田舎の老後生活

老後の田舎生活ではなく、もともと田舎者の気楽な老後生活です。

第2回清六平森林公園発足準備会

2022-10-20 22:56:51 | 日記
第2回清六平森林公園発足準備会 南陽市宮内熊野大社證誠殿にて

今日の出席者は岩手県から車をすっ飛ばしてきた方、強力な助っ人を入れて4名。
少しずつ話し合いの参加者が増えたらなーと思います。

かつては360町歩あった山が、山形県のトンチンカンによって、現在は10ヘクタール。
戦後の農地解放で大地主たちは没落していったが、山は解放の対象にならなかったと学校の授業で聞いている。
ところが、何の思い違いだったのか、山形県は清六平を没収に近い形で取り上げてしまった。
当時の、終戦直後のお金にして数千万円を借りて投資していた山だったが、それを県は開拓希望者たちに与えるということでこの山を差し押さえた。数千万円の借金を返すあてのなくなった地主一家は離散。
今は私有地として10ヘクタール。それから、このような由来を知った国はかつて自分の山だった国有林を使って良いと認可した。合せて200町歩(?ちょっと単位とか実感が分からないもので・・・)

米沢地方森林組合では今年中に2.5ヘクタールにカラマツかスギの植林を終え、4年がかりで10ヘクタールやるという。

この山をどう活用しようか? という会議だ。活用したい業者、個人が集まって森林公園運営団体(NPO)を作り、いろいろやろうというのだが、植林し終わっても何かやるスペースってあるのかな?

また、次回に会議は開催されます。話は訂正されたり付け加えられたりして、だんだん煮詰まっていくのでしょう。 





中国語による使徒信条(使徒信经)ピンイン付き

2022-10-20 08:43:53 | 日記
さあ、字が大きくなったので読みやすくなったのではないでしょうか?

使徒信经をネットで検索してみましたが、あるにはありましたが中国人向けのようでピンインが付いていませんでしたので、ここにピンイン付きのをアップしておきます。
(南陽市の日本キリスト教団宮内教会において、毎週水曜日午後1時30分から中国語祈祷会があります。)


中国語による使徒信经ピンイン付き

2022-10-19 21:42:50 | 日記
2021-06-19 に中国語の主の祈り(主祷文)ピンイン付きをアップしておりましたが、今回は使徒信条(使徒信经)ピンイン付きをアップしておきます。
本当は、中国の方に音読してもらったものをアップしようとしたのですが、どうにもできず、泣く泣く、文字だけのアップです。

今回は教会(中国語祈祷会)で使っているプリントのコピーです。
小さくて見えにくいかもしれません。また次の機会に、直接、打ち込んでみたいと思います。









母の寿命

2022-10-19 18:18:51 | 日記
トリアージって、災害や事故の時、たくさんの怪我人が出たときの治療や対処の順番を決めることだと思うのだが、一般の、平時の医療の現場でもトリアージされるようになってきているんですね。
私の母は死んでもおかしくないくらいの極度の貧血で7月に救急入院。以来、3ヶ月を経過。病名はまだないのだが、心臓の弁膜に菌が付着しているとのこと。いろんな抗生物質を混合して試し打ちをやっているが、それから慢性腎臓病もあるため貧血になるという。もはや、自分では造血することができないようなのだ。
それで輸血をしてもらっているのだが、本来だと3ヶ月に1度くらいの処置を、なんと10日に一度の頻度でやってもらっている。
今日、転院した病院の院長からお話があった。
「血液は貴重なものだから若い人に使いたい。あなたのお母さんは平均寿命を遙かに超えている」
つまり、家族として、輸血処置はやめたもらってもいいという意思表示をして欲しいということのようだ。
もちろん、いたずらに医療を浪費するようなことを求めるものではない。
けれども、昼食をひとりでモリモリ食べている(笑)母の姿を見て「輸血はもうけっこうです」とは、なかなかいえない。
輸血を止めた場合、1,2ヶ月で死んでしまうのだ。母が反応のおぼつかない植物状態にでもなっていれば「早く楽にしてください」とお願いしたいところだが、食欲のある母の寿命を決めるなど、なかなか難しい。
「常識の範囲の治療でよろしいのですが、あと1、2ヶ月の治療の継続をお願いできませんか」
現代の医療だと生命を無限に維持できるようになってきているのだろう。だから死はますます人間の側の判断に任せられている。
「神様の思し召すままに」という祈りの言葉は、ますます遠ざかっていく。



東黒森山(県民の森)にお出かけ

2022-10-11 15:31:27 | 日記
東黒森山(766m)県民の森(山形市)
人はなぜ山に登る? それは爽快感を味わえるから。背筋が活発化して気分が良くなるようだ。 昼近くなり腹が減ってきた。どれラーメンでも食べに山に行こうか、ということで出かけてみました。 登山口まで31㎞くらい。信号は3本しかない。自宅から近いのだが、山道を登るのでガソリンが減るなあ (T_T)

東黒森山、登山口から山頂まで、谷もなければ川もない。味のない山だが、トレーニングにはいい。ラーメン、卓上コンロ、水を担いで山頂へ。 山頂には小屋があるが、きっちり戸が閉めてある。風が強いので、それから微妙に雨がちなので、小屋の中でラーメン作ろうかと思い、思わず戸をトントンと叩いてしまった。向こうからお返しが来たどうしよう、と思ったのだが、返事がなかったので開けてみた。・・・やっぱり、ラーメンは作らず下山しようという気になった。

登山口には「家族広場」という、子どもたちがはしゃぎ回るのによさそうな広場と「みこくぼ沼」がある。
この岸辺に、朽ちて倒壊寸前の東屋がある。ここでラーメンを作ることに。風が強くて、結局、沸騰しなかったが、まあ、柔らかくなった麺をすする。・・・うまい!! 全然、大丈夫。

食べた後は、しばし湖面を眺める。水鳥が水面をバタバタ走り、空中に駆け上がろうとするができず、結局、水面に浮かんでいる。
誰もいない。静かだ。今日は虫も鳴かない。草地は耕されている。そう、イノシシさんの仕業だ。イノシシさんも遊んだんだなー。

今日着てきたレインスーツはワークマンのやつだが、安くていい。低山にはこれで十分だ。足は久々に山靴ザングツを履いてきてみた。悪くない。

静寂の空間に埋没していろいろ思う。歳を取るというのは、思い出がたくさん重なっていくということだ。 県民の森は、40歳代、ネイチャーゲーム指導員としてよく来ていた。40数年前の少年自然の家の先生たちは、みんな好感が持てた。野鳥の方言まで聞き分けていた。
ブラックバス駆除として、大沼で高校生たちと一緒に500匹以上を釣り上げた・・・。
大沼の周辺をゴミ拾いをしたとき、薄荷が群生していた。戦前戦中、たくさん栽培していたものの名残だそうだ。

ぼくが40歳代のころは、まだ戦争経験者たちがともに仕事をしていた。2.26の時、帝国ホテルに勤務していたという人もいた。
グアムに一緒に行ったときは、とても嫌な思いをしたようだ。島々に取り残された友軍のために食糧を運んできたが、制海権を米軍に奪われていて近づけない。ウロウロしていると敵潜水艦から発射された魚雷が足下に迫ってくる。そんな夢を見ては目を覚ましていたという。

シベリアに抑留されていたとき、背筋の凍るような冷たい目をしたKGBに尋問を受けて以来、アカは大嫌いだった。それなのに、日本の職場では組合の役員をさせられたりした。

いま、ロシアとウクライナの戦争を見たなら「ロシアを信用するな」といっただろう。
ああ、大東亜戦争は遠くなりにけり