上野台地を歩き回っているうちに位置を覚えた谷根千が今回のぶらぶら旅のターゲット。すると、途中立ち寄った西日暮里公園の木立の中にひっそりとブロンズ像が建っている。写真は、同じ像を四方から撮ったものである。
この公園は何度か通ったが、これまで、なぜこのブロンズ像に目が留まらなかったのだろう。おそらく、いずれも長旅だったゆえ(1回目は上野から駒込、2回目は西日暮里から王子)、ゆっくり目を凝らす余裕がなかったのだろう。今回は、狭いエリアでの探索だったから時間はありすぎるくらいあった(だから、先に言ってしまうが、夕焼けだんだんに着いた頃、まだお日様が高くて夕焼けではなかった)。
この三人の裸婦像(ネットではこのように呼ばれることが多いようだ)について、どこがいいとか心に沁みるだとか裸だから子供に見せられないとか何か着るモノを着せたあげたいとかそういうことを書くつもりはないし(もう書いている)、大体、私は美術の門外漢だから分からない。ただ、思ったのは、一応、「正面」とされているのは4枚のうち一番左側なのだろうが(ネットに揚がっている写真はこの角度のものばかりである)、角度が少し変わるだけで見え方が違い、どの角度から見ても魅力的で、「正面」と言っていいものである。お腹が正面で背中が背後と決まっているわけではあるまい。とりあえず四方から撮ったが、これとて連続した角度の中のほんの一部分にすぎない。
この作品は、この地に在住されていた故・立川義明氏が作成した「環」という作品だそうである。この像の写真を紹介している記事も、不思議と作者名と作品名を明らかにしているものは少ない。その意味で、今回のブログ記事は、世のため人のためになっていると自負するものである。
因みに、屋外の彫刻は原則として著作権の対象ではないが、それを撮影した写真には著作権が発生する。なるほど、無限大のアングルがあるから一枚一枚に撮影者の個性が宿るわけである。
因みの因みに、これが銅像だから良いが、もし生身の人間なら全員公然わいせつ罪でとっ捕まってるところである。
この像についての案内板はなかったが、「道潅船繁松」の案内板はあった。昔、この公園(の乗ってる台地)のすぐ東側(現在京浜東北線が走っている辺り)は海で、物資を運ぶ船はこの地にあった松を目印にしたという松である(海が埋め立てられた後も、広く田園風景が広がっていて、線路の辺りには音無川(このブログの栄えある第1回で触れた)が流れていた)。果たして、その案内板の脇に大きな松の木が立っていたが、
この松が、その「船繁松」なのかどうかについては記載はなかった。松は樹齢が千年に達するものがあるというから、船繁松であっても不思議はないのだが、もしそうなら大えばりで書くだろうから違うのかなー。因みに、すぐ脇が海だってことは、この辺りが陸地の端だってことである。道潅山に縄文時代から弥生時代にかけての遺跡があるのもそのためである。
なお、この公園にたどり着く前、今回も西日暮里駅から見上げたおなじみの断崖(道潅山)は、
上野台地が一番細くなったところを道灌山通りが突っ切って分断された箇所で、高低ファンにとってはなかなかの聖地のようで、どっかの雑誌の特集の第1回は西日暮里だった。
今回は、断崖の北側の向陵稲荷坂から上って、道潅山のてっぺんをぐるっと回って、ひぐらし坂を下りて、道潅山通りに架かる歩道橋に出て、
これを渡って対面の断崖上にある西日暮里公園に向かったものである。