今週ずっとアップしてきた玉川上水余水路。
昨日アップした暗渠公園の先は、
都の建築資材置き場から幼稚園の敷地へとつながり、
道を隔てて再び暗渠公園として川筋が現れます。→Mapion
▼
こちらの公園の整備は、昨日の公園より後なのか、
滑り台や動物オブジェのデザインも、少し凝ったものになっていて、
手前の桃色のゾウなんかは、かなりリアルです。
ほんの短い区間の公園が終わると、
JR中央線/総武線の土手に突き当たりますが、
かつて水路が流れていたトンネルとおもわれる痕跡が、
いまも残っています。→Mapion
▼
JRの土手の一部が煉瓦造りになっていて、
ほぼ中央の下の方に、コンクリの構造物がほんの少し見えますが、
おそらく埋没している部分がくりぬかれていて、
その下を水路が流れていたんではないでしょうか。
Yahoo! 古地図で東京めぐり(明治)を見てみると、
この地点で余水路と玉藻池からの水流、
そして御苑内のもう一つの池、中ノ池と下池からの水流が合流して、
国鉄の下を水路が流れています。
そしてこの合流した水路が、渋谷川の源流になっていたようです。
ところで明治時代の地図を見ると、
千駄ヶ谷駅から分岐して信濃町方面へ平行に走る、
今では影も形もない線路が書かれていますが、
これは広大な外苑の敷地にかつてあった、
陸軍の練兵場への軍用引込線で、
その後大正時代になって、聖徳記念絵画館と明治記念館建設の際に、
工事資材の搬入のための専用線「造営局千駄ヶ谷側線」
として転用されたこともある路線だそうです。
(『葵から菊を訪ねて』参照)
余水路の裏手に建つ慶応大学関連施設が、
陸軍輜重(しちょう)廠(糧食被服や武器弾薬など、輸送用の軍需品の施設)跡
だったり、
外苑が青山練兵場跡だったりと、
この一帯も軍都の名残が色濃い地域なんですね。
以前アップした新宿区の戸山一帯や板橋区の十条一帯、
そしてこの外苑一帯、
いかに東京が軍都として整備されて行った街かが分かります。
JR線を越えると水路跡は姿を消し、
やがてキラー通りの中程から再び現れますが、
渋谷川に関しては、また別の機会にアップしようと思います。
◆ 江戸探訪 其の壱 玉川上水余水路 ◆
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昨日アップした暗渠公園の先は、
都の建築資材置き場から幼稚園の敷地へとつながり、
道を隔てて再び暗渠公園として川筋が現れます。→Mapion
▼
こちらの公園の整備は、昨日の公園より後なのか、
滑り台や動物オブジェのデザインも、少し凝ったものになっていて、
手前の桃色のゾウなんかは、かなりリアルです。
ほんの短い区間の公園が終わると、
JR中央線/総武線の土手に突き当たりますが、
かつて水路が流れていたトンネルとおもわれる痕跡が、
いまも残っています。→Mapion
▼
JRの土手の一部が煉瓦造りになっていて、
ほぼ中央の下の方に、コンクリの構造物がほんの少し見えますが、
おそらく埋没している部分がくりぬかれていて、
その下を水路が流れていたんではないでしょうか。
Yahoo! 古地図で東京めぐり(明治)を見てみると、
この地点で余水路と玉藻池からの水流、
そして御苑内のもう一つの池、中ノ池と下池からの水流が合流して、
国鉄の下を水路が流れています。
そしてこの合流した水路が、渋谷川の源流になっていたようです。
ところで明治時代の地図を見ると、
千駄ヶ谷駅から分岐して信濃町方面へ平行に走る、
今では影も形もない線路が書かれていますが、
これは広大な外苑の敷地にかつてあった、
陸軍の練兵場への軍用引込線で、
その後大正時代になって、聖徳記念絵画館と明治記念館建設の際に、
工事資材の搬入のための専用線「造営局千駄ヶ谷側線」
として転用されたこともある路線だそうです。
(『葵から菊を訪ねて』参照)
余水路の裏手に建つ慶応大学関連施設が、
陸軍輜重(しちょう)廠(糧食被服や武器弾薬など、輸送用の軍需品の施設)跡
だったり、
外苑が青山練兵場跡だったりと、
この一帯も軍都の名残が色濃い地域なんですね。
以前アップした新宿区の戸山一帯や板橋区の十条一帯、
そしてこの外苑一帯、
いかに東京が軍都として整備されて行った街かが分かります。
JR線を越えると水路跡は姿を消し、
やがてキラー通りの中程から再び現れますが、
渋谷川に関しては、また別の機会にアップしようと思います。
◆ 江戸探訪 其の壱 玉川上水余水路 ◆
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記事中「四谷三丁目」とありましたが大木戸は「四丁目」です。
玉川上水復元計画が新宿区であるとは知りませんでした。
是非実現するといいと思います。
都水道博物館の情報も有り難うございます。
折を見て見学に行ってみようと思います。
また四谷四丁目のご指摘も重ねて有り難うございます。
早速訂正致しました。