アカペラな日々 - "Sakata Coro a Cappella" Since April 9, 2009

合唱団"Sakata Coro a Cappella"で指揮の傍ら作曲・編曲,たまに歌に励むOyaji。の活動&日常

春の訪れその5 駐車場辺りにクロッカス咲く

2013年03月27日 | 日常生活

高低差で耳キーン、ではないが、春を感じつつも、寒暖差に右往左往するこの頃、それでもやはり春なのだ、と一つ一つ実感させられる日々。
そんな中、北東向きの駐車場側に、クロッカスを見つけた。
後の連休頃にも、似た色のチューリップは咲くが、このタイミングのクロッカスは「春は名のみの」と思う北国においては、嬉しい不意打ちである。
背丈もなく控えめで、思いを寄せる人だけを大切にしてくれそうな、そんな風情が良い。


思い出のアルバムその2,昭和57年8月22日の庄内高校合唱祭で指揮

2013年03月26日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
このシリーズ,本当はアルバムでなく,延々と引っ越し続けた私の,楽譜や演奏会のプログラムやらの段ボールに入っていた,昭和57年8月22日開催の(今は無き)庄内高等学校合唱祭で,酒田市を代表する(とされる)S混声合唱団で指揮している写真なのでした。
(注)当時,酒田と鶴岡の年交代で行われ,開催市側の混声合唱団が,招待的な演奏をしていたのです。
曲は2ヶ月前のサマー・コンサートの「愛唱歌」的なものから選んだと思います。
それにしても,ソプラノにいる,我が嫁(20歳)がガキというか,細くて..若い。
というか,当時から「オッサン」だと思っていた面々も,まだ三十代だったし,時勢ですが,女性達は殆どが二十代前半だったと思います(後半以降は「遅い」と親が心配した時代。今なら「遊べない」「自由が無い」等の声が聞こえそうですが,売り物は良い物ほど早く売れる,という自然な時代だったのです)

ところで,この日,ある出来事が...
その前に,我が母校・酒田E高と,今では合唱で有名な(当時は全然ローカルだった)鶴岡南高は,年に一度,隣市の進学高同士ということからか,交換会をやっていました。
私は10年くらい,合唱指導やらで顔を出していたので,この合唱祭直前の交換会で,向こう(鶴岡)のガタイのデカイ,生意気な1年生から「何だ,ヘラヘラしたOBは」と,いろいろ突っかかられたりして不快な思いをして酒田に帰ったのでした。
そして直後,私はS混声合唱団の指揮者として登壇,演奏が終わって先の「デカイやつ」と顔を合わせたのですが,立場の違いを恥じたらしく,赤ら顔をしていたのが印象的でした。
最初は,私がいやな思いをさせれたのですが,その行為は,自分に返る「情けは他人の為ならず」の本来の意味をを反転させた出来事でした。

演奏としては,可も不可もなかったと思います。
ただ,その6年前,高校三年時の同じ合唱祭で,佐藤眞の「なぎさ歩めば」を振った時には,アインザッツ(出だし)が合わず振り直すという,最悪な経験をしているのですが...
少しは経験を積んで,少し大人になって出なおした,っていうステージでした。
(今,考えると,本当に「少し」です)

それにしても(今後も何度も書くかも,ですが)昔の酒田市民会館は,懐かしいというより,響かないし,リハ室ないし..今の市民会館「希望ホール」は夢のようです(響きすぎ)
東京文化会館,東京芸術劇場,郵便貯金センターなどの東京の巨大ホールからサントリーホール,岡山県民会館ホール,宮城・仙台,山形,巨大オルガンと共演した福島市音楽堂,郡山,秋田,青森,岩手の各県民会館にバッハホール等々,いろいろ演奏してきましたが「希望ホール」での演奏は,きちんとリハで「残響の終わり」を確認して,いつものフレージングを微調整して本番に臨んでいます。

ただ,一般の人は「風呂で歌うのは気持ちいい」「カラオケはエコーが」と勘違いしていると思うので,なかなか魔力があり,要注意ですね。「エレキ」は論外として,器楽なんかだと,うるさかったりもしますし。

うーん,話がかなりズレてしまった(苦笑)

春の訪れ(その4)!? ほんの少し緑っぽいだけでも春は春

2013年03月26日 | 日常生活

見た目では分かりにくいけれど,
1.雪がない
2.ほんの少しでも緑っぽい
ただそれだけでも,東北の日本海側は春なのです(て,今日は気温5度,西風8mとまだ寒い)
この玄関前から庭までの通路,真夏には,すっかりジャングルですが。
あ,手前反対側(シンボルツリーの大きいモチノキ..見えてない),駐車場側の山茶花や垣根などの常緑樹は,もちろん冬も緑です(笑)


思い出のアルバムその1,昭和57年・出会い直後の合唱団ハイキングと,第2回サマー・コンサート

2013年03月26日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)

古い楽譜というか段ボールを探していると,色々と出るわ出るわ...

で,いくつか見つけた写真と資料から...タイトル写真は,昭和57年5月23日,嫁と出会った直後のS混声合唱団のハイキングでのショットです。
後列右端のチャラい2人が,我が夫婦,合唱の場で出会ってまだ2ヶ月で,付き合ってもいなかった頃でしょうか。
というのも,この後で元カノにふられ,いろいろあって嫁と交際,その年には入籍しました。しかも嫁は専門学校の新卒だったという(早い)

ハイキングの頃には,練習上がりで喫茶店の「さざんか」で皆さんと談笑するのがパターンで,1対1では何もなかったのですが,翌月あたりに私は東京に赴任した彼女(高校の後輩)の親の家に特攻,父親は会ってくれず,ほどなく「お別れ」のコール。
会社をサボって東京に行こうとしたけれど,たぶん引き止めても無駄と知っていたので,行きませんでした。

相手の母親に「自暴自棄にならないで!と言われ,かえって自暴自棄に。
そんな私を辛い思いで気にしながら,言葉足らずで不安そうに見つめていたのが,嫁でした。
あっちの彼女も新卒の20歳,こっちの彼女も新卒の20歳...嫌な予感は的中し「中学3年のの同級生」と判明。
後に派閥があると知り,私は結婚披露宴で,共通の友人に睨まれていました。

さて,お次は,直後に酒田市総合文化センターで開催した57年6月25日のサマー・コンサート。旧・酒田市中央公民館を建て替えし,酒田市総合文化センターとしてのお披露目,というか「こけら落とし」だったように思います。
出来立てで500名は収容できましたが,可動式の反響版など,音楽専用ホールでないため,残響は「ありません」)(キッパリ!)
写真は常任兼監督の田中先生が指揮していますが,私も愛唱歌集で初めて,公式に指揮をさせていただきました。
誕生日前でまだ23歳,経験者とは言え,異例の抜擢だったと思います。
曲は,輝く夏の日に,夏の夕べ,草原の別れ,わたりどり?あたりの定番曲だったと思います(高校で指揮した曲よりずっと楽な選曲でした)

で,ここで終われば「古き良き懐かし話」なのですが,終了後の駐車場で,私は見知らぬサングラスをかけて怖そうなオバさんにつかまります。
そして一言(酒田弁で)「あんた,本気だんが?」(本気なのか)と。嫁の母親でした,クワバラクワバラ。
私もさすがに「No!といえない日本人」なので,「はい」と回答,そこからお宅訪問,花火大会でデート(危うくYTS?のTVカメラに映されかける),海水浴や火力周りや新潟県境までのドライブ等々あり,11月にはさっさと結納,12月に入籍,2月末に披露宴と,出会って11ヶ月くらいでゴールしちまいました。

話の方向性ずれマクりですが,以上です(苦笑)


25年3月24日,自分と初孫の頭文字「い」と「よ」の印鑑を作る

2013年03月25日 | 印鑑・篆刻・刻字を作りたい

私は祖父の顔を知らず,息子らも祖父の顔を知らずに,余裕なく生きてきました。

今回,ありがたくも初孫を抱き,ふと家系の悲劇を思い出したとき,私が短命か否かの問題ではなく,当の孫に「お前のルーツに,お前のことを愛した人もいたのだ。そして,それは延々と繋がっているのだ」と,いささか理解してもらい,苦難のときの支えにでもしてくれれば良い,そんな気持ちで「自分できること」を探してみました。

第一には,生きがいでもある歌を自分の作曲で,楽譜と音源にして残そうか,というもの。
もう一つは,約30年前に一度だけ彫った,「篆刻」(てんこく)とい,自分の印鑑を作成することを,突然に思い出したのです。

でも,作曲は,歌詞から探し,曲のイメージ,記譜からチェックと,膨大な作業量が必要です。
ということで(安易ですが)今回は,7m角の安い青田石と,やはり安い刻刀セット,そして初心向けの「制作方法」の古本をネットで買い,自分の頭文字「い」と初孫の「よ」を,ひらがなで一文字ずつ彫りました。

鏡(線対称)で良く確認しながら,そろそろ文字が成功か?などと思ったところで「ガーッ」と刻刀があり得ない所まで突き通っていき,台無しになって,またサンドペーパーで石の表面を削りなおし,それでも何度も繰り返し...

結果,小奇麗ではないが「味のある仕上がり」だと爺馬鹿の自分には思えたので「採用」としました。
さて,自分の「い」は全く納得していないですが「またの機会に」ということで,当面は使用を続けたいと思います。

さあて,この子は,この印鑑を使う気になってくれる日がやって来るのでしょうか。
そしてその頃,私はこの世界の人でいられるのでしょうか。

平成25年3月24日(日)の深夜に,この世に生を享けて2ヶ月と2日を経過した初孫へ

 爺より


春の訪れ(その3)!? やはり大根には根性が必要

2013年03月24日 | 日常生活

春の訪れの話かは突っ込まないでいただいて...何となくだけど、嫁が大根を元から切って簡単に捨てようとしていたのを見て、もう日差しは春だし、古いネタだが「大根には根性あるはず」などと、切り口を水に浸してみた。
最初は葉が多すぎて黄色くなり、それを省き続けていたら、さすが大根!
やっぱり葉が生えてきましたとさ(笑)


もう少しで満4年の...”Sakata Coro a Cappella”

2013年03月23日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)

ブログタイトルを「格好つけ」で"Sakata Coro a Cappella" Since April 9, 2009...などと修正していたら,満4周年まであと半月くらいであることに気づく。
(く~,演奏会やりて~!)

あの頃は,なかなか試練の時期であり,生きるか死ぬるか..否,合唱だ。自分には合唱しかない!などと思い,嫁とともにヒョロッと遊佐混声合唱団さんに顔を出した。

もちろん,当時は,ただ歌というか合唱をやることで,心というか人生の支えにしたかった。
だから,他人様から「良い趣味ですね」などと辞令を言われると「生きがいなんです」と応ずるようにしている。

しばらくして,やっている歌,というか合唱のあり方というか作り方に違和感があったのもあるが,「とにかく自分の描くハーモニーを希求したい」と,ほぼ全員「私の既知」という理由でメンバーを集め,2009年だから平成21年の2月に正式にお願いして,4月9日に西荒瀬コミュニティ・センター(昔懐かしの西荒瀬公民館)で「総会もどき」みたいなのをして,その場で初練習を行った。

フレキシブルというかプレーンというか,いきなり方向性は決めず,メインはア・カペラ曲主体だが,何でもやれる,そんな状態で,男は私だけ,あとは女性7名でスタート,直後に男女1名ずつが参加され,現在の10名となった。

実際のところ,少数で,実は初心者もいるし,男が足りない(ベースは私しかいない)ので,8~9割方は女声曲だが,時々は混声をやったり,男声のものをオクターヴ上げて歌ったりもしている(これがなかなか面白い)

極論を言うと,一番やってないのは「ピアノ伴奏付の女声合唱曲」特に3部の曲だ。
伴奏に頼りすぎて合唱の面白さを感じられないものが多い。
ただ,全くやりたくない訳ではなく,精神性の高いもの,特に我々の少数だけれど重厚?なアンサンブルに適したもので,取り組みたいものも多々ある。

だから何の曲?
それは追々...オイオイ!
(スンマセン,Oyaji。なもんで)


桜の開花予想(5回目),あと少しで(東北の)桜も咲く..で,自分の足で外に出よう!(笑)

2013年03月20日 | 日常生活
日本気象協会の「第5回開花予想」(図)によれば,酒田市の開花予想は,例年差はおろか,昨年からは1週間も早くなるようだ。
って,標準木のある「港南公園ってどこ?」って市民も多いのだが,ザックリ言えば,酒田港の県水産課の所に至る堰に沿った市内堤町の通称「三角公園」のことである(公園自体の桜はたいした物ではないが,堰沿いにずっと咲く桜は圧巻だ)
いちいち名称を変えると役所やら議会やらが大変なので,実態に合わない名称は多い。
私のところの「日本海東(あるいは西)公園」ってのも,名前のスケールだけが大きすぎで,場所はさっぱり...造成者の最後の抵抗で,町名不採用の引き換えに,公園に名を残す「最後っ屁」だったのだ(意味もないのに)

話を戻すと,まだ予想より20日も前なのに「第5回予想」ってのもなかなか...
実際に,日和山公園公園とか三角公園とかに,ぼんぼりをつけたり,露天,お祭り準備などに係る方々から見れば,大きな問題だとは思う。
ただ,気象協会とかウェザー・ニューズとかが,営業でやるほどの話ではない気もしている。
だって,最悪の備えを早めにしつつ,実際に「つぼみ」を見ていれば,素人の私にもわかることなのだから。

特に都会の人や若い世代の人は,携帯も含めた端末で全て情報収集しがちだが(私に言われたくもないだろうけれど)大体は数百メートル先の公園とか,ポツンと立っている木を見れば自然の移ろいが感じられるし,その方が健康的で良い。

私も心身不調なため,本当にこれからの時期の到来は楽しみである。
桜に心が惹かれるようだと,その年は,おおむね秋までは気分が良い。
さらに,自分の人生を振り返りながら桜の美しさや散り際の潔さに涙が出るくらいだと(大げさかもしれないが)「生きていて良かった」と,将来を展望できるようになるのだ。

体感的に(経験からも)私は本当に殺伐とした人生を送ってきたので,今は逆に(音楽というか合唱活動を含めて)精神性というものを特に重要視している。
だからこそ,桜に自分を重ね合わせ,その開花や散り際に共感できるようだと「だいょうぶ」と思えるのだ。

明日は彼岸の中日,1月に生まれた初孫(男子)が,両親に伴われて我が家に初めてやって来る(「帰宅」と言いたいところだが)
そして,甥のところも2月生まれの第二子(女子)を土曜日に見せに来てくれるという。

どちらかと言えば,甥の方があっさりと気遣わずに会える気がするのは,まことに皮肉である。

春の訪れ...真に

2013年03月19日 | 日常生活
春がやって来た。明らかに。
陽気が1週前くらいから違ってきていて,雪もチョロッとは降ったがすぐ消えた。
暖かいし,日差しは高いしで,徒歩とか自転車にも気が向いてきた。
タイヤの空気も詰めたりしていると,隣市にいる長男が「アポなし」しかも挨拶もなしで,勝手に外でタイヤ換えしている(見た目泥棒)
しかも終わったら速攻で帰るつもりだったのだろう。
「つかまると面倒」とか考えているのか,親にもなって...ふぅ。
実際に作業も終わり,また面倒がられるのだが,ガタつきをチェックしてやったら案の定,左後輪にガタつきあり。
本人は至って「走りながらチェックするから」と帰りたい一心だが,3回くらい説得してやり直させる。
(夜,三男に話すと「ガタついたら絶対ダメでしょ」と大人の意見)
にしても「バカにつける薬は何とやら」とは良く言ったもので,この先,かなり思いやられる。

で,本番はこれから...おいおい。

タイヤついでに,日も当たっていたので,百日紅(サルスベリ)の思い切った剪定をした(タイトル写真)
本当にすべりそうでしょう?たぶん,来月には若芽が生えてくるので,今の時期にしておくのです。


傍ら(右奥)では,冬に唯一咲いてくれる山茶花(サザンカ)が,まだ少し咲いている。


あと,雪に隠れていた草花「春の訪れその1」,水仙があちこちで芽を出していた。


そして「春の訪れその1」,当地名称「ばんけ」(蕗の薹・フキノトウ)だ。
裏の最上川の土手沿いを伝い,東の集落から採ったものを大事に移植したら,芽が2,3個出てきた。
この目の段階のものがもっとも苦くなく,甘味噌に刻んで混ぜて,当地では私の大好きな「ばんけ味噌」になるのである。

「孫」...大泉逸郎でなく(笑)

2013年03月14日 | 日常生活
心身とも不調ですが...そんな中,先々月,孫ができました。
「Oyaji。」の名前も「Oyajii。」にしようかと悩んでいます(嘘)

ただ,残念なことに「ピャッ」と行ける所には住んでくれていないのです。
と言いつつ,通っている病院(1時間未満)の近くなので,久しぶりに顔を見て,抱かせてもらいました。
最初,お嫁さんが「ご機嫌斜め」と抱いていて,我が嫁(婆さんですな)が抱き,私が抱いたところでスヤスヤ気味...
ホッとしたというか,意味なく鼻が高い気がしたというか。

名目上は我が家系の孫ですが,いわゆる「内孫」でないので,まだ実感はこれから,ってところですが,大泉氏の歌った気持ちもわかりつつある..「責任は息子に。可愛さは自分に」と,勝手解釈しております。

とか言いつつ,ベビーカーとかベッドとか,買ってあげてしまった馬鹿な自分がいる...

楽譜を何度も何度も読み返す...色々ある「作者の意図」と,「練習前の前提条件」

2013年03月14日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
以下は,実際には,2010年(平成22年)12月26日に書きかけた記事です。
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先に「音が動いていない」との話を書いた。
実際には,ほとんど動かさなくて良い,という曲も,稀にはある。
しかし,実際には,ほとんどの音は少しであっても「動かしてくれ」と言っていて(書かれていて)そうすべきものが多い。

合唱経験ではじめて,日本の「合唱組曲」らしい曲を歌ったのは,地元酒田市の大先輩である吉野弘さん(ご健在)が作詩し高田三郎さん(故人)が作曲した混声合唱組曲「心の四季」の中の第1曲「風が」だった。
その中の,たとえばピアノが奏でる「風」は,音符に書いてしまえば全ての季節を通して同じような音に思えるのだが,よく読んで演奏すれば,四季折々で全く色合いが異なっていることが分かる(というか,感じる)
物語は,四季の訪れを知らせる春の風に始まり,真っ白な景色の冬で終わるのだが,四季を自然に,かつ分かりやすく色合いを変えて演奏するのは大変なことだ。
それでも,演奏するならば,我々は作者から,その「使い分け」を要求されていると思わなければならないし,そうでなければ聴衆からの感動はもらえない。

実際に,合唱の歌い手の多くは,一生懸命に音を取って言葉をつけ,歌詞の意味を感じ取り,メロディや和声を理解して,心地よく(自己陶酔したりして)歌っているように思う(自分も,かつてそうだった)
そして,歌うための第一段階としては,非常に素晴らしいことである..が,本当の音楽表現は,ここからスタートするようなもので,気づいてもらえるのはありがたいが,納得されるには早すぎる。

指揮者や,ナンバー2に位置するコンマス的立場(トレーナークラス)の
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以上で書きかけは止まっていて「草稿」として保存されていました。
最終行以降は忘れてしまっているので,現在の気持ちで素直に続けます。
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指揮者や,ナンバー2に位置するコンマス的立場(トレーナークラス)の人であれば,日がな楽譜を読み返し「作者の意図」を十分に理解して表現するための,最大限の手法を講じなければ,と思う。
管理職を長く経験したこともあり,練習に入る前に,メンバーのコンディションを見ているし,発声練習前のコンディション作りにも懸命で,発声~カデンツァが終わると,ついつい30分も経ってしまっている。
これは,はじめの一息,一声の時点から「曲作り」「演奏会」までを意識しているのであって,基本中の基本を,毎回毎回積み重ねている..が,時々で皆さんのコンディションや参加メンバーでも「練習開始の前提条件」が変わってくる。

私は昔から「昨日と指揮が違う」とよく言われてきた(相手はアマだったりプロだったりするが)。
そして,別の指揮者は,どんな条件下でも,大威張りで「昨日の指揮」にこだわってくる。
そういう人は「常に前提条件が変わってくる」ことを無視して,到達点だけ見ているので,結果として到達しなくなるのだ。

ちなみに,私は平成の始めころに指導していただいた(全日本も連覇した)グリーンウッドハーモニー等で指揮をとる今井邦男先生と出会い,自分流でも良いのだ,と確信した。
(参考)今井先生の指揮する合唱団「六月の歌声」さんの「プロフィール」ページには,堂々と,
・得意な事・・指揮がリハと全く違っても平静を装って頑張る
と書いてあるし,私も指導いただいた数年間は,全くそのとおりだった。

いつもやっているのは,楽譜を読んで読んで読み返すこと。
読み物の「行間」を探すように,一つの記号にもかなりのこだわりを持ち,大体を理解したつもりになる。
けれど,現場では「前提条件」(メンバーやら気温・湿度まで)がいろいろ変わっていて,簡単には到達させてくれない。
そして反省して,また初心で楽譜を読み返す。

以前,遊佐混声でコダーイやコチャール・ミクローシュのとき「二重合唱を生かすため,パートを分けては?」「この曲は半分が待ち構え,半分が遠くから入ってきては?」等と提案した。
その後,昨夏にデーネシュ・サボー with Pro musicaの来演のオマケに遊佐町で行われた合唱セミナーで,鶴岡北高がコチャール・ミクローシュの二重合唱をして「こういう曲の場合は,別々の場所に立って歌う方が,効果が上がる云々」と指導されていた(私の所は,メンバーはほぼ完全に歌い,私の選曲のセンスを問われたが)

音楽的な識見と経験,そしてセンスというか想像力,いろいろ問われるのだと思う。だから,泥臭く「ゼロから読み返す」動作が必要だ。

作者の書いた意図を100%とし,演奏者が100%で演奏すれば100点なのだが(数値的には,1x1=1=100%,が正解)演奏がゼロであれば,掛け算の結果は「0」(つまりは台無し)となるわけである。

お久しぶりです、oyaji。です(仮)

2013年03月11日 | 日常生活
随分の無沙汰をいたしておりました。
あくまで「仮」ですが、ブログまたやるつもりに傾いて来ました。
「のどけき春」がやって来たから・・・といいつつ、昨夜は吹雪、今朝は10cm位の積雪で、除雪もしましたが・・・すこし前までは「親の仇を討つような」除雪作業との戦い、そして心も体も閉じこもり気味でしたが、最近は自宅そばの遊歩道を散策し、桜の花芽を見て、開花を心待ちできるようになってきました。

今日は、あの忌まわしき大震災から2年。その間、私も居ても立ってもいられず、宮城県岩沼市に避難した自閉症だけどとても有能なピアノ弾きの中学生に、宝物だった、昭和の終わりころのKAWAI仙台店で買った、輸出用と説明の、家具調ピアノをプレゼントしに行ったり、その後も個人的に繋がりを持ち続けたりしています。
ほかには、あまり大きいことはできないので、福島や宮城の米や肉とか桃やらをWeb経由で買ったり(もちろんショップ自体も現地所在と確認して)・・・できる範囲のことをいつまでも続けるつもりです。

特に、音楽家の私が合唱や合奏をされる皆さんに言いたいのは「ハーモニーとは、技術的調和を意識する前に、心が寄り添うことだ」という点です。
余りの稚拙な音楽に寄り添うのは、今の私には難しいのですが、健常な皆さんならできるはず。
その「寄り添う心」を少しだけ、別な方にも向けていただきたいと思います。
検査を通した食品を食べて被害ということはありませんし、あくまで仮にですが(理論的には)基準値を少し超えた程度の物を年に数回食した位では、実際は何の心配もないのです。
言われるのは、お母さんたちの不安「感」とか、あと、最もひどいのは「知ったか君」による「デマ宣」です。
今日という日を機に、おのおのでできる範囲の支援を考えてはいかがでしょうか。
お金が無理なら、お近くの自治体やNPO等に問い合わせ、出来る範囲のことを探してみてはどうですか。
(投げっぱなしですみません)

私も未成年でどん底に落とされ、這いあがってきました。
そして長年、周囲に励まされてきました(現在進行形です)
「ハーモニー=心が寄り添うこと」をぜひ...