「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『名草戸畔の場所は大分県玖珠郡玖珠町森であった。』と考えられる。

2012-08-24 | 古代史

暫く頭を休めていましたが、久しぶりに筆を執る事にします。

 

神武天皇の東征で、『名草』と謂う言葉が日本書紀に登場します。五瀬命の死後、名草戸畔を誅殺した後、熊野から吉野へ向かった。とされ、此れまでの推察では、この名草の地は和歌山市にある標高228,7mの名草山の事で、此の近辺であろうと、考えられて解釈されて居ましたが、遺跡や遺構等は無く、はっきりと断定はされていません。

わたくしの『欠史8代は九州王朝であった。』の考えでは、※神武天皇(若木入日子命)の業績は大分での行動であり、『名草』の位置は大分県の別府湾の近くで在らねばならない事になります。

 

※神武天皇(諱は、彦火火出見尊)はその後の考察にて、崇神天皇の実父であります孝元天皇(日高彦彦火火出見尊=大倭根子日子国玖琉命)の名前を名乗っただけ、の事でした。記紀では、崇神天皇は開化天皇(若倭根子日子大毘毘)の子とされています。

此の訳は、開化天皇(=ウガヤフキアエズ=住吉神)が、妃に孝元天皇の妃(玉依姫=豊玉姫の姪)を娶り、連れ子の天日鉾(崇神=スサノオ)を、自分の子とした。からです。ホツマツタエに依りますと、大田田根子命の祖父オオミケヌシが、禁忌に触れる皇后選びを諫めて職を辞した。と、述べています。

 

亦、由布院に居たと考えられる宇奈岐日女命とその兄である建田背命の父の建斗米命が妃として中名草姫(紀氏)を娶っていますので、どうしても、『ゆふいん』からそう遠くない地に『名草』の地を見つけ出さないと皆様の共感を得る事が出来ません。

 

『名草』とは大分県の何処にあったのでしょうか。

名草の名前から草原をイメージして、丹念に大分県の地図を調べましたが発見できません。暫く、喘いで念じていましたら、別府大学教授で在られました故、賀川光夫さまの「名草台千人塚古墳と石棺群の調査報告」をネットで見つけました。

1952年(昭和27年)6月の発掘調査の報告書であります。

この名草台の場所は大分県玖珠郡森町字名草台46番地(千人塚)81番地82番地83番地86番地158番地(石棺群及び甕棺)開拓農場(別府大学機関リポジトリより)とあり、ゆふいん日出生台演習場の西方隣りの高台にある陸上自衛隊玖珠駐屯地の傍です。

 

弥生時代末から古墳時代に架けての遺跡とされ、多くの墓があり、時間軸も合い位置的にも納得出来ます。詳しくは『別府大学機関リポジトリ』にてご覧ください。

 

此処が間違いなく『名草』の地であろうと考えられ、わたくしの説を補完することになり真実の歴史に近づく事になりました。

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (篠木 實)
2021-12-15 18:05:40
名草戸畔と神武東征について調べています。宇佐神宮の伝承と出雲伝承を対照し、また名草族伝承(なかひらまい著「名草戸畔」)を読みますと縄文時代の名草族の移動と、戸畔の死が紀伊半島ではないかと考えられますが、確かに神武(崇神)が宇佐で亡くなる前の九州統一で戦っている可能性も皆無とは言えませんね。
物部族(徐福系子孫が遠賀川流域や吉野ヶ里地域などから)が、数度の東征をしており、紀伊・大和・河内にはその、特に九州地方からの移動の様々な地名や祀る神々や遺物遺跡の痕跡を慎重に判断しなければなりません。
私の場合ニニギノミコトの降臨も河内から大和紀伊熊野
と考えていて、そもそも出雲の国譲りも大倭の或いは若倭の和風諡を冠する7代〜9代天皇の意味も、広大な祭祀的連携の大和王権成立とその奪取以外有り得ないと。
オオヤツヒメやツマツヒメは五十猛命の妹では無く、妻としてのオオヤヒメとホヤヒメであり、丹後半島から南下して出雲・縄文系女系シャーマン海洋族習合の大和王権侵入、新習合王権をつくり、紀国造家を造った物部系天孫族だと考えます。斎木雲州氏の「出雲と大和のあけぼの」伝承と巻末にある「出雲王家と親族」を参照にしています。
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