黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

エクスタシーの音楽(バラの騎士の前奏曲)

2025-03-01 15:00:55 | オペラ

某ピアニスト様が、「ここには(話のわかる)大人だけがいるから言うけど、リストの音楽はエクスタシーを表現している」と仰った。では、ワタクシも、このブログの読者は(話のわかる)大人だけだから言うけど、リヒャルト・シュトラウスの音楽はエクスタシーを露骨に表現している。以下は、その例である。過激、もとい(たしかに描写は過激であるけれど)歌劇「バラの騎士」の前奏曲の実況中継である。舞台は、夫が留守の元帥夫人の寝室。ベッドには元帥夫人(32歳)と、そのツバメであるオクタヴィアン(17歳)がいる。使う楽譜はヴォーカルスコアのピアノ伴奏譜である。

前奏曲はオクタヴィアンの突撃の咆哮で始まる。

楽器はホルンである。金管楽器奏者にとってはこの冒頭のホルンを誰が吹くかが一番の関心事だという。それぞれの分野で注目ポイントが違うのが面白い。

オクタヴィアンの宣戦布告に柔らかく受けて立つ元帥夫人。

奏でるのは弦楽器である。

そして、くんずほぐれつの肉弾戦となる。

音の高まりは情欲の高まりを表す。音がやたらとたくさんあるように見えるが所要時間は20秒。そして、オクタヴィアンは頂点に上り詰めてあえなく討ち死に。

そして萎える(右手の下降音型)。

諦めのつかない元帥夫人は屍を掻き抱き、なんとか奮い立たせようと必死。

結局諦める元帥夫人。この後、少し気まずい雰囲気が漂うが、じきに仲直り。

そして、鳥の声がして朝を迎え、第1幕の幕が開くのである。

以上の内容について、けしからんと思う方は、文句をリヒャルト・シュトラウスに言っていただきたい。

シュトラウスは、この前奏曲が改心の出来だったからであろう、アラベラの第3幕への前奏曲でも同様の試みをしている。だが、あっちは男女ともある程度の大人のせいか、くんずほぐれつがダラダラ続いて本作ほどのインパクトはない。やはり、本作は、32歳の夫人と17歳のツバメという組合せがもたらした快作である。

なお、プロの方は「バラの騎士」を「ばらきし」と呼び、その真似をするアマチュアも多数見受けられる。日本人の四文字好きがこんなところにも現れているわけだが(チコちゃんで「日本人は4モーラが好き」と言っていた。「4モーラ」とは「4拍」のことであり、とどのつまりは「4文字」である)、私は「ばらきし」とは絶対言わない。豚のばら肉を連想してしまうからである。

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「ローエングリン」の中の関ケ原

2025-02-14 11:18:51 | オペラ

忘れてた。「ローエングリン」で一番有名なのは結婚行進曲だった。結婚には縁がないからはなっから頭になかった。一般の結婚式では、入場時がコレで、退場時がメンデルスゾーンの結婚行進曲なんだよな。あと、オペラなんだから声を聴きたいんだ、という人にとっては、ローエングリンが歌う「遙かな地で」。第2幕の悪党夫婦の二重唱も欠かせない。

だが、私の注目ポイントは第3幕の場面交換の際の間奏である。ウィーン国立歌劇場の引越公演でオケピットの中を高いところ(安い席)から見ていて、すさまじい攻防劇に圧倒されて以来のことである。その様子はこう。オケピットの左端にホルン部隊が陣取り、右側にトロンボーン舞台が陣取って対峙し、互いに咆哮し合う様は、まるで関ケ原で対峙した西軍と東軍が矢をいかけ合うごとしであった。最近も、久しぶりに見たレーザーディスクの「ローエングリン」がウィーン国立歌劇場だと思ったら、件のシーンでカメラがホルン部隊とトロンボーン部隊を交互に抜いていた。カメラ演出に我が意を得たり!であった。

物語の時代は中世。だから、三権分立などはかけらもなく、政治的権力は王に集中している。行軍を決定する(行政権を行使する)のはもちろん、裁くのも(司法権を握っているのも)王。王は、ことあるごとに「国法に基づき」と言うが、どうせ自分自身あるいは自分のご先祖様が決めた法律だから立法権も王のものである。ただ、法律があるだけマシである。王の気まぐれで処罰されることがないからである。ハンムラビ法典も武家諸法度もそういう意味で価値がある。

そうした観点からオケピットの中を見ると、少なくともトロンボーン部隊とホルン部隊の二権分立が成り立っている、と言える。

先に「悪党夫婦」と書いたが、この夫婦は婦唱夫随である。すなわち、邪教を信じる妻のオルトルートがクーデターを仕組んで夫テルラムントはそれに従ったのである。

「邪教」と書いたが、それはローエングリンが属するキリスト教世界から見た話で、オルトルートが声を張り上げてその名を呼ぶのはヴォーダ(タ)ン、フライアと言ったゲルマンの古い神々。これらの神々は「ローエングリン」でこそ異端扱いだが「ニーベルングの指輪」では主役を張る大物である。

同様に、メンデルスゾーンの「エリア」が描く古代イスラエル王国の世界では、妻イゼベルの言いなりになってバール神信仰を取り入れたアハブ王は極悪の扱いだが、歴史家の評価は決して低いものではない。因みに、「エリア」を某A合唱団で取り上げた際、私はイゼベルを歌ったのだが、このイゼベルが後に高窓からほっぽり出されて無残な死を迎えることは、歌ってる最中は知らなかった。

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ワーグナーの毒

2025-02-13 10:25:06 | オペラ

ワーグナーが好きと言っても、それがタンホイザーの大行進曲だとかローエングリンの第3幕への前奏曲だったらまだ健全である。その先に進もうとしても、その長さとエンドレスのメロディーに途方がくれて早々に引き返すから冒されずに済む。だが、まかり間違って、帰る道を間違って奥に進んでしまうと次第に体に毒が回り抜けられなくなる(中毒)。この状態になった人をワグネリアンと言う。かようにワグネリアンは毒に冒されているから危険である。近づかない方がいい。

かく言うワタクシは、上記の例にもれず、中学のとき学校を通じて定期購読していた音楽雑誌の付録のレコードでタンホイザーの大行進曲とローエングリンの第3幕への前奏曲を聞いたのがワーグナー初体験。かっこいいな、とは思ったがまだ毒は嗅いでない。その後、プラネタリウムのBGMでローエングリンの第1幕への前奏曲を聴いて、そこに妖しい香りを嗅ぎとった。それでも、当時、レコードは1枚2000円でワーグナーのオペラは長いヤツになると4枚組だ、5枚組で高嶺の花。もっぱらカタログでながめる対象だったうちは中毒のおそれはなかった。ところが、家にFMを聴けるラジカセが来て状況が変わった。NHKのFMが毎年暮れに放送するバイロイト音楽祭のライブ録音を聴けるようになった。まず、「ジークフリート」の「森の囁き」あたりから毒が回り始めた。決定的だったのは、朝比奈隆指揮の新日フィルの演奏会。「ラインの黄金」のコンサート形式での上演だった。二時間半休みなしで、途中で眠くなったが、後半、ドンナーが槌を振るって雲を晴らすあたりからなにやら体中の細胞が反応し始めた。そこから最後の音が鳴り終えるまで全身耳になって聴き入った。毒が全身に回った瞬間であった。その後の私は、例えば「ワルキューレ」を聴いていてノートゥングのライトモティーフが鳴ると涙が出ると言った風でもはや廃人である。

なーんてことを、昨年の暮れ、久しぶりにバイロイト音楽祭の昨年の全演目のFMエアチェックに成功した際、思い出した(放送日や放送時間がその年によって違うから、なかなか「すべて成功」というわけにはいかない)。

因みに、ウチのパソコンで「ワグネリアン」でググると真っ先に出るのはダービー馬である。「ローエングリン」でググると、1番目にヒットするのはさすがにワーグナーのオペラで、同名の馬は2番目である。

私の実家でFMが聴けるラジオの導入が遅れたのは、その競馬のせいである。父が短波放送で競馬の実況を聴きたいから短波放送を受信できることがラジオ購入の必須条件であったところ、当時のラジオはFMと短波の二者択一だったから、当然、FMが切って捨てられたわけである。

なお、今回は、当初案ではレーザーディスクで視聴したローエングリンのことを書くはずだったが、前日談を書いてたらそっちの分量が大きくなり、独立した投稿となったものである。その点ではワーグナーの「ニーベルングの指輪」も同様であり、最初は現在の「神々の黄昏」に相当する作品だけを書くつもりが前日談が膨らんで四部作になったものである。だから、ローエングリンネタは次回以降に繰り延べである。

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地下牢と「フィデリオ」

2025-01-31 11:46:48 | オペラ

シリアのアサド政権が崩壊した際、地下牢に政治犯が収用されているのでは?という話があった。まるでベートーヴェンの唯一のオペラ「フィデリオ」である。「フィデリオ」はこういうお話。政敵ドン・ピツァロによって地下牢に押し込められた正義の人フロレスタンを救出すべく、その妻レオノーレが男装してフィデリオと名乗って牢番の助手となり、夫を救い出してめでたしとなる。

私は、10代の頃ベートーヴェン一途だったから、その唯一のオペラを是非聴きたいと思ってなけなしの小遣いをはたいてレコードを買った。カール・ベームが1944年(戦時中)にウィーンの国立歌劇場を指揮した演奏だった。当時、ベームの「新録音」が出ていたのになぜそんな古いものを買ったかと言うと千円盤で安かったから(当時、普通のレコードは一枚2000円だった)。私にとって選択の余地はなかった。ヒルデ・コネツニのレオノーレは素晴らしかった。だが、さすがに古すぎて、音は冥界から聞こえてくるような音だった。

結局、アルバイトで貯めた金でベームの新録音を買った。こっちは、テオ・アダムのドン・ピツァロがキレッキレで素晴らしかった。レオノーレのギネス・ジョーンズとやらは、ビブラートがわんわんかかっていて良いと思わなかった。ジョーンズ砲の直撃を受けてあっさり降参するのはまだ先のことである(その事は別の回に書く)。ところで、この新録音のライナーノートの解説を書いた人は、とにかく「新しくなきゃダメ」という人で、このオペラの序盤を「従来の慣習から抜け出ていない」の一事で酷評していた。ロッコのアリアなどは「滑稽ですらある」と書いていた。だが、その後、海外の演奏を生で、又は録音で多数聴いたが、本場のファンはロッコのアリアだって良ければばっしゃんばっしゃん拍手を送っていた。人の意見を真に受けてはいけない。あくまでオリジナルに接して自分で考えるべきである。

因みに、今回のフジテレビがらみの事件のことだが、発端となった記事を書いた週刊誌がしらーっと記事の訂正をしたり、記者会見の場を自分の演説の場と勘違いしてる記者がいたり、しかもその記者達が自分で取材をしてないもんだから盾にした週刊誌がこけたらみんなこけちゃったりと目を覆う状況であるが、逆に、ああいう醜態を見せてくれたおかげで、国民は、メディアの言うことをまるまる信じてはいけないという教訓を得て一段賢くなったと思う。

「フィデリオ」に戻る。一心に夫の救出に励む「フィデリオ」(Fidelio)は英語の「fidelity」(貞節)と同根であることは容易に想像がつく。ベートーヴェンは、こと恋愛に関しては石部金吉だったから、モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」などは許せなかった。因みに、「コシ」の姉娘フィオルディリージ(Fior-di-ligi)の名前の意味は「貞節の花」だが、妹娘に比べてかなりがんばったが最後は浮気の虫に抗しきれなかった。「名前負け」である。とか言いながら、石部金吉のはずのベートーヴェンだって、人妻と恋をして密かに子を設けたと推測する学者先生もいる。まさに「コシ・ファン・トゥッ『ティ』」(人間はみんなこうしたもの)である。

因みに、オペラ「フィデリオ」にもオペラにつきものの「愛の二重唱」がある。フィデリオが夫を救出した直後の夫婦の二重唱である。愛の二重唱にしては始まりと終わりが器楽的だが、中間部はとろとろである。

「あなたなのね」「僕だよ」「おー、天上の喜び」(きゃー、書いてて恥ずかしい。そして名前を呼び合う)「レオノーレ」「フロレスタン」「レオノーレ」「フローーーーーーーレスタン、フロレスタン」この間、弦楽器がちろちろ伴奏を弾く様子も糖分増量。石部金吉のベートーヴェンがよくもまあこんな甘ーい音楽を書いたものだ、いや石部金吉だからこそこのような赤面の音楽を書いたのだろう。イタリアオペラでは、夫婦間で愛の二重唱など歌うことはない。歌うのは結婚前か不倫の間柄の男女である。だが、十代の頃の私は、こんな色っぽい音楽がこの世にあるのか?と思って聴いていた。石部金吉は十代にこそ相応しい。

フィナーレはうって変わって壮大である。全人類の喜びを歌ってる感じは第九の先駆けと言えるかもしれない。うーんと盛り上がって終わるからほぼ間違いなく観客は満足して帰る。だから、このオペラは、イタリアオペラのようなメロディックなアリアがないにもかかわらず、ドイツ語圏では人気作であり、記念式典でよく演奏される作品である。

因みに、1944年のベームの古い録音の音が冥府から来たようだと書いたが、だからこそ現実にはあり得ないようなおどろおどろしい音になって効果を発揮してるところもある(フルトヴェングラーのレコードについても同じことが言える)。レオノーレ序曲第3番(慣例としてエンディングの前で演奏される)などは、私はここで聴く演奏が最高だと思っている。

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「魔笛」にトロンボーンが登場する件

2025-01-25 13:15:06 | オペラ

レーザーディスクのダビングは粛々と進んでいて、モーツァルトもいよいよ「魔笛」である。告白すると、私は「魔笛」が少々苦手である。と言うのも、劇中至るところで「Tugend!」(徳)が叫ばれる。パパゲーノなどはしょっちゅう「Tugendがない」と言って怒られる。「Tugend」のなさでは、私はパパゲーノに引けを取らない。「徳」が不得意である(駄洒落(のつもり)である)。登場人物にも感情移入ができない。王子のタミーノは、冒頭、大蛇に追いかけられて失神するほど情けないくせに、庶民のパパゲーノを前にした途端、いきなり上から目線で偉ぶる。私は「上から目線」が大嫌いである。だが、パミーナはそんなタミーノにぞっこん。この二人はエンディングでくっつくのだが「ととさまバカならかかさまパー」を地で行く夫婦になるだろう。その他、後から後からろくでもない人物ばかりが出てくる様は、まるでかつての朝ドラ「チムドンドン」のようである。

その「魔笛」の序曲を聴いて、はれ?と思った。トロンボーンの音が聞こえるのである。トロンボーンは「神の楽器」といわれ、古くから教会で重用された。だから、ハイドンの天地創造や、モーツァルトのレクイエム(「妙なるラッパ」はトロンボーンで奏でられる)で使われていることは重々承知の助である。他方、教会の外では(世俗の世界では)、例えば、交響曲で最初にトロンボーンが使われたのはようやくベートーヴェンの時代になってからである。オペラは、交響曲に負けないくらい(あるいは輪をかけて)世俗的である。だから、魔笛の序曲でトロンボーンの音を聴いて、あれま!と思ったのである。考えてみれば、ザラストロの周りは宗教色一色で宗教儀式っぽいことも行われる。その際、三つの荘厳な和音が奏でられ、その部分は宗教音楽のようである。序曲の冒頭にもそれがある(赤枠がトロンボーン)。

それがトロンボーン採用のきっかけだったのかもしれない。だが、すましたフリをしていったん採用されればこちらのもの、とばかり、序曲のクライマックスでは大暴れ。

他を圧倒して鳴り響くその音(上の楽譜の赤枠の箇所とか。私は、ここでトロンボーンに気付いた)は、もはや美しい和音で神の世界を表すなんて感じではなく、マウントをとりに来ているとしか聞こえない。すなわち、世俗丸出しである。これが、ベートーヴェンの第五交響曲のトロンボーンにつながったと言ったら推測がすぎるだろうか。

そのトロンボーンこそが、私が最後に手にしたい楽器である。神様、これが最後のお願いです。どうか、私にトロンボーンをお与えください(……って、欲しいならとっとと買えば済む話である)。

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