“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

ナチスの治安政策と刑法

2013年12月13日 11時00分02秒 | 臼蔵の呟き

ナチスドイツの治安政策、刑法がどのようなものであったか。そのことを知っておくことは現在の政治状況では意味があることと思います。

<治安政策>

1933年に政権につくとともに、ヒトラーはプロイセン州内相に党の最有力幹部であるゲーリングを任命しました。ゲーリングは就任後ただちにプロイセン州警察に予備警察官として突撃隊と親衛隊を加えました。間もなく国会議事堂放火事件(謀略といわれています)後の緊急大統領令により、「予防保護拘禁」と称してその場の判断で令状なしで国民を自由に逮捕する権限が与えられました。プロイセンはドイツの国土の半分以上を占める巨大州であり、広範な国民がゲシュタポの猛威にさらされました。4月26日には政治警察ゲシュタポが設置され、逮捕された人々を強制収容所へ送るようになりました。

1934年4月、ゲーリングはゲシュタポに対する指揮権を親衛隊(SS)のヒムラーに譲りました。ヒムラーとラインハルト・ハイドロヒは中央集権化とあわせて各州の警察権力を親衛隊の下で一元化しようとしました。ヒムラーは1936年に内相ベルヘルム・フリックより全ドイツ警察長官に任命され、その後内相をも兼ねることによってドイツ警察・治安行政の支配者となりました。ドイツ警察を、一般警察業務を司る秩序警察と政治警察業務を司る保安警察に分離させ、秩序警察をクルト・ダリューゲ、保安警察をハイドリヒにそれぞれ委ねました。

国家保安本部は日夜国民を監視し、親衛隊の支配が全国に浸透してゆきました。1941年にゲーリングはハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」権限を移譲しており、国家保安本部はホロコーストの作戦本部ともなりました。1943年にヒムラーは内相に就任し、完全なドイツ警察の支配者となりました。ヒトラー暗殺未遂事件の際にもヒムラーが鎮圧者となり、今まで権限が及ばなかった国防軍内部への支配権(旧ドイツ軍首脳部は謀略で引責、交代をさせました)も手に入れました。ナチス政権への批判、政敵、民主的な勢力はすべて殺害、弾圧される中で、政治は全てナチ党に支配されました。思想信条の自由、批判的な思考は全く死滅しました。これこそがナチ党、ヒットラー、その幹部の狙いでした。

<強制収容所>

親衛隊はドイツ国内・併合地・占領地を問わず各地に強制収容所を設置させました。政権掌握直後の1933年にはバイエルン州でダッハウ強制収容所設置、1936年にベルリン北部にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にはバイマール郊外にブーヘンバルト強制収容所が設置されました。

第二次世界大戦の際に占領した地域にも強制収容所が立てられ、ポーランドに建てられた収容所のなかにはホロコーストのための絶滅収容所も置かれました。特にアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所などが絶滅収容所として著名です。また戦時中のドイツ占領地域の治安維持組織としては「アインザッツグルッペン」(特別行動部隊)がありました。国家保安本部長官ハイドリヒの提唱で創設され、ドイツ軍前線部隊の一つ後方にあり「政治的敵」を殺害していた部隊です。

<ナチス刑法>

ナチス時代の刑法は意思刑法・行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する意思と人格に対して、全体主義的立場から、応報と贖罪を犯罪者に対して要求するものでした。犯罪者は、「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を有しているという理由により、反抗的人格を形成したことに対する血の報復(これが弾圧、殺害、国外逃避などにつながりました)をナチス国家から受けました。後に西ドイツ基本法において罪刑法定主義が明記された理由の一つでした。

<罪刑法定主義>いかなる行為が犯罪を構成し,それに対していかなる刑罰が科されるかは,あらかじめ事前に法律で定められていなければならない,という原則を指します。


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