黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

まるで動物園(フィガロのアリア)

2024-12-21 13:41:17 | 料理

「フィガロの結婚」で一番有名なアリアは第1幕でフィガロが歌う「もうとぶまいぞ、この蝶々」だろうが、フィガロが歌うアリアなら第4幕のアリアがたいそう笑える。新婦のスザンナが浮気したと誤解したフィガロが、世の女性に対してありったけの罵詈雑言を浴びせる歌である。

フィガロは、罵詈雑言の方法として女性をいろいろなモノに例える。例えば、魔女、人魚、フクロウ、彗星、バラ、キツネ、クマ、ハト等々……まるで動物園。まあ、魔女は分かるとして、一見なんでこれが魔女と同列なの?と思うものもある。例えば「人魚」。アンデルセンの童話の人魚姫は木村多江的、つまり薄幸だが、ここでは「Sirene」、つまり、きれいな歌声で船乗りを惑わして遭難させる「セイレーン」のことだと分かればガッテンである。因みに、「セイレーン」は「サイレン」の語源である。

フクロウ(civetta(e))には「色気で男を陥れる女性」の意味があるそうだ。意外である。
明るく輝く彗星がなぜいけないかというと、光を奪うからだという。理屈をこねればなんでも悪口になってしまいそうである。
バラはトゲがあるから、ということは容易に想像できる。

キツネ(volpe(i))には「vezzoso(e)」という形容詞が付いている。この形容詞は、「愛らしい」のほか(これだと悪口にならない)、「しなをつくる」という意味があるからそっちだろう。だが、もともとキツネに「しなをつくる」イメージがあるのか、それともこの形容詞が付いて初めてそういう意味になるかは浅学な私には不明である。なお、ヤナーチェクのオペラの「利口な女狐」などは、たしかに魔女と同列でしかるべきである。

同様のことが、ハト(colomba(e))にも言える。「maligno(e)」(意地悪な)という形容詞がついているが、もともとハトに意地悪な側面があるのか、それともこの形容詞がついて意地悪になるのかは浅学な私には不明である。いずれにせよ、一面では「平和のシンボル」に祭り上げときながらここではこの扱い。人間とは勝手なものである。

分からないのがクマ(雌熊=orsa(e))。「くまのプーさん」ではなく秋田のスーパーに入ってたてこもったクマの同類でしょ?と思ったら、「benigno(e)」(温厚な)という形容詞がついている。「温厚なクマ」、まさにプーさんである。魔女と同列の理由が不明である。因みに、秋田のスーパーに入ったクマは立て籠もった先が食べ物の宝庫だからなかなか出てこなくても不思議はなかった。罠にかかった後は、電気ショックで駆除されたという。せめて、供養に食べてあげたら?と言う人もいたろうが、麻酔銃を使っているので食べることはできず焼却したそうである。因みの因み、大正時代の話だが、某村に大惨禍をもたらした人食いグマの肉を、駆除後にその村の住人がしきたりに従って食ったそうだ。

このアリアを、日本語の訳詞で聞いたことが何度かあるが、その中で、一回聴いたきりだが強烈だったのですっかり覚えてしまったものがある。出だしはこうである。

原詩は「ちょっと目を見開け!」である。逐語訳にはなってない。中間部にはこんなくだりが出てくる。

原詩は、「(女は)男が苦しむように魔法をかける魔女」であるから、こちらは、かなり逐語訳的で、かつ、うまく音符に乗せている。と、感心する一方、こんな歌を歌ったら怒られるんじゃないの?とも思った。半世紀近く前でもそう感じたのだから、ジェンダー平等が強く言われる今なら百叩きの刑……という世相に一石を投じたのがドラマ「ふてほど」である。年末に一挙再放送するという。考えてみれば、イタリア語の原詩で歌われたら「高尚な音楽!」とか言ってすましておいて、日本語になって意味が分かった途端に文句を言うのも変である。

一般に、訳詞で歌う場合、直訳のままだと言葉が多くなって音符に乗せるのが大変。チコちゃんで、秋川雅史さんが「ジングルベル」を直訳した歌詞で歌っていたが、まるで早口言葉。それを見事に歌っておられた。

この歌を誰で聴きたいかと言えば、それはヘルマン・プライである。フィガロといえばプライ。前回の記事に書いたベーム指揮の映像のフィガロも、そしてウィーン国立歌劇場の初来日の際のフィガロもプライであった。そのとき、スザンナを歌ったのがルチア・ポップである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷やご飯

2024-12-13 11:37:36 | 料理

買ってからじわじわ順位を上げ最近は今年の買い物ベストスリーに入るいきおいのミニクッカー。毎日1合炊いて2食で食べきっている。2食目は冷やご飯。これが美味しい。圧力鍋で炊いてた頃は、一度に多量に炊いて小分けにしてラップに包んで冷凍し、食べるごとにチンしてたから冷やご飯を食べる機会はなかった。

冷やご飯であることは写真で分かる。


カタチになっているのは冷えて固まっているからである(冷やご飯のカタチで占いができる?)。

ご飯について一つ疑問。最近は精米技術が進化してるから一生懸命研ぐ必要はない、一回程度たら~とすればいいと聞く一方で、料理人は今でもごしごし研いでいる。私は、無洗米でないにもかかわらず一回たら~っとすら研がないですぐミニクッカーで炊き始めている。もともと、銘柄不明の安い古米だからそんなところでよいだろうとたかをくくっているのである。

そんな銘柄不明の古米ですら物価上昇の波が押し寄せている。激安スーパーで米を買って会計をしたら8000円を超えていた。なんかの間違いか?と思ったら間違いではない。米の価格(10㎏で5000円超え)が全体を押し上げたのである(なお、地名の「押上」は昔の海岸線で波が陸を押し上げていたから付いたという)。それでも、5㎏にすると2500円超は一般と比べるとかなり安い。さすが、銘柄不明の古米である。

江戸時代に起きた米価高騰による打ち壊しのときは、短期間に米価が4倍になったという。日本史上最も有名な米騒動は1918年(大正年間)でそのときは3倍だという。現在は2倍弱だが当時とは食糧事情が異なる。当時は米が主食であった(今でも主食?でも比重が違う)……どころでなく、江戸時代の江戸っ子は米飯ばかり食べていた(だから脚気になった)。その米の値段が4倍になったと言ったら、これは大事(おおごと)である。打ち壊しが起きるわけである。だが、大変統制のとれた、秩序正しい打ち壊しだったそうである(NHKの「英雄達の選択」より)。「打ち壊し」と「秩序正しい」は二律背反の感じもするが、そこが両立するのが日本人である。

「冷やご飯」から「ご」をとると「冷や飯」(ひやめし)になって、思いっきりネガティヴになる。

なお、私も銘柄米の新米を炊く機会があれば(生涯訪れるか不明だが)、そのときはしっかり研ぐ所存である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半身浴/釜ゆで

2024-12-11 11:54:37 | 料理

12月も、はや3分の1が過ぎて街路樹の銀杏はこないだまで緑が混じっていたものがまっ黄っ黄。ウチの冷蔵庫の野菜室も色づき始めた(もともと見切り品だから足が早い)。天ぷらにして使い切ろう、だったら油を使うんだから鶏を唐揚げにしよう。天ぷらと唐揚げは、「類」は違えども同じ揚げ物であるから「種」は同じ。油の入った鍋を使って連続して作れる。ということで実行。

その油のことだが、例によって前回の残り油を廃油缶に戻したヤツを使うのだが、キャラメル色が相当濃くなってきて、食した日の夜中、胃の不快感で目がさめることもある。そろそろ限界のようだ。捨てよう……などという発想は私にはない。使い切ろう、である。すなわち、これまで減った分だけ新しい油を足して量を維持してきたが、足すのをやめた。すると、だんだん食材全部が油に浸からなくなってきた。どこかで見た光景だと思ったら私のお風呂の様子である。お湯をけちって15㎝しかはらないから体の半分が湯上に出ているのである(半身浴。これはこれで健康に良いとも聞く)。だから、ときどき体を回転させて体全部がお湯に浸かるようにする。同様に、油の中の具材もときどき回転させて全部が揚がるようにする。これで十分である。そして、ついに油を使い切った!次回からは「澄んだ」油で揚げられると思うと感無量である。

「ごはんだよー」に出演した某料理家も、NHKの人から油をあまり使わないように、と言われたそうで、頭の出た具材に一生懸命油をかけていた。

ただし、少ない油で揚げ物をすると、火が出るおそれがあるそうだ。だから、ずっと、横にはりついていなければならない。

なお、私が揚げ物に使っている鍋は、コレ。

金属製だし大きさが一人用にちょうどいい。だが、もともと何用の鍋かは不明である。以前は、レトルトカレーを湯煎するために使っていた。

因みに、石川五右衛門は、一族郎党もろとも秀吉によって釜ゆでの刑に処せられたが、そのときは熱湯ではなく油を使ったそうである。人間素揚げである。中には五右衛門の年端もいかない子供も含まれていたそうである。子供と言えば、信長が浅井を討ったとき、秀吉に命じて、浅井の長男の万福丸を串刺しにした。釜ゆでといい、串刺しといい、残虐刑を絶対に禁止する現在の日本国憲法から見れば許されざる行為である。そう言えば、故西田敏行が秀吉を演じた「女太閤記」で、万福丸を「串刺しにしたあ」とあっさり言う前田吟演じる蜂須賀小六に対して西田秀吉が「なんてことを」と言って嘆くシーンがあった。私は、主人公を「心優しき善人」にしておきたい脚本のあざとさを感じたものであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物価高のせいで痛風になった(かもしれない)件

2024-11-29 14:34:47 | 料理

永野芽郁は、1868ccのオートバイを駆るそうである。ええー?ブロロン、ブロロンとすごい音がする大型オートバイを?でも芽郁ちゃんなら許す。因みに、私が免許を取って最初に運転した四輪車(親に3万円で買ってもらった)は1000ccだった(サニー1000。エンジンは優秀だった)。

永野芽郁は、「ヨーロッパ」という国があると思っていたそうである。ええー?それって……でも、芽郁ちゃんなら許す。

永野芽郁は、撮影で立ってるときスタッフが座れと椅子をもってきても、他に立ってる人がいると座らないそうである。石破首相には耳が痛いかもしれない(だが、握手を求めてきた外国首脳に対して座って対応したことよりも、みんなが「挨拶回り」をしてるさなかに一人もくもくとスマホをいじっていた姿の方が嘆かわしく思った)。以上、今朝、あさイチで永野芽郁に関して語られた中で印象的だったお話である。永野芽郁の最新出演映画「はたらく細胞」は面白そうである。あまたの細胞の働きで私たちが健康でいられることがよく分かる映画のようである。

健康と言えば、私は健康診断の数値で唯一尿酸値が高くて、痛風持ちなのだが、これまでは2,3年に一度の発症だった。ところが、今年は今回で2回目である(そう、今、痛風発症中である)。いつもより間隔が短い。その理由は、どうやら物価高のせいらしいのである。こういうことである。

世の中物価高である。だから、私は食する肉を鶏に完全にシフトしたことは既に書いた。例えば、最近の私の食卓に並んだ料理はこんなところである。

上段左から右に、鶏の唐揚げ、鶏肉ピカタ、ささみと梅とチーズの挟み焼き(揚げ焼き)、下段左から右に、鶏のトマト煮、シュクメルリ、そして毎朝の鶏ラーである。なかなか栄養価的にも優れていると自画自賛であった。

ところが、痛風になった。もしやと思って「鶏 痛風」でググってみたら、案の定、「鶏肉にはプリン体が多く含まれるため食べ過ぎると痛風になる」がヒット。ど真ん中ストライクである。やはり、「ばっかり食い」はよくないのだな。少し高くても、たまには豚肉を、うーーーーーんとたまには牛肉を食べなければいけないのだな、と反省しているところである。

そもそもの原因は物価高である。そして、物価高を招いたのは、そうでなくてもウクライナ情勢で物価が高騰するのが目に見えているのだから諸外国に合わせて円をもう少し高い方に誘導しなけれればならないのに放置した政府・日銀である。だが、不思議と、そういう声はかき消されがちであった。実は、金持ち=株をやってる人にとっては、円安の方が株価が上がってありがたいのである。ピシッとしたスーツを着て金縁眼鏡をかけた経済の専門家がしたり顔で「円高がいいと言ってる人は何も分かってない」と言う背景には、実はその人が株をやっている事情があったりするのである。

そんな具合だから、今やこの国は、持てる人(株をやってる人=円安を切望する人)と、持たざる人(物価高で鶏肉ばかり食べてて痛風になる人=円高を切望する人)に分断されているのである。

因みに、ある競馬予想家が動画サイトで最近SNSを始めた旨を言ったらゲストの女性競馬記者が、自分の料理を撮ってアップするのはやめてください、と言っていた。件の記者さんは、お店が出す料理=真に美味しそうな料理の写真のみをアップするべき、というお考えらしい。

だが、私が自作料理をアップするのは、不味そうだからである。すなわち、私は、お店の料理が美味しそうなのは当然である、そんな写真は巷に満ちあふれている、そんなものは見たくない、素人の努力のあとが伺える写真こそ見てみたい、という考え、すなわち記者様とは正反対の考えを持っていて、だから自作の不味そうな料理の写真をアップするのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボジョレ・ヌヴォーと天ぷら

2024-11-25 10:36:40 | 料理

いつもは行かないお高めのスーパーにボジョレ・ヌヴォーが並んでたので思い出した。そうか、ボジョレ・ヌヴォーの季節だ。近所のお安めのスーパーには並んでないので気がつかなかった。お安めのスーパーは、数年前にボジョレ・ヌヴォーがずーっと売れ残ったことに懲りたらしく、ここんとこ仕入れてない。23区で一番地価が安い地域のスーパーの戦略として適切である。かと言って、ボジョレは別に高級なワインではない。新酒(ヌヴォー)を解禁日に飲むというイベント性で流行っただけで、その実は大衆ワインである。それでも、解禁日に間に合わせるために空輸するからそこそこの値段になる。最初にブームになったときは一本3000円以上した。昨今、ペットボトルが登場して、一本千円を切るまでになったが、ここんとこの物価高で、私が目にした一番安いヤツでも1500円前後である。

かく言う私は、23区で一番地価が安い地域の住民には違いないから本来ボジョレ・ヌヴォーを買う身分ではないのだが、大昔にワイン関係の仕事をしてた関係で毎年飲んできたから欠かすわけにはいかないとの強迫観念にかられて買って飲んだ。

バランスが良くて美味しい。ここんとこ、例えば酸味がきついとか、渋みがきついとかいう「突飛な」味のボジョレ・ヌヴォーには出会わなくなった。製造技術が向上したのだろうか。

併せた料理は、アジの天ぷらとナスの天ぷら(とご飯とサラダ)。ボジョレは軽いから鶏や魚がちょうどいい。お安めのスーパーでアジが安かったので天ぷらにしたわけである。

アジを使った料理を思いつくまま揚げて……じゃなく挙げてみよう。それぞれに私の一口メモを添える。
①塩焼き=(説明不要)。一口メモ:小骨をとるのが面倒である。
②天ぷら=衣を付けて大量の油で揚げる。一口メモ:私は衣を作るとき卵を使わない。理由はケチだからである。
③唐揚げ=粉をまぶす程度に付けて大量の油で揚げる。そのうち、粉を付ける前に酒醤油に浸して下味を付けるのが竜田揚げ。一口メモ:私は唐揚げ=竜田揚げだと思っていた。竜田揚げが唐揚げの部分集合だと知ったのはつい最近のことである。
④フライ=パン粉を付けて揚げる。一口メモ:揚げる代わりに大目の油で焼いてもよい(揚げ焼き)。私は揚げ焼き以外でフライを作ったことはない。理由はケチだからである。
⑤マリネ=お酢に漬ける。一口メモ:昔マリネを作ろうと思って買った「かんたん酢」がまだ残っている。「いいとこ酢」といい、お酢メーカーの策略にすぐ乗る私である。

以上のうち、②③は大量の油を使うから敬遠してきたが(④も本来は大量の油を使うが私は揚げ焼きで済ませることは前記の通り)、廃油缶を活用しだしてからは面白くて頻繁に作るようになった。が、流石に油が劣化してきたようで、胃が不快感を示すようになった(スーパーの惣菜を食したときと同様の反応を示すようになった)。この事態をどう切り抜けるか思案中である。

ナスは、高知ナスが見切り品コーナーにあったので驚喜乱舞して買ってきたもの。最近、見切り品コーナーにあっても一袋100円だったりして、物価高の波は見切り品コーナーにも押し寄せている。なお、同コーナーには「高知なす」のほか「高知産なす」があった。これは重大なフェイントである。血圧を下げる効果は、前者は後者(普通のなす)の3倍である。そうは言っても、後者だって他の野菜に比べればその効果は1000倍だからあなどれない。

ミニクッカーを買った当初は、圧力鍋の方が旨いとかブチブチ言っていたが、その有り難みはいや増す一方。実家から出てから今が一番米飯を食している。お米がバカ高い時期に困ったことになったと憂えている。

ボジョレ・ヌヴォーを飲むのに久々にブルゴーニュ・グラスを出した。そんなグラスを使うようなご大層なワインではないという考えの一方、ご大層なワインでないからこそ大きいグラスで味を良くする意味があるという考えもある。

今では、1500円のボジョレ・ヌヴォーですらえいやっとばかり清水の舞台から飛び降りる気持ちで買う私であるが、その昔、一本3000円以上した時代、近所のコンビニでボジョレ・ヌヴォー一本に立派なワイングラス(写真のブルゴーニュ・グラスほどではない)が一個おまけで付いていて、それを欲しさに何本も買ったことがある。いったい何本買ったんだっけ。食器棚を見る。グラスが5個ある。5本買ったのだ!How stupid I was! 私が現在ケチなのはその反動である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする