黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

銅像のわいせつ性/幸福の王子

2024-10-16 11:19:26 | 小説

朝方の自分のブログ記事の見出しをスマホで見たら、四方から撮った銅像の写真のうち背後から撮ったモノが中心になっていた。我が意を得たり!お尻が正面で何が悪い、と言う私の主張がスマホ(だかなんだか)に通じた思いである。

その記事の中で、もし裸像が生身の人間だったら公然わいせつ罪でとっ捕まると書いたが、なぜ銅像ならOKなのかを深掘りしてみた。
考えられる理由その1。銅像は芸術作品であり、わいせつ性はないから(ただし、チャタレー事件判決のときは、最高裁判所は「芸術作品であってもわいせつ物となりうる」と言っていた)。
その2。銅像には肌感覚が感じられず、わいせつ性がないから(要は、なまめかしくない、ということ)。
その3。銅像だからOKなのではなく、そもそも裸をわいせつ物と考えること自体が間違っているから(この説では、生身の人間が真っ裸になってもとっ捕まらないことになる)。
その4。そもそも、罪は「人」が犯すものであり、銅像は人ではないから(それは言っちゃあ、おしまいよ)。

理由1と3に関連するが、もう30年以上前になるだろうか、東京文化会館でロシアのオペラ団がプロコフィエフの「炎の天使」というオペラを上演した際、私は客席にいたのだが、終幕で、舞台上の群衆が衣服を脱ぎ始め、どこまで脱ぐのかと思ったら全部脱いで、しかもかなりあられもないポーズで舞台上をのたうちまわっていた。その演出について予備知識のなかった私はびっくりした。後から、写真週刊誌のフォーカスが報じていたが、当日、客席には私服刑事が紛れていたそうである。わいせつだ、と思ったらストリップ小屋におけるのと同様、舞台に飛び込んで演者を取り押さえるつもりだったのだろうか。だが、なんらお咎めはなかった。もし、事件になったら私はその場にいた者として「全くむらむらしなかったし、恥ずかしいと思わなかったし、けしからんとも思わなかった」(そう思うことはわいせつ性の要件である)と証言してやろうと鼻息を荒くしたが、その必要はなかった。

因みに、以前、「タモリ倶楽部」が男性の裸体を刻した彫刻について特集したことがあって、その彫刻の数々は局部に細工をしたりして、わいせつ性を疑われないような(涙ぐましい)工夫がなされていた。

前置きが長くなったが(それだけで終わりそうになってしまったが)、私が「銅像」で思い出すのは「幸福の王子」である。何不自由なく育った王子が死んだ後銅像になって街を見回すと生活に困ってる人がたくさん目に入り、越冬のため飛び立とうとしてふとその銅像に止まったツバメに頼んで自分にはめ込まれている宝石を困ってる人に届けるよう頼み、それを繰り返すうちに冬が来て、ツバメは凍死し、みすぼらしくなった王子像は火にくべられて溶かされるが二つに割れた鉛の心臓だけは溶けなかった、そして神様から「この街から一番の宝物を持って来い」と命ぜられた天使が王子の鉛の心臓とツバメの死骸を持ってくると神様は天使を褒める、という物語である。子供の頃だったが、NHKの教育テレビ(今のEテレ)で影絵芝居で見て、たいそう感動したものである。「♪幸福の王子が泣いている」と「♪ツバメが飛ぶよ、ひらりー」という挿入歌が印象的で今でも覚えている。思い出すといまだに目頭が熱くなる。へー、今、知ったのだが、この子供向け小説ってオスカー・ワイルドが書いたのか。オスカー・ワイルドって言えば「サロメ」が有名で、それを元にリヒャルト・シュトラウスが作曲した「サロメ」の公演ではヒロインが「七つのベールの踊り」で素っ裸になることがあって話題に……まったくもー、感動的な話になりそうだったのにそっち系に戻したのは誰だ?私だ。

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細川ガラシャが念じるオラショの「のす、のす」とは

2024-10-14 09:28:20 | 小説

ときどきキンドルに入れた芥川龍之介全集を読んでいる。短編ばかりで、たまにある長編だって漱石なら短編の部類。うーんと短いヤツなどはショパンの子犬のワルツを弾き終わるのより先に読み終わる。

漱石が明治の人なら芥川はちょっと後輩だから大正時代の人。だから、描かれる世相が少し今風。それでも「田端の音無川のあたり」とあったから、西日暮里から田端にかけて今の京浜東北線が走っていたあたりを流れていた音無川が当時はまだ健在だったようだ。

そんな芥川の作品(彼としては長い方)に「糸女覚え書」というのがある。関ケ原の際、細川ガラシャが石田三成の人質になるのを拒んで家来に胸を突かせるまでのことを描いた話。なにが面白かったって、一般に、細川ガラシャって、美人で信仰に篤い「いい人」に描かれることが多いでしょ?ところが、ここでは、西洋かぶれで、上から目線の傍若無人で、故もなく侍女を折檻するくせに、人からお世辞を言われるのは大好きな人間に描かれてる。こういう人が上司なら最悪って感じ。

そのガラシャが、始終おらつしょ(oratio=キリスト教の祈祷文。それが訛って「オラショ」になったと言われているが、芥川は「つ」を入れている)を唱えていて、それが「のす、のす」に聞こえて思わず笑ってしまう侍女がいた(それでまた折檻された)というのだが、いったい、祈祷文のどこが「のす、のす」に聞こえたのか、私にはそこが問題である。キリスト教の宗教音楽をそこそこ知ってるけれど、どの部分だかさっぱり見当がつかない。

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