ブログ:
人間は神さまでないから、
多くの欠点を持つ。
人間が傲慢になるか、謙虚
になるかは、
自らの「不完全」さを自覚して
いるかどうかの差だろう。
「傲慢人間はエゴが先に出る。
個人主義の殻にこもる。
評論は上手だか尻が重い。
自分の欠陥より相手の欠陥
ばかり目につく。
ぼやく。だから嫌われる。
その結果、いつも不満たらたら
で不幸である。
謙虚人間は自分の至らなさを
よく知っているから、
一歩下がって人の話を聞く。
人の気持がわかる。
いたわりや気くばりができるよ
うになる。
お互いの長所を生かし合うよう
に努力する。
真面目である。
その結果、いつも感謝の気持が
あり、
小さなことにも喜びを見つける
ことができる」
自分の未熟さに気づいてさえ
いない人が多い。
たとえ未熟さに気づいても、
あえて無視している人もいる。
人間、自らの「不完全さ」をほん
とうに知ることはきわめて難しい
ようだ
ーコラムー
「あれかこれかとなったら
マイナスを選ぶんだ。
これをやったら死ぬ、と
いう方に進むんだよ」
/ 岡本太郎
これはあの瀬戸内寂聴
さんに言った言葉だ。
寂聴さんのその後の人生を
決めた一言として有名。
この内容は若者たちや、僧侶た
ちの講演会でもお話しをされ衝
撃を与えた。
マイナスや死を選ぶという言葉の
真意は、安住するなということだ。
⇒墓穴をほる(意
それまでの自分など振り捨てて
しまえ、そうすれば緊張感が生ま
れ、生きる根源的なエネルギー
が噴出してる、と。
岡本太郎は決して向こう見ずな
蛮勇の人ではなく、むしろデリケ
ートな人だ。
人が迷いやすい弱いものだと
知っているかこそ、岐路に立った
時に易きに、流れず、
自分を追い込むとを原則にして
いた。
「ぼく」は主語です
「つよい」は述語です
ぼくは つよい
ぼくは すばらしい
そうじゃないからつらい
「ぼく」は述語です
「好き」は述語です
「だれそれ」は補語です
ぼくは だれそれが 好き
ぼくは だれそれを 好き
どの言い方でもかまいません
でもそのひとの名は
言えない
夏が語るこの夕日 まるで永遠に
終わりを告げぬように
あたたかい未知の歌 聞きたくて
いつもの場所にかけよったけれど
あなたはいない
どうして人は悲しい景色を眺める
でしょう
こんなにも晴れているのに・・・
雲がわたしを染めていく
あなたを待った 夜明け
時のたつのも しばし忘れて
不機嫌なため息ついたけれど切な
さかみしめてまた息を吸う
何かを悟った 夜明け
涙流すのも しばし忘れて
ぶっきらぼう所は変わってないのね
心のアルバムめくって 今日が別れ
の日と知っていても
あなたは来ない 朝日は瞳(め)にじむ
ブログ:
「絶対的な愛って、存在すると思う?」
と、彼女はわたしに問う。
彼女は二十五歳のOL。
二十代はわたしにとって、まだ、
「女の子」の年代。三十代には
「女」になり、
四十代には「女の人」になり、五十
代になってやっと「女性」になる。
六十代からは再び女の子に戻る。
それがわたしの理想の女性像。
わたしたちは今、外苑前の駅近く
にある隠れ家てきラウンジバー
「北青山サロン」にいる。
カウンター席に並んで腰掛けて、
彼女は「フレンチキス」を、わた
しは「ミモザ」を飲んでいる。
どちらもシャンパンをベースに
したフルーティなカクテル。
どちらもシャンパンをベースに
したフルーティなカクテル。
フレンチキスはラズベリー色。
ミモザはオレンジ色。わたした
ちは、女の子と女。
「ときどき、わからなくなるの」
と、女の子は長いまつ毛を伏せる。
「すごく不安なの。彼のこと、好き
になればなるほど、心が不安定にな
っていくの。会いたくてたまらなく
て、会えば嬉しくて、でも彼と別れ
た途端、足もとの椅子をさっと
外されたような気持ちになって・・
・・・・」
まさに、「恋に落ちた」ってことね。
やられちゃったね、まんまと。
「これが恋だとすると、愛はどこに
あるの?私が求めているのは完璧な
愛なの。
絶対的で完全な愛が、私は欲しいの」
真剣なまなざし。思い詰めたような
瞳。いつかどこかで目にしたような。
懐かしいような切ないような。
真冬に思い出す、春の陽射しのよ
うな。
ミモザをひとくち含んで、女はこう
思う。欲しいと思うのであれば、
まず「欲しい」と思うことをやめ
なくては。
人は何かを欲しがっている限り、
それを手にいれることはできな
いのだから。
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「絶対的な愛って、存在すると思う?」
と、彼女はわたしに問う。
彼女は二十五歳のOL。
二十代はわたしにとって、まだ、
「女の子」の年代。三十代には
「女」になり、
四十代には「女の人」になり、五十
代になってやっと「女性」になる。
六十代からは再び女の子に戻る。
それがわたしの理想の女性像。
わたしたちは今、外苑前の駅近く
にある隠れ家てきラウンジバー
「北青山サロン」にいる。
カウンター席に並んで腰掛けて、
彼女は「フレンチキス」を、わた
しは「ミモザ」を飲んでいる。
どちらもシャンパンをベースに
したフルーティなカクテル。
どちらもシャンパンをベースに
したフルーティなカクテル。
フレンチキスはラズベリー色。
ミモザはオレンジ色。わたした
ちは、女の子と女。
「ときどき、わからなくなるの」
と、女の子は長いまつ毛を伏せる。
「すごく不安なの。彼のこと、好き
になればなるほど、心が不安定にな
っていくの。会いたくてたまらなく
て、会えば嬉しくて、でも彼と別れ
た途端、足もとの椅子をさっと
外されたような気持ちになって・・
・・・・」
まさに、「恋に落ちた」ってことね。
やられちゃったね、まんまと。
「これが恋だとすると、愛はどこに
あるの?私が求めているのは完璧な
愛なの。
絶対的で完全な愛が、私は欲しいの」
真剣なまなざし。思い詰めたような
瞳。いつかどこかで目にしたような。
懐かしいような切ないような。
真冬に思い出す、春の陽射しのよ
うな。
ミモザをひとくち含んで、女はこう
思う。欲しいと思うのであれば、
まず「欲しい」と思うことをやめ
なくては。
人は何かを欲しがっている限り、
それを手にいれることはできな
いのだから。
運のいい人は、
出来事を次々へと運ぶ
のがうまい人。
たとえ、いやなことがあっ
たとしても
運の強い人は
すぐ忘れたかのように気分
を一新させ、
そのいやなことを、
素早く頭から消去し前進し
ているものです。
失恋と同じように・・・・・。
いやなことをいつまでも
ぐじぐじ思って忘れないでい
ると、
マイナス志向になり運が
逃げていくのです。
運よく前に進むために、
いやなことは、すぐ忘れ
る!
というスタンスが大切です。
-コラムー
優しい人の温もりが、どこか
僅かに残った躰で、冷え冷えと
した家に戻っていく帰り道。
わたしはよく、一度しか会った
ことのない女の人の言葉を思い
出していた。
まだ十代だったころ、男らしい
人に連れていってもらった
バーの、若いホステスさんの
口から出た言葉。
彼女はシングルマザーだった。
名前を、シオリさんといった。
「四条から山科に戻るとき、
タクシーで蹴上(けあげ)の坂
を登りますやろ。あの坂を登る
ろきには、うちは母親になる
んです。
そして翌日の夕方、店に出るた
めにあの坂を下りてきますやろ。
そのときにうちは、女になるん
です」
「母親と女は別々の人間なの?」
と、わたしは彼女に尋ねた。男
らしい人はわたしのそばで笑って
いた。
「無粋な質問すんなや」と言い
ながら。シオリさんに向かって
「堪忍してやってな。こいつ
まだ、ねんねですねん」と言いながら。
シオリさんは真面目な顔で答えた。
「別々です」
それからわたしの瞳をじっと覗き
込んで、言った。
「あんたにもそのうちきっと、わか
る日が来ます。ひとりの人間が同時
に、警察と泥棒になることはできま
へん。
けど、ひとりの人間のなかに、両方
が棲み着いてしまうことがある。
そんなときはどっかできっちり区切り
をつけて、ここからは警察、ここから
は泥棒、そうやって生きていくしか
ありませんやろ」
後悔しろ」
小さいときから、父親にずっとそ
う言われて続けてきました。
私がいまの職業についたのも、その
影響があったものかもしれません。
「やってみないか」と聞かれたとき、
正直言ってうまくできる自信があり
ませんでした。
でも、「せっかくだから、やってみ
よう」と思って
「やります」と答えた。
それが人生を変えるきっかけにな
ったんです。
やったことがないから「やめておく」
のか
やったことがないから「やってみる」
のか。
どちらかを選べと言われたら、
私はこれから先もずっと
「やってみる」を選びたいと思って
います。
子どものころは、時間って無限に
あるものだと思っていました。
早く大人になりたい、なんて望ん
だりもしていましたが、それは自
分が、ずっと子どもでいるような
気がしたから、なんですよね。
人生が有限であることを、頭では
なく体で感じられるようになった
ら、そこからいよいよ生きること
が美しくなるのではないか、
生意気なようですが、私はそんな
ふうに思っています。
自分はいま、まだ中途半端で、や
や頭で理解している部類に入るの
ですが、そろそろ体でも感じはじ
めてもいます。
何百回、何千回、何万回と、あな
たと花火を見られるとしたら・・・。
それは嬉しいことでしょが、
やはり美しいことでは、ない
ような、そんな気がします。