暫く頭を休めていましたが、久しぶりに筆を執る事にします。
神武天皇の東征で、『名草』と謂う言葉が日本書紀に登場します。五瀬命の死後、名草戸畔を誅殺した後、熊野から吉野へ向かった。とされ、此れまでの推察では、この名草の地は和歌山市にある標高228,7mの名草山の事で、此の近辺であろうと、考えられて解釈されて居ましたが、遺跡や遺構等は無く、はっきりと断定はされていません。
わたくしの『欠史8代は九州王朝であった。』の考えでは、※神武天皇(若木入日子命)の業績は大分での行動であり、『名草』の位置は大分県の別府湾の近くで在らねばならない事になります。
※神武天皇(諱は、彦火火出見尊)はその後の考察にて、崇神天皇の実父であります孝元天皇(日高彦彦火火出見尊=大倭根子日子国玖琉命)の名前を名乗っただけ、の事でした。記紀では、崇神天皇は開化天皇(若倭根子日子大毘毘)の子とされています。
此の訳は、開化天皇(=ウガヤフキアエズ=住吉神)が、妃に孝元天皇の妃(玉依姫=豊玉姫の姪)を娶り、連れ子の天日鉾(崇神=スサノオ)を、自分の子とした。からです。ホツマツタエに依りますと、大田田根子命の祖父オオミケヌシが、禁忌に触れる皇后選びを諫めて職を辞した。と、述べています。
亦、由布院に居たと考えられる宇奈岐日女命とその兄である建田背命の父の建斗米命が妃として中名草姫(紀氏)を娶っていますので、どうしても、『ゆふいん』からそう遠くない地に『名草』の地を見つけ出さないと皆様の共感を得る事が出来ません。
『名草』とは大分県の何処にあったのでしょうか。
名草の名前から草原をイメージして、丹念に大分県の地図を調べましたが発見できません。暫く、喘いで念じていましたら、別府大学教授で在られました故、賀川光夫さまの「名草台千人塚古墳と石棺群の調査報告」をネットで見つけました。
1952年(昭和27年)6月の発掘調査の報告書であります。
この名草台の場所は大分県玖珠郡森町字名草台46番地(千人塚)81番地82番地83番地86番地158番地(石棺群及び甕棺)開拓農場(別府大学機関リポジトリより)とあり、ゆふいん日出生台演習場の西方隣りの高台にある陸上自衛隊玖珠駐屯地の傍です。
弥生時代末から古墳時代に架けての遺跡とされ、多くの墓があり、時間軸も合い位置的にも納得出来ます。詳しくは『別府大学機関リポジトリ』にてご覧ください。
此処が間違いなく『名草』の地であろうと考えられ、わたくしの説を補完することになり真実の歴史に近づく事になりました。