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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

卵の投入時期(ムースーローとカルボナーラ)

2025-02-19 11:09:04 | 料理・食材

あさイチで中華のシェフがムースーロー(キクラゲと卵と豚肉の炒め物)を作っていた。ムースーローは私が中華で一番好きなメニュー。家でも作るがいつも卵を最後に入れていた。が、シェフは最初に卵をフライパンに投入して少し固めてから取りだし、他の食材を炒めて最後に戻していた。目からうろこ。早速試した。

だいぶ良い感じに仕上がった。ただ、シェフは卵を濾し器で濾していたが、これに対してはMC陣から「洗い物が増える」という苦言が呈されていた。私は、洗い物のこともそうだが、卵の成分の何%かが濾し器に残ってしまうのがもったいないと思うからこの点は真似しなかった。それでも、卵を実感したかったので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で卵を二個使った。卵の高いこの時期に二個も使ったことで罪の意識にしばらく苛まれた。あと、キクラゲは小一時間はお湯に漬けていただろうか。十分に膨張させるためにはこのくらい漬けて置くことが必要のようだ。膨張したらしただけ嵩増しになる。朝ラーメンのキクラゲは麺と一緒に熱湯に入れてるからろくに膨らまない。3分で膨らめと言ってもそれは無理な相談であった。

卵の投入時期は、カルボナーラを作るときのポイントでもある。可能性を挙げてみると、
①ベーコンを炒めてるフライパンに途中から卵を投入する。これだと卵が固まりすぎてぼそぼそになる。
②ベーコンを炒めたフライパンに火を止めてから卵を投入する。
③ボールに卵を研ぎ入れてそこに茹でた麺と炒めたベーコンを投入する。②③あたりが妥当と思われるが、③だとボールからお皿に移すとき卵の何%かがボールに残ってしまう(食品ロス)。そこで、
④最初から食卓に乗せるお皿で卵と茹でた麺と炒めたベーコンを混ぜる、という案が浮上する。食品ロスを死ぬほど恐れる私が採用する方法は当然コレである。そうやって前回作ったヤツがコレである。

このときは、いつものように卵一個。一個だと卵の存在感がやはり薄い。あと、
⑤ドイツのイタリアン・レストランで、生卵をトッピングしたカルボナーラに出会ったことがある。欧米では卵を生で食さないと思っていたからコレは驚きであった。

因みに、中国人が経営している中華屋さんで「ムースーロー」と言ったら通じなかったので、メニューのキクラゲと卵炒めを指さしてコレと言うと、「お客さん、中国語では『ムシュロ』という」と教えてもらった。一瞬であるが、ネイティブによるレッスンであった。

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ご飯に豚汁(とんじるvsぶたじる)

2025-02-12 11:29:51 | 料理・食材

農水省がようやく備蓄米の放出を決めた。放出が遅れた言い訳は、もともと備蓄米は不作のときのためのものであり、今回の米の価格高騰は流通が滞っていることが原因だから(手っ取り早く言えば買い占めが原因だから)、と言うものだが、庶民にとっては米が買えなくて困ってる点では同じである。今放出しなければいつ放出するのか、って話である。まあ、遅きに失したが、永久に放出しないよりかはましだろう。思い出すのは「平成の米騒動」。米不足で政府が緊急にタイ米を輸入したのだが、あのときも、スタートは不作だったが結局は買い占めがあって、米不足に拍車をかけたのであった。翌年は一転、猛暑で大豊作。買い占めた業者はさぞやあわてたことだろう。こういうことがあると、米離れがいっそう進むものである。

ワタクシのことを言うと、タイミング的に非常に悪く、最近小型炊飯器を買ったものだから米需要が増大している。食卓のルーティーンは、朝はラーメン、昼はご飯に味噌汁である。ところが、ある昼のこと、鍋にワカメを入れて煮立ったところに味噌を入れようと思ったら味噌がない。しまった、前日に使い切ったんだった。一瞬、今日の昼は米飯をやめてパンでも買いに行こうかと思ったが、「ご飯に味噌汁」は固定観念に過ぎない。それにとらわれるのは、備蓄米の放出は不作のときのみという固定観念にとらわれた農水省とどっこいである。「ご飯に豚汁」でも一向に差し支えない。味付けはめんつゆで十分にできる。ということで、この日の昼は「ご飯に豚汁」にした。

ご飯のカタチが固形っぽいのは冷やご飯の証しである(私は冷やご飯が、もしかすると炊きたてご飯よりも好きかもしれない)。

ところで、「豚汁」のことを私は子供時代「ぶたじる」と言っていた。母がそう言っていたからである。その後、テレビ等で「とんじる」という言葉を聞いて、当初意味が分からなかったがそのうちわが家の「ぶたじる」のことだと知り、「とんじる」を「ぶたじる」と呼ぶ母はホントにモノを知らない人だ、私が相当なバカに育ったのはこの母のせいだ、と母を恨んだのであるが、長じてから「ぶたじる」と発音する地域があることを知り、私の中の母の名誉が少しだけ回復したのであった。因みに母は関西人である。

 

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コラールの成り立ちVol.8カンタータ第94番

2024-12-25 18:10:35 | 料理・食材

いちど一段落した「コラールの成り立ち」シリーズだが、再開することにした。ブラタモリも来春復活することだし。ただし、ブラタモリは視聴者の熱い要望によって復活するのであるが、私のコラールシリーズは誰にも求められてないのに押し売りのように復活するものである。

今回のお題はカンタータ第94番(BWV94)。月に一度、仲間で集まって、バッハのカンタータの中から一曲選んで練習なしで3回ぶっ通して歌う会があって、その会の次回のお題曲である。終曲のみならず全体が元曲であるコラール又はその変奏から成っている曲(コラール・カンタータ)で、かつ、その源流(元曲)をたどる旅がなかなか数奇。本シリーズにうってつけである。

そのコラールとは、バルタザール・キンダーマン(Balthasar Kindermann(1636~1706))の……ということはコラールのいつもの例のごとくこの人が作詞をした、という意味であるが……「Was frag ich nach der Welt」(世に何を問う?)であり、こういう曲である(歌詞は第1節。メロディーはBWV94の終曲。なお、同終曲で使用しているのは第7,8節である(後述))。

第1節の直訳(拙訳)は「この世を、そして、その宝物を気にかける必要があるだろうか、もし、私が、主よ、あなたの傍らで喜んでいられるのなら。私は、あなたを唯一の喜びと定めた。なぜなら、あなたは私の憩いだから。この世を気にかける必要があるだろうか?」である。

8節ある歌詞はすべてそのまま、又はアレンジして使われる。すなわち、
第1曲は合唱で、ソプラノパートが第1節をこのコラールのメロディーに乗せて途切れ途切れに歌う。合間に入る器楽は技巧的なフルートのパートが目立つが背後の弦楽器が奏でるメロディーは元のコラール由来である。
第2曲はバスのアリアで、第2節をアレンジした歌詞を歌う。
第3曲はテナーが一人二役でコラール(第3節)とレチタティーヴォを歌う。コラール部分のメロディーは、3拍子にアレンジされているが元のコラール由来である。
第4曲はアルトのアリアで、第4節をアレンジした歌詞を歌う。
第5曲はバスが一人二役でコラール(第5節)とレチタティーヴォを歌う。コラール部分のメロディーは、アレンジされているが元のコラール由来である。
第6曲と第7曲はそれぞれテナーとソプラノのアリアで、歌詞は第6節をアレンジしたものを分割して割り当てたもの。第7曲のメロディーは一見元のコラールとは別曲に見えるが、根っこはコラール由来である(と、私は思う)。
そして、終曲(第8曲)でコラールは全容を現し、合唱が第7節と第8節の歌詞を元のコラールのメロディーで歌う。

では、その元曲であるコラール「Was frag」のそのまた源流へ遡ることとしよう。詩はここまでである。この先に源流があるのはメロディーであり、それはヨハン・ヘールマン(Johann Heermann(1585~1647))が作詞をした「O Gott, du frommer Gott」である。この賛美歌は、そのメロディーを「Was frag」のほかにも多くの賛美歌に供給している製造元である。供給先の賛美歌にはそれぞれの歌詞とタイトルが付せられ(OEMのよう)、それがさらにバッハのいろいろな曲の元曲になっている。例えば賛美歌「Gelobet sei der Herr」はBWV129の、同「Ich freue mich in dir」はBWV197a(第7曲)の、同「O Jesu,meine Lust」はBWV128(第5曲)の元曲である、という具合である。「Was frag」もBWV94のほか、BWV64の第4曲の元曲になっている。そして、その元曲の元曲が「O Gott」というワケである。

ところが、その「O Gott」についてはまだ先があった(製造元自身が下請けから供給を受けているごとし)。それは「Die Wollust dieser Welt」という賛美歌である(注1)(注2)。この「Die Wollust」の作詞者は、ヨハン・ヤコプ・シュッツ(Johann Jacob Schütz(1640~1690))。有名なハインリヒ・シュッツとは別人である。

これで終わりではない。メロディーについてはさらに先がある。それはアダム・クリーガー(Adam Krieger(1634~1666))の世俗曲「Seit daß der Tugend Pfad hat Hercules betreten」 であり、そのメロディーをアハスヴェルス・フリッチュ(Ahasverus Fritsch(1629 ~1701))がシュッツの詩「Die Wollust」(上記)にあてはめて賛美歌に仕立て上げたのである(注3)(注4)。世俗曲が宗教曲になるって話は「血潮したたる」を始めとしてよく聞く話である。これでようやく最上流にたどり着いた。筑波山の山頂近くのちょろちょろした水流を見る思いである。

以上の流れを相続関係説明図風に表すと次のとおりである。

なお、上図で多くの賛美歌がメロディーの供給を「O Gott」から受けているが、同時に、彼らは他からもメロディーの供給を受けている。すなわち、「O Gott」はあっちにもこっちにも通いまくって関係を結んでいるが、その「あっちやこっち」には他のメロディーも通ってきている、ということである。まるで、平安時代の婚姻事情である(?)

筑波山の山頂近くの水の流れってどんなだ?って声が聞こえた気がしたので、載せておく。

え?誰もそんなことを言ってない、空耳だ、でっちあげだって?そんなに声を揃えて言わなくてもいいのに……

注1:http://www.kantate.info/choral-title.htm#Die%20Wollust%20dieser%20Welt
注2:バッハ・コラール・ハンドブックP204
注3:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Die_Wollust_dieser_Welt_(Krieger-Fritsch_1698).jpg
注4:https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:O_Gott,_du_frommer_Gott_(third_tune)

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皿ごと蒸す/冬至と柚子/朝ドラを見る生活習慣

2024-12-22 14:06:48 | 料理・食材

昨日は冬至。一年で昼が一番短い日。これからどんどん日が長くなって、歩き回れる時間が増えるというのに痛風で歩けずにいる。これでは、年内に筑波山に行くのは無理そう。私に会うために筑波山の山頂で待ってても無駄そうだからやめておきなね(元々そんな人はいない)。

知人から柚子をいただいた。ありがたい。2,3日前に「あさイチ」の「ごはんだよ」コーナーで、ブリの柚子香蒸しを紹介してたからそれを試そう。柚子は冬至にお風呂に入れるものらしく、下さった方もそのために下さったようだが、もらってしまったら用途はこっちのものである。有り難い柚子を烏の行水にちゃちゃっと使うだけ、というのはいかにももったいない。

蒸し料理って、蒸し器に具材を乗っけて作るものだと思ってたら、件の「あさイチ」では、お皿にブリと柚子を交互に円形に並べて(中央にしめじを乗せて)、そのお皿ごと蒸し器に乗せて蒸す、というやり方であった。へー、そんな方法があるんだ!試してみた。

たしかに蒸せた。でも、肝心のお味は、番組でゲストの横澤夏子さんが「おっいしー」と言ってたほどではなかった。もちろん私の腕の問題だろう。下味を付けて30分寝かせるところ3分しか寝かさなかったし。因みに、横澤夏子さんは表情がとっても豊か。朝ドラ受けでよく大泣きしてるし、経理システムのCMでは切れまくってるし。演技力がおありなのか、もともと感情豊かなのか、両方なのかは知りません。結構、ファンです。

最近、「オールドメディア」と言われて旗色の悪いテレビだけれど、料理番組や紀行番組は、おしつけがましいコメンテーターがいないんで見ている(コメンテーターがおしつけがましい、というよりも、自分が言いたいことを代弁してくれるコメンテーターを連れてきて専門家に祭り上げるテレビ局がおしつけがましいんだと思う)。来春からのブラタモリ復活も楽しみである。ドラマは是々非々。いいドラマなら見る。現朝ドラは、ようやくギャルシリーズが終わって栄養士の話になったぽいから見れる(あれ?「ら抜き表現」って注意書きが出なくなったぞ)、毎日の朝ドラ視聴が私の本来の生活習慣だしー、と張り切ってつけたら栄養士になったヒロインが「一生ギャル!」って言っててがっかりした。結局、現ドラが続く限り私の生活習慣は元に戻れないっぽい。と思ったら、お昼に現ドラの再放送の直前に放送している「カムカムエブリバディ」は初回放送時に完走したから今回はいいやと思ってたのに、ちらっと見たらヒロインが気の毒で気の毒で見逃せなくなってしまった。ということで、私の生活習慣はお昼に復活している。

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まるで動物園(フィガロのアリア)

2024-12-21 13:41:17 | 料理・食材

「フィガロの結婚」で一番有名なアリアは第1幕でフィガロが歌う「もうとぶまいぞ、この蝶々」だろうが、フィガロが歌うアリアなら第4幕のアリアがたいそう笑える。新婦のスザンナが浮気したと誤解したフィガロが、世の女性に対してありったけの罵詈雑言を浴びせる歌である。

フィガロは、罵詈雑言の方法として女性をいろいろなモノに例える。例えば、魔女、人魚、フクロウ、彗星、バラ、キツネ、クマ、ハト等々……まるで動物園。まあ、魔女は分かるとして、一見なんでこれが魔女と同列なの?と思うものもある。例えば「人魚」。アンデルセンの童話の人魚姫は木村多江的、つまり薄幸だが、ここでは「Sirene」、つまり、きれいな歌声で船乗りを惑わして遭難させる「セイレーン」のことだと分かればガッテンである。因みに、「セイレーン」は「サイレン」の語源である。

フクロウ(civetta(e))には「色気で男を陥れる女性」の意味があるそうだ。意外である。
明るく輝く彗星がなぜいけないかというと、光を奪うからだという。理屈をこねればなんでも悪口になってしまいそうである。
バラはトゲがあるから、ということは容易に想像できる。

キツネ(volpe(i))には「vezzoso(e)」という形容詞が付いている。この形容詞は、「愛らしい」のほか(これだと悪口にならない)、「しなをつくる」という意味があるからそっちだろう。だが、もともとキツネに「しなをつくる」イメージがあるのか、それともこの形容詞が付いて初めてそういう意味になるかは浅学な私には不明である。なお、ヤナーチェクのオペラの「利口な女狐」などは、たしかに魔女と同列でしかるべきである。

同様のことが、ハト(colomba(e))にも言える。「maligno(e)」(意地悪な)という形容詞がついているが、もともとハトに意地悪な側面があるのか、それともこの形容詞がついて意地悪になるのかは浅学な私には不明である。いずれにせよ、一面では「平和のシンボル」に祭り上げときながらここではこの扱い。人間とは勝手なものである。

分からないのがクマ(雌熊=orsa(e))。「くまのプーさん」ではなく秋田のスーパーに入ってたてこもったクマの同類でしょ?と思ったら、「benigno(e)」(温厚な)という形容詞がついている。「温厚なクマ」、まさにプーさんである。魔女と同列の理由が不明である。因みに、秋田のスーパーに入ったクマは立て籠もった先が食べ物の宝庫だからなかなか出てこなくても不思議はなかった。罠にかかった後は、電気ショックで駆除されたという。せめて、供養に食べてあげたら?と言う人もいたろうが、麻酔銃を使っているので食べることはできず焼却したそうである。因みの因み、大正時代の話だが、某村に大惨禍をもたらした人食いグマの肉を、駆除後にその村の住人がしきたりに従って食ったそうだ。

このアリアを、日本語の訳詞で聞いたことが何度かあるが、その中で、一回聴いたきりだが強烈だったのですっかり覚えてしまったものがある。出だしはこうである。

原詩は「ちょっと目を見開け!」である。逐語訳にはなってない。中間部にはこんなくだりが出てくる。

原詩は、「(女は)男が苦しむように魔法をかける魔女」であるから、こちらは、かなり逐語訳的で、かつ、うまく音符に乗せている。と、感心する一方、こんな歌を歌ったら怒られるんじゃないの?とも思った。半世紀近く前でもそう感じたのだから、ジェンダー平等が強く言われる今なら百叩きの刑……という世相に一石を投じたのがドラマ「ふてほど」である。年末に一挙再放送するという。考えてみれば、イタリア語の原詩で歌われたら「高尚な音楽!」とか言ってすましておいて、日本語になって意味が分かった途端に文句を言うのも変である。

一般に、訳詞で歌う場合、直訳のままだと言葉が多くなって音符に乗せるのが大変。チコちゃんで、秋川雅史さんが「ジングルベル」を直訳した歌詞で歌っていたが、まるで早口言葉。それを見事に歌っておられた。

この歌を誰で聴きたいかと言えば、それはヘルマン・プライである。フィガロといえばプライ。前回の記事に書いたベーム指揮の映像のフィガロも、そしてウィーン国立歌劇場の初来日の際のフィガロもプライであった。そのとき、スザンナを歌ったのがルチア・ポップである。

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