アカペラな日々 - "Sakata Coro a Cappella" Since April 9, 2009

合唱団"Sakata Coro a Cappella"で指揮の傍ら作曲・編曲,たまに歌に励むOyaji。の活動&日常

思い出のアルバムその2,昭和57年8月22日の庄内高校合唱祭で指揮

2013年03月26日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
このシリーズ,本当はアルバムでなく,延々と引っ越し続けた私の,楽譜や演奏会のプログラムやらの段ボールに入っていた,昭和57年8月22日開催の(今は無き)庄内高等学校合唱祭で,酒田市を代表する(とされる)S混声合唱団で指揮している写真なのでした。
(注)当時,酒田と鶴岡の年交代で行われ,開催市側の混声合唱団が,招待的な演奏をしていたのです。
曲は2ヶ月前のサマー・コンサートの「愛唱歌」的なものから選んだと思います。
それにしても,ソプラノにいる,我が嫁(20歳)がガキというか,細くて..若い。
というか,当時から「オッサン」だと思っていた面々も,まだ三十代だったし,時勢ですが,女性達は殆どが二十代前半だったと思います(後半以降は「遅い」と親が心配した時代。今なら「遊べない」「自由が無い」等の声が聞こえそうですが,売り物は良い物ほど早く売れる,という自然な時代だったのです)

ところで,この日,ある出来事が...
その前に,我が母校・酒田E高と,今では合唱で有名な(当時は全然ローカルだった)鶴岡南高は,年に一度,隣市の進学高同士ということからか,交換会をやっていました。
私は10年くらい,合唱指導やらで顔を出していたので,この合唱祭直前の交換会で,向こう(鶴岡)のガタイのデカイ,生意気な1年生から「何だ,ヘラヘラしたOBは」と,いろいろ突っかかられたりして不快な思いをして酒田に帰ったのでした。
そして直後,私はS混声合唱団の指揮者として登壇,演奏が終わって先の「デカイやつ」と顔を合わせたのですが,立場の違いを恥じたらしく,赤ら顔をしていたのが印象的でした。
最初は,私がいやな思いをさせれたのですが,その行為は,自分に返る「情けは他人の為ならず」の本来の意味をを反転させた出来事でした。

演奏としては,可も不可もなかったと思います。
ただ,その6年前,高校三年時の同じ合唱祭で,佐藤眞の「なぎさ歩めば」を振った時には,アインザッツ(出だし)が合わず振り直すという,最悪な経験をしているのですが...
少しは経験を積んで,少し大人になって出なおした,っていうステージでした。
(今,考えると,本当に「少し」です)

それにしても(今後も何度も書くかも,ですが)昔の酒田市民会館は,懐かしいというより,響かないし,リハ室ないし..今の市民会館「希望ホール」は夢のようです(響きすぎ)
東京文化会館,東京芸術劇場,郵便貯金センターなどの東京の巨大ホールからサントリーホール,岡山県民会館ホール,宮城・仙台,山形,巨大オルガンと共演した福島市音楽堂,郡山,秋田,青森,岩手の各県民会館にバッハホール等々,いろいろ演奏してきましたが「希望ホール」での演奏は,きちんとリハで「残響の終わり」を確認して,いつものフレージングを微調整して本番に臨んでいます。

ただ,一般の人は「風呂で歌うのは気持ちいい」「カラオケはエコーが」と勘違いしていると思うので,なかなか魔力があり,要注意ですね。「エレキ」は論外として,器楽なんかだと,うるさかったりもしますし。

うーん,話がかなりズレてしまった(苦笑)

春の訪れ(その4)!? ほんの少し緑っぽいだけでも春は春

2013年03月26日 | 日常生活

見た目では分かりにくいけれど,
1.雪がない
2.ほんの少しでも緑っぽい
ただそれだけでも,東北の日本海側は春なのです(て,今日は気温5度,西風8mとまだ寒い)
この玄関前から庭までの通路,真夏には,すっかりジャングルですが。
あ,手前反対側(シンボルツリーの大きいモチノキ..見えてない),駐車場側の山茶花や垣根などの常緑樹は,もちろん冬も緑です(笑)


思い出のアルバムその1,昭和57年・出会い直後の合唱団ハイキングと,第2回サマー・コンサート

2013年03月26日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)

古い楽譜というか段ボールを探していると,色々と出るわ出るわ...

で,いくつか見つけた写真と資料から...タイトル写真は,昭和57年5月23日,嫁と出会った直後のS混声合唱団のハイキングでのショットです。
後列右端のチャラい2人が,我が夫婦,合唱の場で出会ってまだ2ヶ月で,付き合ってもいなかった頃でしょうか。
というのも,この後で元カノにふられ,いろいろあって嫁と交際,その年には入籍しました。しかも嫁は専門学校の新卒だったという(早い)

ハイキングの頃には,練習上がりで喫茶店の「さざんか」で皆さんと談笑するのがパターンで,1対1では何もなかったのですが,翌月あたりに私は東京に赴任した彼女(高校の後輩)の親の家に特攻,父親は会ってくれず,ほどなく「お別れ」のコール。
会社をサボって東京に行こうとしたけれど,たぶん引き止めても無駄と知っていたので,行きませんでした。

相手の母親に「自暴自棄にならないで!と言われ,かえって自暴自棄に。
そんな私を辛い思いで気にしながら,言葉足らずで不安そうに見つめていたのが,嫁でした。
あっちの彼女も新卒の20歳,こっちの彼女も新卒の20歳...嫌な予感は的中し「中学3年のの同級生」と判明。
後に派閥があると知り,私は結婚披露宴で,共通の友人に睨まれていました。

さて,お次は,直後に酒田市総合文化センターで開催した57年6月25日のサマー・コンサート。旧・酒田市中央公民館を建て替えし,酒田市総合文化センターとしてのお披露目,というか「こけら落とし」だったように思います。
出来立てで500名は収容できましたが,可動式の反響版など,音楽専用ホールでないため,残響は「ありません」)(キッパリ!)
写真は常任兼監督の田中先生が指揮していますが,私も愛唱歌集で初めて,公式に指揮をさせていただきました。
誕生日前でまだ23歳,経験者とは言え,異例の抜擢だったと思います。
曲は,輝く夏の日に,夏の夕べ,草原の別れ,わたりどり?あたりの定番曲だったと思います(高校で指揮した曲よりずっと楽な選曲でした)

で,ここで終われば「古き良き懐かし話」なのですが,終了後の駐車場で,私は見知らぬサングラスをかけて怖そうなオバさんにつかまります。
そして一言(酒田弁で)「あんた,本気だんが?」(本気なのか)と。嫁の母親でした,クワバラクワバラ。
私もさすがに「No!といえない日本人」なので,「はい」と回答,そこからお宅訪問,花火大会でデート(危うくYTS?のTVカメラに映されかける),海水浴や火力周りや新潟県境までのドライブ等々あり,11月にはさっさと結納,12月に入籍,2月末に披露宴と,出会って11ヶ月くらいでゴールしちまいました。

話の方向性ずれマクりですが,以上です(苦笑)