ちょっとした言葉で心が傷つくことがある
どうして傷ついたのだろうと思う
ワタシというニンゲンを決めつけて判断される時
ワタシがこうだと思っているワタシの人格とかけ離れた評価をされた時
言った人が正しいのか?
ワタシがワタシを思い違いしているのか?
そもそも相手は決めつけて言ったのか
聞いたワタシが決めつけられたと思っているだけでは?
昔、相手の評価も評価のうちと言われたことがある
その時から評価という言葉が大嫌いになった
取るに足らないような会話なのに
しばらく堂々巡りをしてしまう
どうでもいいことなのにね
人は自分のモノサシが
さも正しいように
いろんなことを判断する
常識ってやつもまたしかり
ものを書くということは
書いたことから判断されるということだ
書いたことからニンゲン評価までされるということも覚悟しておかなければならない
面白かったと言われれば喜び
癒されたと聞けば
良かったと思う
面白く無いと言われれば
考えこんだりもする
感性だけで書いていると言われれば
それがいいのか悪いのかと
悩んだりもする
ホントに人の言葉でどれだけ左右されるのだろう
何を言われても
それは言った人の世界から生まれたこと
その人がそう思っているというだけのこと
でも、世の中のコミュニケーションは
そういうところでなりたち
それぞれが抱く
相手のイメージを元に
言葉がやりとりされる
良い時もあれば悪い時もありで
言葉で人は思いを告げ
言葉で優しさを現し
言葉でつながる
知らないうちに言葉で人を刺すこともある
言葉は愛だけど
言葉は人を殺してしまうほどの凶器でもあるのだ
言葉が
思いやりと優しさに満ちたものしか
声にならないとしたら
どんな世界になるだろう
優しさで満ちた世界になるかもしれない
人が思うことにいちいち心揺さぶられないためには、自分がどうありたいか明確に分かっていて、そのための努力をしている自覚があれば良いんじゃないでしょうか?努力していれば自分の心が清々しい。人の評価などあまり気にならない。逆に自虐的な心境にならずに人の言葉も聞ける気がしますが。
ただ、自分が思う自分もまあ、本当かもしれないけど、見られている自分が真実であることも事実のような気がしますよね。
しかし、十人十色というじゃないですか。10人いたら好みや考えも様々ですよ、そのみんなの言葉を聞いては自分の尺度が変わっていては身が持ちませんよ。
自分がなりたいと思う素敵な自分に、少しでも近づく手応えを感じながら、比較などせず、貫けばいいと思う。みんな違って、みんないい、なんですよ。
おかげで、今日のブログ制作のヒントになりました(^^)