こんにちは、領です。
『釈迦の本 永遠の覚者・仏陀の秘められた真実』
P61 われわれが、これこそ自分自身だと思っている「我」も、突き詰めていくと仮象である、これが仏陀の認識であった。そこから「無我」「無常」という考え方がうまれる。
では、ブッダはアートマンを否定して無我説を立てたのであろうか。
P65 恒常的・絶対的な我はなく、無我無常だと言うことを明らかにした、そしてそれを一言で言い表すなら、それは苦だと悟りきった。
「全ては相依性にして、縁ありて起こるということであり、また、それに反して、すべての計らいをやめ、すべての所依を捨て去れば、渇愛尽き、滅し尽くして涅槃に至る」(『増一阿含経』)
これをブッダは悟ったのである。
しかしこれで、われわれは、もう一度「自己」に戻らねばならない。確かに、現象世界の存在者は、「相依性」に貫かれ、「渇愛」に踊らされている。ブッダは、右の言葉にあるように、それら相依性や渇愛に動かされている我という観念を「捨て去れば」、人は涅槃に至ることが出来ると説いた。
しかし、ではそのとき涅槃に至るのは、一体何者なのか?
もし自己が、たんに見いだされないのみならず、存在しないのであれば、涅槃に至る主体としての我も存在しないことになる。いったい、悟るのはだれなのか?涅槃に至るのはだれなのか?
P74 結論をいえば、ブッダは、自己についての議論は、否定したが、自己そのものの存在については肯定していた。否定されたのは、相対的な議論の中に埋没して、真実の姿を見失っている「滅すべきものとしての自己」であって(これをブッダは、別の場所で「小我」と呼んでいる)、「自己の主としての自己」ではない(同じように、これは「大我」と呼ばれる)。
この「真実の自己」、もしくは「大我」こそが、先に述べた解脱の主体なのであり、それがあるからこそ、人は、「すべての所依を捨て去れば、渇愛尽き、滅し尽くして涅槃に至る」ことができるのである。
ブッダは禅定により、瞑想によって、悟りを得た。法を悟った。この「悟り」の中身は、まさしく「自己の主」との邂逅でなければならない。
自己すなわちアートマンは、いかなる分析的方法によっても捉えられないし、感覚を通じて把捉することもできない。
したがって、人がしばしば自己と同一視してしまう自我も、アートマンではありえない。それはそれ自身になること以外に触れることができない。そのためにブッダは、菩提樹下に座った。(引用終わり)
上記の文章は、藤巻一保さんという方が書かれたものです。「滅するべきものとしての自己」「自己の主としての自己」この二つを明瞭にとらえて書かれています。悩みや不安、怒りに振り回されない。生きるのが楽になる。このような方向性ではなくて、「悟りとは何か?」と深く深く掘り下げている必読の本です。
私にとって、「いったい、悟るのは誰なのか?」という問いは、自明のものすぎて、あえて問いとして、問い直すということはできませんでした。この問いの答えは、普段から使用している「自己の主としての自己」ということになります。「自己の主としての自己」は意識の起源です。「個人」という思考に主観を不可分に付与します。「個人」という思考が、消滅すると、むきだしの「自己の主としての自己」そのものを領解します。「自己の主としての自己」は、仏性のことです。(ここまでのことは、上記の本に書かれています)
この「いったい、悟るのは誰なのか?」という問いを突きつけられたとき、解脱という構造は存在しないということを思いました。
むきだしの「自己の主としての自己」の状態は、この世の全てが消滅する刹那です。時空が存在しない状態とは「無次元の点」のことです。無次元の点に、最高次の概念となる「自己の主としての自己」という情報が割り当てられています。この世の隅々まで「自己の主としての自己」は、遍在することになります。全ての存在は、この唯一の「自己の主としての自己」を使用します。
つまり、この世の存在の全ては、同一人物という構造です。最高次の情報の構造上、目の前の人物も自分ということが可能です。
意識の起源が全ての人に共有され、その意識の起源そのものに至ることが悟りであるとき、救い出して他の場所へ行ける自己や永遠に滅することの出来る自己は存在しません。それは、悟りという五蘊皆空の境地は存在しても、解脱という構造は存在しないということです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます
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