸っ子は、気にしすぎて「しよし」が「ひよし」になる(360度回って元に戻る)。なお、全然別の人生になってしまうことを「人生が360度回って」と言ったら誤りである。この場合は「180度」が正解である。

大河ドラマの「べらぼう」では江戸言葉が飛びかうが、まだ「ひ」が「し」になったのを聞いたことがない。

冒頭の「あいびき」に戻る。私のイメージでは、合挽肉はハンバーグで、餃子には豚挽肉だが、最近は鶏むね肉がマイブームだから(健康嗜好)、なんでもかんでも挽肉を使うときは鶏むね肉にしている。

「逢びき」という古い映画で使われている音楽は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番である。

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2025-03-20 12:07:47 | 言葉

結婚したのだが、相手が一向に新居にやって来ない。

これは夢である。「夢」には二つある。一つは願望で、もう一つは寝てる間に見る夢。「亭主元気で留守がいい」という言葉があるくらいだから、連れ合いが家にいないことが願望ってこともあるだろう。黒澤明監督の「夢」の夢は後者だと思われる(奇談を集めたオムニバス形式で、各話の冒頭に「こんな夢を見た」というナレーションが付く。映像が綺麗で好きな作品である)。

英語の「dream」にも同様に二つの意味がある。「dreams come true」は願望である。因みに、「dreams come true」(複数形)と「dream comes true」(単数形)のどちらが正しいのか知らない(ただし、後者なら冠詞が欲しい気がする)。

これに対し、ドイツ語の場合、願望は「Wunsch」で、眠ってる間に見る方は「Traum」と分かれる……と思ったら、「Traum」にも願望の意味があるそうだ(私の電子辞書がそう言っている。直前に見ておいてよかった)。

私は、結婚にはなんの願望も持ち合わせていないから、「これは夢である」と書いたのは、眠っている間にそういう夢を見た、ということである。その夢には続きがあって、配偶者がちっとも現れないうちに地上げ屋が現れて近くの不動産を買い漁っているので、ウチも高く買ってもらえるかも、と喜んだところで目が覚めた。

こんな具合に、はっきりした夢を長時間見ていて起きた後もよく覚えてるということは、ろくな睡眠をとってない証左である。だから、朝起きたとき心身ともぐったり疲れているのである。疲れるために寝ているようなものである。あさイチで教わった鶏むね肉とレモンの効果もすっかり帳消しである。

ときどきテレビで「睡眠」を特集することがあるが、あるときは「345呼吸法(3秒かけて鼻で息を吸って4秒止めて5秒吐く)が良い」と言い、あるときは「7,8秒かけて吸って7,8秒かけて吐くと良い」と言う。夢の中でどっちが良いか悩むせいでますます熟睡できないワタクシである。

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タリフマンVSタックスマン

2025-03-14 13:44:09 | 言葉

トランプ大統領は、自らを「タリフマン」(関税人)と称している。ふと思った(ふと思うことがブログ記事のきっかけである)。日本語では関税も租税も「○税」ということで同じ税金の扱いだが、英語では関税がtariffで税金(租税)がtax。重なるところがなくて言葉的にはまったくの別物である。ドイツ語も関税がZollで租税がSteuerと別物。Steuerは種類に応じていろんな○○Steuerがあるが、その中に関税は含まれない。同じ強制徴収金でも、国民に上からふっかける租税と物が国境を越えるときにかかる関税は成り立ちからして異種という考え方だろうか。

トランプさんが自らをタリフマンと呼ぶときは誇らしげだが、他方、タックスマン(徴税人)の方は、歴史的にも人から歓迎される仕事ではなかったようだ。例えば、イエスの弟子は社会的に蔑まれていた人が多かったというが、十二使徒の中のマタイ(バッハの受難曲で有名)が徴税人であった。最近でも、ビートルズの「タックスマン」という曲の歌詞は、全編が徴税人(タックスマン)に対する恨み辛みである。

欧米では脱税をした人を「市民としての義務を怠る極悪人」として徹底的に糾弾するというが、反面、徴税人のことも悪くいうのはなんだか矛盾してる気がする。お国のために喜んで税金は払うが、偉そうな徴税人には払いたくない、ということか。

因みに、私が商売をしていたときは(廃業前は)、仕事用とプライベートの支出をきっちり分け、どっちにも該当するものについては厳密にパーセントを考えて振り分け、自分で作った複式簿記のプログラムで完璧と自惚れる会計処理をしていたから、いつ徴税人様に来ていただいても大丈夫、来て下さったら完璧な帳簿をご覧に入れてとっぷり自慢しようと思っていつかいつかとそのご到来を待ちわびていたのだがとうとうお迎えすることはなかった。大蔵省(当時)の知人にその話をしたら、あんたんとこみたいな行くだけ無駄な所ははなっから相手にしないのだ、と言っていた。たしかに、税金をお支払いできるほどの売り上げがなかったのは事実である。

そんな徴税人が「正義の味方」として注目を浴びた伊丹十三監督の映画が「マルサの女」である。伊丹監督の作品はどれも面白かったが、初期の「たんぽぽ」は、一般には人気がなかったそうだが私は好きである。ラーメン屋の話なのだが、シャトー・マルゴーのヴィンテージの話などが出てきて蘊蓄に溢れているところが好きである。

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民族と言語/「あげー」と言ったらギャル/ヒロインのアリバイ

2025-02-01 10:48:42 | 言葉

人種は混血が進むと民族を決める決定打ではなくなる。私がこの地に引っ越して来た35年前、この辺りは家賃が安いから外国人がたくさんいて(大久保周辺の話ではない)、深夜バスの車内などはいったいどこの国のバスかと思うほど。きっと彼らが日本人と恋に落ちて、20年後には優秀な二世がたくさん育っているだろう、彼らが新たな日本を切り拓くのだろうと思ってたらまさにそうなった。

かつてアーリア至上主義に被われたドイツも、例えば公共放送のニュース番組のMCを日替わりで務める三人のうち一人はジンバブエの血を引き(私は、この人の大ファンである)、もう一人はシリアの血を引いていて、見かけ的にはローマ時代にカエサルが見たゲルマン人とはだいぶ変わっている(因みに、以前、ドイツ人とスペイン人を両親に持つサッカーのドイツ代表がいて、私などから見るとどう見てもドイツ人に見えるのだが、当時習ってたドイツ人のドイツ語の先生などは、スペインの血が入っているのがすぐ分かる、と言っていた)。

では、何をもって日本人、ドイツ人と呼ぶのかと言えば、基準の一つは言葉である。母国語が日本語であれば日本人であり、ドイツ語ならドイツ人というわけである。言語による民族の分類はよく行われてきた手法であり、例えば、中東において、イラン人はインド・ヨーロッパ語族であり、アラブ人はセム語族である、といった具合である。

何をもって「ギャル」と呼ぶかについても、服装など種々の基準があり得ようが、一つの大きな要素はやはり言葉ではないだろうか。「あげー」と言ったらギャル、といった具合である。

ところで、ユダヤ人は、元々はセム語系の民族であり、話す言葉はヘブライ語であったが、では、現代においてこれらの要素を持っている人が必ずユダヤ人で、持ってなければユダヤ人でないかというと、必ずしもそうはならないようで、重要なのはユダヤ教徒であるか否かである。かように、宗教もまた民族の分類に大きな役割を果たしているとのことである。

「あげー」と言えば、現朝ドラにここしばらくヒロインが登場してないという噂を聞き、今週の月曜日にちらっと覗いてみると、管理栄養士になるために勉強するヒロインの姿が映り、あれ、出てるじゃん、と思ったら、この一瞬だけだったらしく、その後はやはりギャルが跋扈していたらしい。一瞬のヒロインのシーンの挿入はヒロインはちゃんと朝ドラの仕事を続けているとのアリバイ工作のようでもあるが、「刑事コロンボ」においても大体犯人は犯行現場とアリバイ現場の間を超速で移動してアリバイを作るものであり、あの一瞬のシーンは朝ドラのヒロインが他の仕事で忙しいことを隠すためのアリバイにならないというのが私の見解である。

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