「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

古代史編年を試みる。その1 (高橋氏の本貫地は筑後國御原郡高橋邑。から推測出来ます崇神天皇)

2014-10-24 | 古代史

九州での『豊鍬入姫命』の意志を継いだのが『垂仁』と『日葉酢媛』の子であります『倭媛命』で有ります。『倭媛命』は近畿纏向で生れ、近畿一円を廻り、日本書紀に拠りますと垂仁25年3月『丙申ひのえさる』(西暦276年)(垂仁12~13年頃と考えますと西暦271年に勘定され、5年の差が出ます。)天照大神を三重県の伊勢に祀ります。

 

垂仁は24歳の時(西暦259年頃)狭穂姫と結婚し、26歳~27歳(垂仁5年=垂仁2~3年)で狭穂姫を失い、喪があけて、その後日葉酢媛と外3名を娶ります。

景行(大足彦忍代別命=次男)の誕生は垂仁31歳頃(西暦266年頃)(彦座王46歳位)と考えられ、当時としては晩い子造りであった。と考えられます。

ですから、九州で熊襲が叛いた時、(景行12年=景行6年)(22歳で皇太子になって6年後の28歳時と捉えます。)(西暦294年頃)景行は7年(三年半)も九州に滞在して、日本書紀では「日向の高岡宮」に六年滞在(3年位)した。と記入されて場所の特定が為されていませんが、此の「高岡宮」は、わたくしの解釈では鳥栖弥生ヶ丘から基山にかけての場所の事であろうと、思われます。

鳥栖市弥生ヶ丘から基山に行宮を造り、狗呉の娘?『襲武媛』(そのたけひめ)を娶り、『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)=『水沼の君』に任じます。外2人の都合3人を儲けて『狗呉族』と崇神派の押さえ込みを図っています。

しかし、句呉族同士での争いも起こっていたと考えられ、西暦367年には、佐賀市大和町川上峡の、景行と同じ、和邇氏の親族末裔と考えられます『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)が、大善寺(師木)の玉垂宮(瑞垣宮)を占拠して、隈氏(狗古智卑狗)は高良山に1年程退避してその後368年に『瑞垣宮』を取り返しています。西暦248年に遣って来た魏の使者一行も、この高良山から高良台辺りに滞在をしていたものと考えられます。曲水の宴を行なった痕跡が認められた御井町辺りが候補として考えられます。

 

景行19年(景行9年半)に纏向(行橋市の勝山黒田~豊津か、日田と、考えられます)に戻り、景行20年(景行10年頃=西暦298年頃・景行32歳位)日本武尊(小碓命16歳)に佐賀県の川上タケル(息長氏親族の和邇氏)の討伐を命じます。(小碓命は、西暦282年頃の生れと考えられ、双子の弟です。小碓命誕生の時の景行は16歳、垂仁47歳・彦坐王62歳位と考えられます。)

日本武尊は川上タケル討伐の後、出雲タケルを討ち(古事記のみ)、纏向(日田)へ帰りますが、東国の遠征を命じられ、伊勢で天照大神を斎祀していた叔母である倭姫命から『草薙剣』を頂いて遠征します。最後は三重県亀山市の『能褒野』(のぼの)にて30歳で没したとも述べられています(日本書紀)ので、此れを信じますと日本武尊は西暦312年頃の没で有ります。此の時期は景行の年齢は46歳位が考えられ、垂仁(77歳)や彦坐王(92歳)はもう亡くなっていたと考えられます。

日本書紀では、『景行天皇』は景行60年まで生きたと述べられ、二倍暦で考えまして30年間と仮定しますと、西暦318年(53歳)の生涯であったと想われます。

 

日本書紀では、景行53年10月に日本武尊を偲んで「小碓が平定した東国(関東)を見てみたい。」と船にて、皇后の八坂入媛命や磐鹿六雁命(孝元天皇の子であります、大彦命の孫になり、筑後國御原郡高橋邑、現在の三井郡太刀洗町高橋区の高橋氏の祖とされています)等を連れて東國視察を2ヶ月間しています。(日本で最初の観光団体旅行?)とも考えられます。

磐鹿六雁命は蒲を襷に掛け、白蛤(うむき)と鰹(かつお)の、なます料理を出して景行ほか皇后の八坂入媛命が大層喜び、『膳大伴部』に命じられます。)磐鹿六雁命は褒美に『若狭國造』に任ぜられ舞鶴市『高橋郷』の地名が残っています。

此の高橋氏は、景行と伴に近畿纏向に渡り、奈良市に『高橋神社』を残していますが、磐鹿六雁命は、後年は筑後國御原郡にて生活をし、亡くなったものと考えられ『屋主太忍男武雄心命』が宣命使として景行天皇から派遣されています。

筑後川の南岸の田主丸(和邇氏)地区に『鹿狩』(ろっかり)区が在り(むつかり→ろっかり)に為った。と考えられます。

高橋』の語源は『高倉』に掛けた『梯子』からとされ、此の御原郡は筑後川の氾濫に苛まれ、穀物倉庫として、高床式家屋が必需であったものと考えられます。

 

この筑後國御原郡高橋邑は、崇神8年10月に高橋邑の『活日』(いくひ)に酒を造らせ大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)=大己貴命を祀り、宴を持った場所でも在ると考えられます。此処は太刀洗町『上高橋』に在ります『老松神社』での祀りと宴であったと思われます。此処の本殿左手には、『大己貴命』魂石を祀っています。

下高橋区に在ります『竈戸神社』は、後に、大蔵氏が『高橋邑』に遣ってきて『高橋城』(平城)を築いた跡地とされ、此処は筑後平野の中心に位置しており、遺跡が多くある由。

之の高橋邑の日本書紀崇神紀8年10月項の記述は、わたくしの説(崇神は玉依姫の子であり、久留米市城島の玉垂宮=師木の瑞垣宮に棲んで居た)の裏づけと成る。ものでもあります

 

景行55年2月5日には、宇佐島(由布院~安心院~院内)に居た『彦狭島』に(景行天皇の弟の『若木入日子命』の事で、記・紀では彼の業績が神武天皇の東征の業績に置き換えられています。『彦狭島』の生存年は大方西暦270年頃~西暦315年位の45歳没が考えられます。)東国15国の王に命じていますが、『彦狭島』は赴任途中で亡くなり、翌景行56年8月に『彦狭島』の子である26歳位であったと考えられる『御諸別命』が(生存年は西暦290年~西暦350年位が考慮できます)東国15カ国の王として命じられて、大勢、『宇佐島』や『愛媛』から関東へ赴いて往っています。

 

 《その後の考察による追補》

景行は彦坐王=彦湯産隅命のことで有ります。福岡県田主丸の和邇氏竹野姫と開花天皇(ホツマ伝では、太刀洗町春日地区の=ヰチヂ市千魂命=春日殿の子と述べられています。)間にて、西暦220年頃に誕生して、田川=鷹羽の地で西暦240年頃息長水依比売命=辛国息長大姫大目命=最初は日高彦穂穂出見命の妻となり、ウガヤを生みます。姪の玉依姫と新羅に渡り、スサノオ(天日矛・崇神)を新羅に置いて香春町に帰ってきます。後に景行(彦坐王)が娶り、田川~行橋~苅田町を中心に倭を治めて居た人であります。記紀に於いては神武東征での長髄彦命(ニギハヤヒの臣)と述べられ、捏造されています。

久留米の城島=シキの瑞垣宮=玉垂宮にて、 賀茂建角身命(豊玉彦の息子)と伊香古夜姫が生んだ玉依姫=伊香賀色謎命が、日田市日高ダンワラ地区出身の兵主命=日高彦穂穂出見命=孝元天皇=山幸彦との間にて、御真木入彦命=後の崇神天皇=スサノオ=神武天皇を儲けます。

此の崇神(スサノオ)が、アマテル=天火明命=ニギハヤヒ=瓊瓊杵尊の臣であった天児屋根命=彦坐王=長髄彦=景行天皇が居た田川~行橋黒田~苅田を西暦234年(甲寅)に攻めます。

海路で1回、陸路で2回試みます。之が記紀ではヤマトの地を奪う『神武東征』に為っており、和邇氏の郷  佐賀県神埼市『日の隈』の『柏原』にて崇神=神武が西暦241年(辛酉)即位を一方的に宣言したものと考えられます。

長髄彦=彦坐王は、西暦248~250頃近畿に渡って孝霊天皇として中国地方を主に活躍し、251年景行天皇として近畿纏向にて即位します。その後西暦258年(戊寅)8月=景行12年8月に崇神を討って国の統一をする為に倭(九州)に遣って来ます。

行橋黒田に行宮を作り、木綿の院(由布院)の宇奈岐日女命の後継者の速津姫(ホツマ伝では赤土の娘と述べられていますが、実態は住吉神の娘と考えられます)に崇神(スサノオ=神武)の情報を伺い(宇那比姫の兄の『建田背』若しくは『建宇那比命』の子が『建諸隅命』で、『大海姫』は『建諸隅命』の姉若しくは妹で、

『崇神』の妻に為って杵築市で暮らしていた。と考えられます。此の『大海姫』が『宇佐津姫』で有ったろう。とも、考える事が出来ます。

速津姫(ホツマ伝で、スサノオから求婚された人)から情報を聞いた景行は杵築で崇神(スサノオ)を討ち、

その後は熊襲(崇神の後ろ盾の志賀氏・八田氏・中臣氏)を誅し、崇神の取り巻き新羅人本拠地の城島=シキの玉垂宮近くの、鳥栖弥生が丘~基山で数年(6年?若しくは半分の3年?)暮らして国乳別皇子の他2人を儲けて、纏向(日田)に帰りますが、数年後には佐賀県川上峡の和邇氏(彦坐王の出身地田主丸と同属別れ)と考えられます川上タケルが叛乱を起こして、景行の子である倭タケルが派遣され収めます。

 

 

 

 

 

 

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崇神天皇の没年を考える。その2 爵位を受けたのは、『豊鍬入姫命』と『狗古智卑狗王』(隈氏)であった。

2014-10-15 | 古代史

「わたくしの説で、ひとつ気に罹りますのが、崇神天皇の没した年であります。」と述べて考察をしてきた訳ですが、一番の気懸かりは、初代卑弥呼(247~248年没)の後に13歳で二代目を継いだ『臺輿』(とよ)は、如何も『竹野姫』では無い。と考えられるのです。

竹野姫』は209年頃の誕生であります。と述べていますので、此のお方は当然該当を外れます。

崇神』(西暦220年生まれ)の子であります、杵築で生れた『豊鍬入姫命』が、西暦235年頃の生まれと考えられますので、時間軸と実績がぴったりと該当致します。

中国の史書であります梁書(636年完成)の『東夷伝』には『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』と記され、

晋書(648年成立)の『東夷伝』にも、『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』と同様に述べて在りますが、魏書(280年~297年の成立)の『東夷伝』との整合をしますと、

『倭女王(臺与)』と伴に、その後、爵位を受けた『男王』とは、以前に述べた『竹野姫』と『開花天皇』では無く、杵築に居た13歳の『豊鍬入姫命』と、『狗呉』(こうご)と組んで『彦坐王』(和邇氏)を追放した『崇神天皇』=『卑禰弓呼』(ひみここ)の事であった。とも解釈されますが、

崇神』は258年に亡くなっていると考えられ、此れが釈然と致しません。

爵位を受けたのは『崇神』が247年に即位してから生きている間(258年)でありましょうか?

張政が正始八年(247年頃)から266年まで倭に留まっており、その時、勝手に独断で爵位を授けたとも考えられます(魏は265年に晋に禅譲になっています)

が、爵位は『王』が与えるもので、張政が爵位を与えたとは考えられず、多分266年に帰国した時一緒に朝貢しており、「男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。」と記されています。

『西晋』の武帝司馬炎から拝受したものと考えるべきでしょう。

 

崇神』は258年没で考えますと、『其後復立男王』とは、『垂仁』であると考えられますが、『垂仁』は、『崇神』の15歳頃西暦235年頃)に生れ、24歳頃(西暦244年)に皇太子(垂仁10歳)になったと考えられますが、『崇神』が亡くなった時(西暦258年)は『垂仁23歳で、直に即位し、喪に服し、翌年(西暦259年)2月に狭穂姫と結婚し、その10月に久留米から纏向に渡っています。此れは慌しく感じられ、喪が明けて直の時期の行動である。と感じられます。何かが起きています

 

感じますのは(疫病は、253年頃には収まっています)狗呉族(狗古智卑狗)の叛乱を受けて、近畿纏向に渡って往ったと考えるべきでありましょう。

そうしますと、城島(師木)の『瑞垣宮』に居た王は『狗古智卑狗王』(隈氏)か、『開化天皇』で有ったと考えられ、晋書『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』に記された『男王』とは『狗古智卑狗王』(隈氏)か、『開化天皇』を指す事に為ると考えられます。

狗古智卑狗王』か、『開化天皇』が爵位を受けたのであれば、『古田武彦』氏が主張されています、白村江の戦まで続く『九州王朝』(狗呉王朝)の初めての天皇を意味しているとも、捉えられます。

 

『豊鍬入姫命』は杵築市で二代目卑弥呼として生き、亡くなったものとも考えられますが、わたくしには、如何も久留米市~北野~田主丸周辺に多く在ります『豊比咩神社』が気に為ります。此れの解釈は『豊鍬入姫命』とも考えられる事になります。

筑後平野へ来ていたもの。と考えられます。

墳墓の場所が気になります。

 

 《追補》

2015年5月11日の『崇神天皇は西暦258年10月に景行天皇に殺された。(倭の大乱第3幕)と考えられます。』の考察により、景行(彦坐王)は杵築にて、崇神を討伐した後、熊襲を討ち、その後高岡宮(鳥栖市弥生が丘~基山町と考えています)にて六年過ごして國乳別皇子ら三人の子を儲けて、倭(北部九州)平定を図ります。出身地(和邇氏)浮羽に最後の3日間を過ごして、其の時に高橋邑傍の赤司八幡宮に寄り、水沼(三潴)君の『猿大海』に多祁理比賣命を祀ることを命じたものと考えられます。田主丸町以真恵地区の息長氏(現在秋永氏が13軒有り)の隣の鹿狩(ろっかり)地区の磐鹿六雁命を連れて近畿纏向へ帰って行きます。(西暦265年頃)

西暦266年に爵位を授けられた『其後復立男王』とは『その後再び即位した男王』と解釈され、『狗古智卑狗王』ではなく、西暦251年頃近畿纏向に渡り、西暦258年に『崇神』の治める倭を統一した『景行(彦坐王)(長髄彦)』大王であった。と結論着けられます。

 

 

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崇神天皇の没年を考える。その1 (『卑禰弓呼』(ひみここ)は『崇神』で有った。と考えられます。)

2014-10-08 | 古代史

わたくしの説で、ひとつ気に罹りますのが、崇神天皇の没した年であります。

わたくしは、崇神の誕生を、宇那比姫命(卑弥呼)の誕生を基準に、西暦222年頃と仮定しましたが、『古事記』では没年干支は『戊寅』(つちのえとら)年に亡くなった。と記入されており、此れを信用した研究者に依ると西暦258年か、その60年後の318年の没であろうか。が検討されております。

単純に258年説に当て嵌めますと、36歳で亡くなった事になります。

318年説に当て嵌めますと、96歳で亡くなった事になります。

 

『崇神天皇』は開花10年に生まれ、崇神68年12月5日の崩御とされています。

 

わたくしの『崇神』の誕生の計算は、『開花』が17歳の頃に『崇神』が誕生したと仮定して西暦222年を導いていますが、開花10年に崇神が誕生したのが本当であれば、7歳繰り上げて西暦215年の誕生と謂う事になります。此れを258年説に当て嵌めて考えますと43歳で亡くなった事になります。しかし、開花の崩御は開花60年4月9日とされ、一般的な即位の形態(前王が崩御の後に皇太子が即位する)をとれば、崇神の即位は50歳である事になります。

318年説に当て嵌めると103歳で亡くなった事に為り、崇神68年没を当て嵌めれば118歳の生涯となり、如何考えても計算が合いません。

開花から崇神へは禅譲が在った。と考えれば、時間軸は合いますが、崇神68年没が邪魔をします。仮に、二倍暦で考えますと、崇神34年没になり、9~10歳で即位した事になります。此れだと納得が行きます。

 

改めて二倍暦を使って孝元(孝霊18年生~孝元57年11月12日没116歳)・開花(孝元七年生~開花60年4月9日没の110歳)・崇神(開花10年生~崇神68年12月5日没の118歳)

(以上ウィキペディアに拠ります。)の生存年齢を検討してみる事に致します。

 

わたくしの説では、『孝霊』は居なかった事になっていますので、孝元の部分の約58歳で考えますと、二分の壱の29歳で没と仮定します。

『開花』は110歳の半分の55歳の生涯。と仮定して考えれば、父である孝元が17歳の時に開花が生まれ西暦205年頃(伊香賀色謎=下照姫21歳)、開花が12歳の時に孝元が亡くなり即位(西暦217年頃)、21歳年上である、父孝元の妻の伊香賀色謎(玉依姫33歳)を見初め結婚。開花15~16歳位(西暦220年頃)(玉依姫命35~36歳)で崇神を生み、『開花』は即位後(60年の半分)30年4月9日(西暦247年)にて崩御(開花は12歳で即位して、その後30年生きたので42歳の生涯)。その時崇神が27歳で、即位する事になり(西暦247年頃)、此の頃より以前から後継を巡って高木神・和邇氏(彦坐王=彦湯産隅命=景行天皇)と政争が起きており、交戦状態に陥ったものと考えられ、西暦247年に宇那比姫(宇奈岐日女)が助けを求めて、その後亡くなります。

その後、『彦坐王』外、大勢の『和邇氏』とその支持者が(『安本美典氏』が述べられています)『地名』と伴に狗呉の居ない新天地(近畿)に渡って往った。ものと思われます。

此れは『魏』から『倭の大目』として遣って来た『張政』一行が調停に中り、高木神・和邇氏(彦坐王=彦湯産隅命=景行天皇)一族が『倭』(北部九州)から『大彦命』が居る近畿纏向へ移動する事で決着し、崇神紀12年(半分の6年後の崇神33歳の頃)(西暦253年)人民から『御肇国天皇』と褒め称えられます。と記入していますので、騒乱は治まり、平穏太平が訪れたものと思われます。

 

此の調停員の中に『天之御影神=高躬結び神』が、息子(日高彦彦穂穂出見尊)の嫁(息長水依比賣)と伴に通訳を兼ねて居たと想われ、『天之御影神=高躬結び神』は、須佐之男が連れて来た新羅人との交渉を行ったものと考えられます。

天孫族は遣り過ぎた『須佐之男王』を『倭王』から追放する事で事態の収拾を諮り、治まったものと考えられます。

『天之御影神=高躬結び神』の来る以前は、天孫族以前から居た『句呉』の『王』と考えられ、『狗古智卑狗』(氏)が考えられます。

 

 

わたくしには、『崇神』『玉依姫命』は『句呉』狗奴國(熊本県菊池市)の王(狗古智卑狗)を味方に付けて一緒に戦ったと考えています。『卑禰弓呼』(ひみここ)とは多分『崇神』と『玉依姫命』を指しているものと考えられます。

 

そう考えますと、247~248年の卑弥呼(宇那比姫)の死は『崇神』『玉依姫』に殺されたものと想う事も出来ます。

 

一方の近畿纏向に渡った『彦坐王』は、孝霊天皇=景行天皇として周辺に遠征し、天皇としての権威を示して豪族を従えていったのもと思われます。

こうして、倭と近畿纏向が分かれたものと考えられます。二倍暦説で考えますと、その後20年生きて『崇神』は61歳の生涯であった。(西暦281~282年没)と想像できますが、

古事記の『戊寅』(つちのえとら)を信じますと、258年説であれば38歳で崩御。318年説であれば98歳で崩御。何れも可能性がありますが318年説はちょっと不利です。、考えが迷われます。う~む。

 

垂仁』が近畿纏向に往った理由と時期が、気になります。考察してみましょう。

『垂仁』は、『崇神』29年1月1日に生まれ『垂仁』99年7月14日に崩御した。とされ、二倍暦説で考えますと、『崇神』14年~15年頃(西暦235年)城島(師木)で生れて、何時即位したかは不明ですが、

日本書紀に依りますと、『垂仁』は、『崇神』48年4月に皇太子に為ったとあり、此れは『崇神』24年4月と考えられ、10歳の時(西暦245年)に皇太子に為っていると思われます。そして、『崇神』68年(辛卯)没の『辛卯』(かのとのう)に拘りますと西暦271年没(51歳)に考えられます。が、『崇神』68年を二倍暦説での34年と考えますと西暦255年(乙亥)(きのとのい)没(35歳)になります。

 

もし、258年説を採りますと(垂仁23歳)の時期に『玉依姫姫』(74歳)が亡く為って居た場合は、『垂仁』と母『御間城姫』(大彦命の娘)は纏向に居る父『大彦命』(彦坐王の伯父さんになる)を頼ったと考えられます。『大彦命』は甥の『彦坐王』を説き伏せ、『彦坐王』が春日に残して居た『狭穂姫命』(彦坐王の娘)を『垂仁』と婚姻を結ばせる事を条件に、近畿纏向へ受け入れたものと考えられます。

 

如何も、258年没。であれば歴史の解釈が納得できます。

 

ですから、『狭穂彦王の乱』にて『狭穂姫』が焼け死ぬ時、『垂仁』が『狭穂姫』に向かって「お前を失ったら自分(垂仁)は如何したら良いのでしょうか?」と訊ねます。『狭穂姫』は、『彦坐王=景行天皇』と『息長水依比賣命=天鈿女命』の間の子である『丹波道主命』が儲けた『四人の娘』を娶りなさい。と助言して亡くなります。

此れは、垂仁の当時の立場が推察されます。日田纏向には、彦坐王(孝霊天皇)=景行天皇が『大王』として権勢を有していたものと考えられます。

 

垂仁』が、倭から近畿纏向への移動の理由は、疫病の流行と、其れによる風評に依る政情不安と熊本県菊池市の『狗呉王朝』の脅威であったと感じられます。城島(師木)の周りは狗呉人ばかりで、何時襲撃をされるか不安で、『崇神』は亡くなる時期には城島(師木)から政情の落ち着いていたと考えられます杵築へ移動しております(西暦253~254年頃)。(此処で、豊城入彦命・豊鍬入姫・大入杵命・八坂入彦命・渟名城入媛・十市瓊入媛命を儲けて育てています。)

 

『玉依姫』『下照姫』は、城島(師木)で孫の活目入日子(垂仁)と嫁の御間城姫と伴に居たものと思われますが、『崇神』の崩御の258年より以前に亡なって、『高良廟』貝塚古墳に埋葬されたのもと想われます

『崇神』の崩御にて、危険を感じた23歳の『垂仁』は『御間城姫』と伴に纏向に渡ったと考えられます。北部九州(特に筑後)には、矢鱈『隈』(句呉と考えられます)の地名が多いのです。此れは、狗呉族が北部九州を席巻していたと考える事が出来ます。

 

垂仁』は二倍暦説では即位後50年程生存しています。(西暦308年年頃の崩御73歳

 

崇神は258年に亡くなり、38歳での一生を終えたと想えます。

 

『垂仁』はその後、孝霊(彦坐王)=景行天皇の後を継ぎ、近畿奈良纏向の『大王』になり、父『崇神』の墳墓を、奈良纏向(行燈山古墳)と杵築(小熊山古墳)に築いたものと考えられます。

 

 

 

 

 

 

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