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「体重も30キロ台まで落ちて生死の境を彷徨った。医師にすがり、家族に助けを求めて弱い人間になっていった。でも…」(撮影:タカオカ邦彦)
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『人間の証明』など、ベストセラー作家として知られる森村誠一さん。今から6年前、森村さんは「老人性うつ病」と「認知症」の診断を受け、一時は言葉を思い出せなくなり苦しんだという。病とほどよくつきあい、有意義な余生を送るための心の持ちようを綴る。
体重も30キロ台まで落ちて生死の境を彷徨った
若い時は楽しい出来事はいつまでも覚えていて、嫌なことはすぐ忘れた。88歳で認知症にもなると、楽しいことも簡単に思い出せなくなった。そうすると横にいる妻がクイズの連想ゲームをしているように、一緒に思い出すことを手伝ってくれる。私がヒントとなる事柄や単語を立て続けに10個ぐらい言うと正解にたどり着く。正解に私も妻も大きな声を出して喜んでいるのは実におかしな話である。
ただ、数年前に老人性うつ病になった。これは厄介だった。毎日どんよりとした暗い日々が続き、記憶が失われ言葉を忘れていった。作家にとって言葉を忘れることは無を意味する。小説は言葉の繋がりだからだ。私の脳から言葉がこぼれ落ちるという感覚だった。頭の中に言葉が残らない。気づいてみると仕事場の床に私の頭からこぼれ落ちた言葉が散り積もっているような幻覚にも襲われた。
私は言葉を忘れないように、筆ペンで広告の裏や白い紙に必死に書き散らかした。トイレや仕事場の壁、寝室の天井までその紙を画鋲で貼って何度も復唱を続けた。
体重も30キロ台まで落ちて生死の境を彷徨った。医師にすがり、家族に助けを求めて弱い人間になっていった。でも、不思議なもので歳月がたち、医師や家族の協力でだんだんと言葉が戻ってきた。どんよりとした暗い日々が、太陽が眩しい明るい日常になったのである。弱い人間になっても、私は希望だけは捨てなかったからだ。
認知症と友だちになった私
最近では、年相応の認知症と友だちになった私だが、医師から、楽しいものを探す、のんびりする、美味しいものを食べる、ゆっくり睡眠をとる、趣味を見つける、など生活習慣のアドバイスを受けている。おかげさまで食欲は旺盛で、認知症でも美味しいものだけは忘れない。だから妻には「あれが食べたい、これが食べたい」と注文も旺盛だ。
作家という仕事は、ほぼ一日中原稿用紙に向かっている。慢性的な運動不足になりがちである。肉体の老化を抑えるために、また様々な疾患を予防するために、運動不足は大敵だ。私が実践している健康法は昔から散歩だ。
散歩に出るのは、明け方と夕暮れになることが多い。人間は足から衰えるといわれるので、できるだけペースを維持して、リズムよく歩くように心がけている。大学時代は山岳部で百名山を目指していたので足腰は強く腰も曲がっていない。けれども思いがけない転倒もありえるので、ペースはゆっくり、ゆっくり歩く。住宅地の路地を抜けて駅前の商店街を巡る小さな旅だ。
散歩をはじめた頃は、コースを変えるのが面倒だったり、歩いているだけでは退屈したりしたが、認知症の今では自然に道を間違えたりするので、むしろ楽しみが増えてきている。空き地がビルに変わったり、新しいパン屋が出来たり、その変化は刺激となって認知症のリハビリにはちょうどいい。
同じ時刻に歩いても、春夏秋冬で道の表情は違ってくる。天候によって、また別の横顔を見せてくれる。早いときには一週間で、街は風貌を変えてしまう。日本の四季はいい、と改めて実感する。
老いには二つの勇気が必要
四季の情景を感じることは、私の趣味の写真俳句作りに役立っている。散歩の最中に俳句を詠む。歩きながらメモを取ると書き切れないこともあるので、ICレコーダーに吹き込む。そして、句材、句境になりそうな予感が走った情景を、デジタルカメラで撮る。
老人性うつと認知症と診断された後の苦悩の日々を綴った『老いの意味』森村誠一 中公新書ラクレ
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俳句と写真を連動させた写真俳句は、文字が並んでいるだけの俳句に比べると、情報量が圧倒的に多い。色が見えるだけでなく、音や匂いまでするような気がする。
点のような源を拡大していく小説に対し、俳句はイメージを17文字に凝縮させなければならない。俳句の凝縮は小説の世界の対極にある。拡大に慣れた小説に凝縮の技法は強い武器になる。それと写真という異なった表現が、私の認知症のリフレッシュに、とても役立っている。
また、散歩のコースに、かかりつけの医院を入れた。内科、整形外科、眼科、皮膚科、歯科、薬局などの前をわざと通る。通りすがりに待合室を覗いて、空いているようだったら、すぐに診てもらう。混んでいたら素通りする。病院にいちいち出かけるのは億劫(おっくう)なものだし、時間もかからないので、まさに一挙両得である。おかげで、身体のチェックもできて即席の人間ドックだ。
歳を重ねて、老いには二つの勇気が必要だということがわかった。老人になると思いがけない病気もするし、私生活で悩んだりもする。そんな予想外の出来事の危機に立ち向かうための勇気である。
もう一つは夢を抱くための勇気である。人生とは夢を持つことだ。何歳になっても夢は持てるし、小さな夢でも生きがいに繋がる。生きがいが孫の成長であったり、庭木に咲いた花や散歩の途中で出会った桜の花の変化を楽しんだり、我が家に来る野良猫の姿であったりしてもいいと思う。
生きがいとは、これからの夢である。だから小さな生きがいでも、本人にとっては老いの希望に繋がるのである。
有意義でなければ余生とはいえない
ほとんどの男が、なぜか妻よりも自分のほうが先に死ぬと思っているらしい。妻に先立たれることなど考えていない。自分が先に死ぬというのは年齢順による思い込みであろう。妻に先立たれる。突然の場合もあれば、ある程度予測できる場合もある。
前者の場合は事故や急病である。覚悟をする間がない。後者はある程度の覚悟をすることができる。がんなどに取りつかれて余命を宣告されたときである。
「おまえが居なくなったら生きている意味がない」などと、悲劇の主人公気取りになっている場合ではない。残された時間は限られている。懸命になって、ひとりで生きていく方法を模索しなければならない。認知症になる前に準備は必要だ。
今まで、妻に任せきりだった洗濯や、掃除など家事全般を覚える。重要な書類や有価証券、印鑑、通帳などの保管場所の確認をする。日常生活に必要なものすべてを把握して備える。準備をしているうちにひとりで生きていく覚悟もついてくる。
今は、寿命が延びたので誰にでも余生があり、誰もが老後と向き合わなければならない。しかも、その余生が、60歳定年でもっとも標準的な社会人人生を過ごしてきた人でも、20年以上もある。もはや、余生そのものが、重要な「人生の課題」になってしまったのである。
余生は余った人生ではない。何年間生きたかではなく、人間としての生きる時間が引き延ばされたものである。ただ生きているのではなく、有意義でなければ余生とはいえない。尊敬される老人であるために
100歳時代となり、現役とほぼ同じくらいの長さの余生を生きる人も増えてきたので、余生というものについて、誰もが真剣に考え、覚悟を持って臨まなければならない時代が到来しているのである。
人生50年の時代は、長生きする老人が珍しかったので、生きているだけ、存在するだけで尊敬されるべきだという風潮があった。しかし、現在は高齢者人口が増えたので、下手に長生きをしているだけでは、邪魔者扱いされてしまう。
国では便宜上、65歳以上が前期高齢者、75歳以上が後期高齢者と老人は区分されている。尊敬される老人であるために、まず重要なことは、心身ともに能力が高いこと。視覚、聴覚が衰えていたとしても、見よう、聞こう、という意識を持っていることである。
しかし、年老いたら病気もするし、悩みもつきない。家族にも、他人にも迷惑をかける。でも、迷惑をかけてもいいじゃないかとも思う。それは年老いたゆえのことだからだ。
病気になっても寝たきりになっても、夢だけは持とう。老いる意味とは「夢を持って生きること」にあるからだ。
老いる意味-うつ、勇気、夢
作者:森村誠一
出版社:中央公論新社
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人は自分の死を自覚した時、あるいは死ぬ時に何を思うのか。そして家族は、それにどう対処するのが最善なのか。
16年にわたり医療現場で1000人以上の患者とその家族に関わってきた看護師によって綴られた『後悔しない死の迎え方』は、看護師として患者のさまざまな命の終わりを見つめる中で学んだ、家族など身近な人の死や自分自身の死を意識した時に、それから死の瞬間までを後悔せずに生きるために知っておいてほしいことを伝える一冊です。
「死」は誰にでも訪れるものなのに、日ごろ語られることはあまりありません。そのせいか、いざ死と向き合わざるを得ない時となって、どうすればいいかわからず、うろたえてしまう人が多いのでしょう。
今回は、『後悔しない死の迎え方』の著者で看護師の後閑愛実(ごかんめぐみ)さんと、現在ドラマ放映中『泣くな研修医』の原作者である外科医の中山祐次郎(なかやまゆうじろう)先生という二人の医療者による対談を収録しました。
看護師、医師という2つの視点から、患者さん、あるいは家族が死とどう向き合っていってほしいかを語ってもらいます。(撮影:永井公作)(こちらは2019年1月12日付け記事を再掲載したものです)
医療者と患者の距離
後閑愛実さん(以下、後閑):医療者の死生観で、患者さんの生き方が右往左往されてしまっているんじゃないかと思うことがあります。中山先生の著書『医者の本音』の中でも書かれていましたが、医師にとって患者さんの死は2.5人称。やっぱり家族と同じにはなり得ないですよね。そうはいっても、3人称、その他大勢の死というほどでもないとは思いますが、家族も本人もすべて医療者まかせということにはしてほしくないと私は思っています。
中山祐次郎先生(以下、中山):説明を足すと、2人称は「あなた」、3人称は「どこかの誰か」。つまり2人称は家族などの大切な人、3人称は見知らぬ人。医者と患者さんの距離ってどれくらいあるんだろうって考えた時に、やっぱり家族にはどうしてもなり得ないし、愛する人でもない。けれどもまったく知らない他人ではない、というところで2人称と3人称の間、2.5人称と私は考えています。
それくらいの距離感が、医師として冷静かつ温かみのある判断ができるのではないかと感じています。
ただ、医者の死生観もさまざまで、それを押し付けるのか押し付けないのか、それとも家族にまかせてしまうのか、まかせるならどれくらいか、8:2なのか5:5なのか。そういうのは人にもよるでしょうし……難しいとこですよね。
後閑:近すぎず遠すぎず、ということですね。ちなみに、近すぎたなという例はありますか?
中山:ありますね。医者として若かった頃のことです。
私はその時、研修医だったんですが、医者として大した貢献ができずにいて、だけどどうにかしたいという気持ちがあったから、おそらく私は距離を詰めすぎてしまったんです。
その患者さんの病室に休みでも通ったり、医療と関係ない話もたくさんしました。その患者さんはがんで、その後亡くなられました。私はその方のお葬式に行ったんですよ。お葬式に行って、すごく辛い思いをしました。すごく心が傷ついたので、これがしょっちゅう起きたら、とてもじゃないけど自分の心が持たないと思いました。
後閑:私もお葬式に行ったことがある患者さんがいます。
その患者さんは90代の女性でした。経鼻経管栄養で最期まで生かされ、痰も多かったのでよく吸引したりしましたし、体がむくんだりもして辛い思いをさせてしまった患者さんでした。
90代のご主人と息子さんがよくお見舞いに来ていました。最期は夜中の0時くらいに、もう呼吸が止まりかけてると思ったのでご家族を呼んだんです。ご主人と長男さんご夫婦がすぐに駆けつけてくれました。患者さんは、ご家族が来たらちょっと元気になって、目を開けてご主人を見ていたんです。
長男さんは私たちスタッフの分までジュースを買ってくれて、患者さんを囲んでみんなでそのジュースを飲みながら、思い出話とか患者さんのことを話したりしていました。
朝方6時くらいになって、それこそ仲直りの時間だったんですけど、患者さんが持ち直したように見えたんです。すると、今度は高齢のご主人のほうが心配になったので、「いったん帰られて、休まれたほうがいいんじゃないですか。私たちが見ていますから」と提案しました。長男さんも、自分が残るからと言ってくれて、ご主人とお嫁さんは一度家に帰って休み、お昼頃にまた来ます、ということになったんです。
けれど、二人が帰って30分後に患者さんは息を引き取られました。あの時、帰っていいなんて言わなければよかったという思いが私に残ったんです。
長男さんは、自分がいたから最期を穏やかに看取ることができたと言ってくれたし、ご主人も急変を連絡するとすぐに来てくれたので、息を引き取る瞬間に立ち会うことはできなかったけれど一晩一緒にいられたからよかったと言ってくれたんですが、それでもちょっと心につっかえるものがあって、お葬式に行ったということがありました。
けれど、こうしてその人だけを特別視していいのだろうか、じゃあ他の人はどうなの、これはやっぱり続けられないから、少しだけ距離をとろうと思いました。以来、近づきすぎず、ちょっとだけ距離をとるということを意識しています。
中山:看護師さんは医師よりも患者さんと距離が近いですよね。そうすると、やっぱり医者よりも患者さんに感情移入しやすいでしょうし、看取るのは辛いだろうと想像しますが、どうですか?
後閑:今は結構、自分を客観視できるようになった部分もあります。たとえ理不尽な死であったとしても、今は辛いことになっているとしても、それ以前にたくさんの選択をしてきた結果であるわけで、本人やご家族が思ったようになってはいなかったとしても、その選択をした時は最善だと思ったことを選択し続けてきたわけです。なのに今、苦しい思いをしているのは、病気や老化のほうがその一枚も二枚も上手だったというだけです。その人たちが最善と思われることを選択してきたんだと思って、今を否定せずに接するようにしています。
とはいえ、心のバランスをとるのはすごく難しいと思いますね。医療介護職は感情労働ですから、自分の感情をコントロールしないといけない。そんなふうに見えてはいないという方もいらっしゃるかもしれませんが……。中山先生は、どうやってメンタルをコントロールしていますか?
中山:痛く飲むと書いて「痛飲」するという言葉がありますが、僕は本当に文字通り痛飲していて、自傷行為そのものでしたね。すべてを客観視して、他人事にしてこなしていくのは違うと思っています。
毎回落ち込んだり傷ついたりしているのは危ないし、それでは持たないとは思うんですが、それが正しいと僕は思っているんですよ。危険な思想だとは思いますけどね。
後閑:医療者も患者さんの死に対して、家族と同じ悲しみではないけれど、悲しんでいることをわかってもらいつつ、ともに看取りを穏やかな最期へと着地させるためにはどうしたらいいかを考えてほしいと思います。
「先生ならどうしますか?」
後閑:医療者と患者さんやご家族には、その思いにギャップがあるんですよね。治療方針を決定する上で、中山先生自身が気をつけていることはありますか?
中山:基本的には、その場で決めないということかな。緊急手術の場合以外は、必ず一週間は開けて、一回持ち帰ってもらって、ご本人に家族と一緒に考えてもらうことにしています。それで改めて集まってもらって話し合う、ということを大事にしていますね。
後閑:中山先生の本『医者の本音』の中で、大腸がんの父親の手術をするのか、人工肛門にするのか、それとも何もしないのかを悩んで、手術を選択したというエピソードがありましたが、このケースも持ち帰って考えてもらったんですか?
中山:あの話に関しては、もう腸閉塞になっていて、放っておけば腸が腐って死ぬという状態だったので、大急ぎでみんなで話して決めました。
最近は風潮として、患者さんに選択を完全に丸投げするという姿勢がちょっと多いように思います。
ABCと選択肢があります、どれがいいですか? というシーンがちらほらあって、安易すぎてプロとして非常に恥ずかしい。やはりある程度、プロとして責任を持ちつつ、自分の医学的な専門性を加味して、さらに経験を加え、せめてオススメを言うべきだと思っています。僕はそれだけは気をつけるようにしています。全部並列して提示して、さあ、どれかに決めてくださいというのは、僕は好きじゃない。
後閑:たしかに、A案B案C案ありますけど、どうですか? と投げて、家族がA案を選択したとすると、面談の後で、「なんであれ選ぶかな?」と口にする先生もいますね。いやいや、先生が提示したからでしょう? みたいなこともあるから怖いんです。私も医者がせめてオススメを言うべきだと思います。
逆に、「先生だったら何をオススメしますか」と聞ていみてもいいものでしょうか?
中山:そうですね、それは有効だと思っています。
「先生だったら何を選びますか」「先生が私の立場だったら何を選びますか」と聞いてみるのは、すごく大事です。最終的には主治医の判断になるわけですが、私は、この患者さんが自分の親だったとしたら何を選ぶだろうかというように意思決定すると、比較的すっきりとする選択ができるようには思っています。
後閑:私の親も肺がんの手術の後に「抗がん剤をしますか」と聞かれて、「先生だったらどうしますか」って聞いたら、「僕ならしません」と言われてやめました。
中山:その質問は、本当に有効だと思います。
静かに尊厳を持ってその生を閉じていく
後閑:中山先生は本の中で、「静かに尊厳を持ってその生を閉じていく姿はとても自然なものだったと記憶しています」と書かれていましたが、その時はどう思われたんですか?
中山:その話は、私が初めて治療をしなかった患者さんのことです。
中山:患者さんが食事がとれなくなって、その状況に対して医療には点滴をする、鼻から管を入れる、胃に穴を開けて胃に直接食事を入れるといった3つくらいの方法がありますが、そのすべてをご家族としっかり話し合った結果、どれもやらずに食べられなくなって、そのままだんだんと死に近づいていきました。ああ、こういう終わり方があるんだと、初めて知りました。
しかし、僕の心の中では葛藤もありました。もうちょっと治療したら、1ヵ月、2ヵ月、半年ぐらいは何とか頑張れたかもしれないという医学的な思いと、ある日突然、知らないところから医療従事者という親戚が現れて、「なんで何もやらないんだ、そのせいで死期が早まったんじゃないか!」と怒られ、訴えられるんじゃないかという不安も正直よぎりました。
ですが、その二つの葛藤を飲み込むほど、最期のお看取りのシーンは自然で、神々しいとさえ思えたんです。人間は、こうやって生きて、こうやって死んでいくんだと思いましたし、こうあるべきだと、理解ではなく「感じた」というのが正しい表現です。
後閑:それはすごく共感できます。私も患者さんが亡くなった後に、その患者さんがすごくおしゃれな方だと聞いていたので、ご家族に「お母さんはすごくおしゃれな人だったと聞いたので、皆さんでメイクをしてもらえませんか」とお願いしたんです。エンゼルケアという身体を綺麗にしたり浴衣を着せたりするのは看護師がやるのですが、最後にメイクだけご家族にやってもらったんです。
家族が思い出話をしながらメイクをしてくれて、お孫さんが「おばあちゃん綺麗だね」って言ったんです。お嫁さんも「ほんとだ、綺麗」、長男さんも次男さんも「母さん、綺麗だ」って。その光景に、人生の最後に家族みんなに綺麗って言われるって、なんて素敵な人生だろうと思いました。そのすべてに、まるで美しい景色を見ているような高揚感を覚えました。尊厳を保ったまま亡くなることができた、生ききったんだ、と感じました。
中山:やっぱり、僕も後閑さんもそういうふうに感じるということは、たぶん多くの人が同じように感じると思うんですよね。そう考えると、ラストシーンに人工的なことが増えるというのは自然ではないんでしょうね。
後閑:本来は、歩けなくなって、食べられなくなって、木々が自然に枯れていくように自然に亡くなっていくんでしょうけれど、医療はそれをひどく遠回しに、より困難にしているように思えることがあるんです。
中山:すごくあちこちに行った結果、僕たちは戻ってきた気さえしますよね。
後閑:本人家族が医療者まかせにしないためにどうしたらいいかという、アドバイスはありませんか。
中山:有事の際に考えるのではなく、普段から家族ともしもの時の話し合いをしておいてほしいということですね。自分の葬式はどうしてほしいとか、意識がなくなったらどれくらい積極的に治療をしてほしいとか、死にまだ遠い時に死について話し合っておくことが大事だと思っています。
その辺の意識は後閑さんと同じだと思っていて、だから僕も以前、『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』という本を書いたんです。元気な時に考えておいてほしいんです。
後閑:本当にそうですよね。私も元気な時にこそ考えておいてほしいという思いがあって、看取りや死について病院の外でトークイベントをしたり、ネットで発信したり、今回、『後悔しない死の迎え方』という本を書いたりしているんですよね。
元気なうちに、自分はどう過ごしたいか、何を大事に思っているのかなどを話し合っておいてほしいですね。「延命治療はしないで」というのでは、話し合ったうちに入りません。なら、延命治療って何ですか? という話になりますし、じゃあ、どうしたらいいのと、結局は医療者まかせとなって不本意な形で生かされ続けたりしてしまうわけです。ですから、どう最期を過ごしたいか、どういう思いを大切に生きていきたいかを、何かの機会で話し合っておいてほしいなと思っています。
穏やかな最期を迎えるために重要なこと
(1)医療者も家族や本人とはまた違う苦しみを味わっていると理解する
(2)プロの意見をもらう質問「先生だったらどうしますか?」
鵜呑みにはしないこと。なぜなら医師の死生観に左右されることになるから。
それに自分の人生観をプラスして考えること。
(3)静かに尊厳を持ってその生を閉じていくには、元気な時から話し合いをしておくこと
後閑愛実(ごかん・めぐみ)
正看護師。BLS(一次救命処置)及びACLS(二次救命処置)インストラクター。看取りコミュニケーター
看護師だった母親の影響を受け、幼少時より看護師を目指す。2002年、群馬パース看護短期大学卒業、2003年より看護師として病院勤務を開始する。以来、1000人以上の患者と関わり、さまざまな看取りを経験する中で、どうしたら人は幸せな最期を迎えられるようになるのかを日々考えるようになる。看取ってきた患者から学んだことを生かして、「最期まで笑顔で生ききる生き方をサポートしたい」と2013年より看取りコミュニケーション講師として研修や講演活動を始める。また、穏やかな死のために突然死を防ぎたいという思いからBLSインストラクターの資格を取得後、啓発活動も始め、医療従事者を対象としたACLS講習の講師も務める。現在は病院に非常勤の看護師として勤務しながら、研修、講演、執筆などを行っている。著書に『後悔しない死の迎え方』(ダイヤモンド社)がある。
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皇族の学校といえば、学習院――。その歴史を前回は書いてきたが、眞子さまはなぜ学習院大学でなく、国際基督教大学(ICU)に進学されたのだろうか。ちなみに、ご両親は学習院大学だし、眞子さま自身も初等科から中学・高校までは学習院を歩まれている。
そもそも、眞子さまがICUに進学することに、秋篠宮さまが反対しなかったのはなぜだろう。秋篠宮家は自由を重んじる家風で知られ、眞子さまの意思を尊重したともいえるが、それだけではないようだと宮内庁担当記者は言う。
「これは陛下が天皇になる前ですが、学習院を歩かれていると、同級生のお母さまなどいろんな方から声がかかるんです。学習院が陛下を支えてきたんですね。同じ学習院でも秋篠宮さまはそうじゃなかった。あそこは陛下の世界ですから、秋篠宮さまは自分の娘をそういうところに通わせたくなかったのではないでしょうか」
それに、ICUは眞子さまの意思でもあったという。
「ICU時代、学園祭なんかに行くと、焼き鳥を売ったりして、眞子さまほんとに楽しそうでした。合宿で飲酒している写真が流出しましたが、学習院じゃ絶対にできないことですよ。そんな堅苦しさから逃げたかったのではないでしょうか」
学習院の問題もある。皇族が活躍する場といえば国際親善なのに、学習院大学には国際社会で活躍できる人材を育成する学部がなかったこともそうだ。国際社会科学部ができたのは2016年で、世の中の変化に対応できていなかったといえる。
眞子さまがICUに進学したのは2010年だが、前々年にはエディンバラ大学に留学していた高円宮家長女の承子さまが早稲田大学に再入学し、09年には同三女の絢子さまが城西国際大学に入学している。皇族の学習院離れは秋篠宮家だけではなかったことも、ICU進学に反対しなかった理由なのだろう。しかし、それが結果的に、4年生だった2012年に小室さんと出会って結婚へと向かうのだから、親としては「もしあのとき学習院に進ませておけば……」と後悔しているかもしれない。
「学習院だと得体の知れない人は入れないし、そもそも小室さんのように家庭にいろいろと問題を抱えた人は無理です。それに皇族は幼稚園から初等科に上がるので、同級生はどこの誰かはみんな分かっています。安心できますよね」(前出の担当記者)
学習院だったら、もし小室さんのような人物が近づけば警告する人がいたかもしれない。また、小室さんの身辺調査を自らするようなおせっかいな人物がいてもおかしくない……。今となってはすべて後の祭りでしかない。
眞子さまのスキャンダルが拡大したおかげで、学習院がまた見直されているといわれている。監視が行き届かない大学に進んで、再び眞子さまと同じようなことが起これば目も当てられないからだろう。宮内庁関係者はこう言った。
「こう言うと失礼ですが、眞子さまは皇室から外に出ていかれる方です。でも悠仁さまは違います。お相手は外から入って皇族になるのですから、人物に問題があれば打撃は計り知れません。『刃物事件』で秋篠宮さまも警備の難しさを理解されたと思います。それに学習院には皇室をよく理解されている教育者はたくさんいます。将来、天皇になると決まっている方に、東大も早稲田も必要ないのです」
想像を超えた眞子さまの結婚スキャンダル拡大は、学習院への原点回帰という思わぬ副作用を生んだようだ。
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世界的に著名な自然療法士でオステオパシストのフランク・ラポルト=アダムスキー氏。1992年に発表された「アダムスキー式腸活メソッド」は、Google.itの食事法(ダイエット)部門(2017年)で「最も検索されたキーワードのベスト3」に選出されるほど、本国イタリアのみならず、ドイツ、フランス、スペイン、ポルトガル、ベルギー、トルコなど、世界中で話題になっている。
日テレ系列「世界一受けたい授業」(5月22日放映)でも紹介され、「アダムスキー式腸活メソッド」をすべて解説した『腸がすべて:世界中で話題!アダムスキー式「最高の腸活」メソッド』は、日本でも7万部を超えるベストセラーになっており、大きな反響を呼んでいる。
訳者の森敦子氏が本書の翻訳を通して感じたのは、「食べ物は『何を食べるか』ではなく、『何と組み合わせて食べるか』が大事」ということ。
では、アダムスキー氏の提唱する「最高の腸を手に入れるための組み合わせ」はどうやって食卓に取り入れればいいのだろうか? 今回は、本書の翻訳を手がけた森氏が、「和食+エキストラバージンオリーブオイルの腸活法」について解説する。
「オリーブオイル」は腸の「洗浄剤」
「人体の免疫システムの80%を担っている」ともいわれる「腸」。その腸の調子を整えることで美と健康を手に入れる「腸活」が近年話題を集めています。
『腸がすべて:世界中で話題!アダムスキー式「最高の腸活」メソッド』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)
アダムスキー博士がおすすめしているオイルは、日本でも購入しやすい「エキストラバージンオリーブオイル」。これは熟したオリーブの実を搾った質の高いオリーブオイルで、「天然のオリーブジュース」ともいわれています。
「アダムスキー式腸活法」では、腸にこびりついた汚れを溶かすには、「高品質な植物性オイル」や「果物」が効果的だと考えられています。「オイル」には非加熱で多めに摂取すると、たまった汚れを盲腸へ滑らせる効果があるのだそうです。
そのオリーブオイルは「日本食」と味の相性がよいといわれ、和食には腸にいい食品がたくさんあることから、「和食にオリーブオイルをかける」のは、これから腸活を始めようという人に、とてもおすすめの腸活法なのです。
今回はそんな「和食にオリーブオイルをかけて腸活する方法」を4つご紹介します。
「魚×オリーブオイル」は相性抜群
【1】おしょうゆ感覚で「焼き魚」にかける
鮭の塩焼き(写真:kai/PIXTA)
おすすめは、「焼き魚」の仕上げに、おしょうゆ感覚でオリーブオイルをかける使い方。ふっくら焼けたお魚の塩焼きと、香りのいいオリーブオイルは相性抜群です。
お魚をオリーブオイルで調理するだけなら、「ソテー」という手もあるのですが、アダムスキー博士が「腸の洗浄剤」としてすすめているのは「非加熱で使用した植物性オイル」。「フライパンにひく」よりも「魚を焼いたあとにかける」ほうが、腸のためにはよいのです。
和風にしたいときは、おしょうゆとオリーブオイルの両方をかけてもおいしいですし、そこに「大根おろし」をそえるのもおすすめです。大根には消化を促進する効果があるので、さらに腸にやさしい一品にすることができます。
【2】「お刺し身」のおしょうゆの代わりもOK
鯛のお刺し身(写真:Kimi/PIXTA)
また、「お刺し身」をいただくときの「おしょうゆ」に「エキストラバージンオリーブオイル」をちょい足しするのもおすすめです。「まぐろ」「かつお」などの赤身のお魚とはとくに相性がいいようにと思います。
オリーブオイルが好きな方なら、「おしょうゆ」ではなく「オリーブオイル」と「塩」だけでいただくのもおすすめです。いつもの小皿に塩とオリーブオイルを溶いてもいいですし、大皿にお刺し身を盛って、そこに塩とオリーブオイルをかけると、レストランのような華やかな一皿になります。こちらは「鯛」などのあっさりした白身だと作りやすいです。
「納豆菌」と「オリーブオイル」で腸内環境を改善
【3】「いつもの納豆」にちょい足しする
ご飯にのせた納豆(写真:shige hattori/PIXTA)
おしょうゆや納豆のたれを入れた「いつもの納豆」に、エキストラバージンオリーブオイルを少し加えるのもおすすめです。
「納豆にオリーブオイル」というと少し意外でどんな味になるのか想像しにくいかもしれませんが、納豆の臭みが取れてオリーブオイルでまろやかになるので、かえって食べやすいと感じる方もいると思います。
大豆は定期的に摂取すると「悪玉コレステロール値」を10~15%下げる効果があると言われ、「アダムスキー式腸活法おすすめスーパーフード10」の1つに挙げられています。
とくに、納豆に含まれる「納豆菌」は熱や胃酸に強く腸まで生きて届くため、腸内の善玉菌を増やす働きがあるといわれています。腸内環境を整える「納豆」に、腸の汚れを落とす「オリーブオイル」をかければ、おなかの調子はばっちりです。
【4】「おみそ汁」の仕上げにひと回し
具だくさんみそ汁(写真:shige hattori/PIXTA)
洋風のスープの仕上げにオリーブオイルをひと回し加えるように、おみそ汁の仕上げにエキストラバージンオリーブオイルを加えるのもおすすめです。
器に注いだおみそ汁にオリーブオイルをひと回しかけると、湯気と一緒に香りが立ちます。オリーブオイルの香りが強すぎるときは、先に器にオリーブオイルを入れておいて、そこにみそ汁を注ぐとマイルドになります。
「旬のお野菜を使ったおみそ汁」は、それだけでも腸活効果の高い食品として何度か紹介してきました。
大豆製品の中でも「みそ」はアダムスキー博士のイチオシ食材。発酵食品である「みそ」には善玉菌が豊富に含まれています。
そしておみそ汁の具材の「野菜」には善玉菌の餌となる食物繊維が豊富ですので、みその「善玉菌」と野菜の「食物繊維」の相乗効果で腸内環境を改善する効果がさらに高まるのだそうです。
「旬の野菜のおみそ汁」に、腸のお掃除効果のある「エキストラバージンオリーブオイル」を垂らせば、最強の腸活食の完成です。
「オリーブオイルをたくさん摂取すると、油だから太るのでは?」と考える人もいるかもしれませんが、体のむくみやぽっこりお腹、高コレステロールの原因は、「腸の汚れ」が原因となっている場合もあります。
「非加熱のオイルをスプーン1杯飲むよりも、腸が詰まっているほうが、はるかに太りやすい」とアダムスキー博士は主張しています。
「腸の健康」は健康維持には欠かせない
腸には、必要な栄養成分を体に取り込む「消化吸収」だけでなく、不必要な成分を体から排出する「デトックス」の働きもあり、健康維持やダイエットに「腸の健康」は欠かせません。
けれども、「残念ながら『腸』の完璧なシステムが正常に機能することはほとんどない」とアダムスキー博士は話しています。
私たちは人生や仕事のストレスにさらされながら生活し、腸を意識しない食習慣を続けているせいで、消化管全体の流れが遅くなり、消化管の壁に有害な汚れがたまっているケースが少なくないのだそうです。
「アダムスキー式腸活法」は「こびりついた汚れから腸を解放」するところからスタートします。オイルを生で摂取することには抵抗のある人は、いつもの食事に「エキストラバージンオリーブオイル」をひと回しかけることから腸活を始めてもOKです。
みなさんも毎日の生活に「エキストラバージンオリーブオイル」を取り入れ、「腸の掃除」を始めてみませんか。
(医学監修:澤田幸男
/医学博士、澤田肝臓・消化器内科クリニック院長)
追記:納豆や野菜にエキストラバージンオリーブオイルをかけて食べると便秘は解消します。何年(5年以上)もやっていますから間違いないと思います。健康に害はありません。