九州での『豊鍬入姫命』の意志を継いだのが『垂仁』と『日葉酢媛』の子であります『倭媛命』で有ります。『倭媛命』は近畿纏向で生れ、近畿一円を廻り、日本書紀に拠りますと垂仁25年3月『丙申ひのえさる』(西暦276年)(垂仁12~13年頃と考えますと西暦271年に勘定され、5年の差が出ます。)天照大神を三重県の伊勢に祀ります。
垂仁は24歳の時(西暦259年頃)狭穂姫と結婚し、26歳~27歳(垂仁5年=垂仁2~3年)で狭穂姫を失い、喪があけて、その後日葉酢媛と外3名を娶ります。
景行(大足彦忍代別命=次男)の誕生は垂仁31歳頃(西暦266年頃)(彦座王46歳位)と考えられ、当時としては晩い子造りであった。と考えられます。
ですから、九州で熊襲が叛いた時、(景行12年=景行6年)(22歳で皇太子になって6年後の28歳時と捉えます。)(西暦294年頃)景行は7年(三年半)も九州に滞在して、日本書紀では「日向の高岡宮」に六年滞在(3年位)した。と記入されて場所の特定が為されていませんが、此の「高岡宮」は、わたくしの解釈では鳥栖弥生ヶ丘から基山にかけての場所の事であろうと、思われます。
鳥栖市弥生ヶ丘から基山に行宮を造り、狗呉の娘?『襲武媛』(そのたけひめ)を娶り、『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)=『水沼の君』に任じます。外2人の都合3人を儲けて『狗呉族』と崇神派の押さえ込みを図っています。
しかし、句呉族同士での争いも起こっていたと考えられ、西暦367年には、佐賀市大和町川上峡の、景行と同じ、和邇氏の親族末裔と考えられます『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)が、大善寺(師木)の玉垂宮(瑞垣宮)を占拠して、隈氏(狗古智卑狗)は高良山に1年程退避してその後368年に『瑞垣宮』を取り返しています。西暦248年に遣って来た魏の使者一行も、この高良山から高良台辺りに滞在をしていたものと考えられます。曲水の宴を行なった痕跡が認められた御井町辺りが候補として考えられます。
景行19年(景行9年半)に纏向(行橋市の勝山黒田~豊津か、日田と、考えられます)に戻り、景行20年(景行10年頃=西暦298年頃・景行32歳位)日本武尊(小碓命16歳)に佐賀県の川上タケル(息長氏親族の和邇氏)の討伐を命じます。(小碓命は、西暦282年頃の生れと考えられ、双子の弟です。小碓命誕生の時の景行は16歳、垂仁47歳・彦坐王62歳位と考えられます。)
日本武尊は川上タケル討伐の後、出雲タケルを討ち(古事記のみ)、纏向(日田)へ帰りますが、東国の遠征を命じられ、伊勢で天照大神を斎祀していた叔母である倭姫命から『草薙剣』を頂いて遠征します。最後は三重県亀山市の『能褒野』(のぼの)にて30歳で没したとも述べられています(日本書紀)ので、此れを信じますと日本武尊は西暦312年頃の没で有ります。此の時期は景行の年齢は46歳位が考えられ、垂仁(77歳)や彦坐王(92歳)はもう亡くなっていたと考えられます。
日本書紀では、『景行天皇』は景行60年まで生きたと述べられ、二倍暦で考えまして30年間と仮定しますと、西暦318年(53歳)の生涯であったと想われます。
日本書紀では、景行53年10月に日本武尊を偲んで「小碓が平定した東国(関東)を見てみたい。」と船にて、皇后の八坂入媛命や磐鹿六雁命(孝元天皇の子であります、大彦命の孫になり、筑後國御原郡高橋邑、現在の三井郡太刀洗町高橋区の高橋氏の祖とされています)等を連れて東國視察を2ヶ月間しています。(日本で最初の観光団体旅行?)とも考えられます。
磐鹿六雁命は蒲を襷に掛け、白蛤(うむき)と鰹(かつお)の、なます料理を出して景行ほか皇后の八坂入媛命が大層喜び、『膳大伴部』に命じられます。)磐鹿六雁命は褒美に『若狭國造』に任ぜられ舞鶴市に『高橋郷』の地名が残っています。
此の高橋氏は、景行と伴に近畿纏向に渡り、奈良市に『高橋神社』を残していますが、磐鹿六雁命は、後年は筑後國御原郡にて生活をし、亡くなったものと考えられ『屋主太忍男武雄心命』が宣命使として景行天皇から派遣されています。
筑後川の南岸の田主丸(和邇氏)地区に『鹿狩』(ろっかり)区が在り(むつかり→ろっかり)に為った。と考えられます。
『高橋』の語源は『高倉』に掛けた『梯子』からとされ、此の御原郡は筑後川の氾濫に苛まれ、穀物倉庫として、高床式家屋が必需であったものと考えられます。
この筑後國御原郡高橋邑は、崇神8年10月に高橋邑の『活日』(いくひ)に酒を造らせ大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)=大己貴命を祀り、宴を持った場所でも在ると考えられます。此処は太刀洗町『上高橋』に在ります『老松神社』での祀りと宴であったと思われます。此処の本殿左手には、『大己貴命』魂石を祀っています。
下高橋区に在ります『竈戸神社』は、後に、大蔵氏が『高橋邑』に遣ってきて『高橋城』(平城)を築いた跡地とされ、此処は筑後平野の中心に位置しており、遺跡が多くある由。
之の高橋邑の日本書紀崇神紀8年10月項の記述は、わたくしの説(崇神は玉依姫の子であり、久留米市城島の玉垂宮=師木の瑞垣宮に棲んで居た)の裏づけと成る。ものでもあります。
景行55年2月5日には、宇佐島(由布院~安心院~院内)に居た『彦狭島』に(景行天皇の弟の『若木入日子命』の事で、記・紀では彼の業績が神武天皇の東征の業績に置き換えられています。『彦狭島』の生存年は大方西暦270年頃~西暦315年位の45歳没が考えられます。)東国15国の王に命じていますが、『彦狭島』は赴任途中で亡くなり、翌景行56年8月に『彦狭島』の子である26歳位であったと考えられる『御諸別命』が(生存年は西暦290年~西暦350年位が考慮できます)東国15カ国の王として命じられて、大勢、『宇佐島』や『愛媛』から関東へ赴いて往っています。
《その後の考察による追補》
景行は彦坐王=彦湯産隅命のことで有ります。福岡県田主丸の和邇氏竹野姫と開花天皇(ホツマ伝では、太刀洗町春日地区の=ヰチヂ市千魂命=春日殿の子と述べられています。)間にて、西暦220年頃に誕生して、田川=鷹羽の地で西暦240年頃息長水依比売命=辛国息長大姫大目命=最初は日高彦穂穂出見命の妻となり、ウガヤを生みます。姪の玉依姫と新羅に渡り、スサノオ(天日矛・崇神)を新羅に置いて香春町に帰ってきます。後に景行(彦坐王)が娶り、田川~行橋~苅田町を中心に倭を治めて居た人であります。記紀に於いては神武東征での長髄彦命(ニギハヤヒの臣)と述べられ、捏造されています。
久留米の城島=シキの瑞垣宮=玉垂宮にて、 賀茂建角身命(豊玉彦の息子)と伊香古夜姫が生んだ玉依姫=伊香賀色謎命が、日田市日高ダンワラ地区出身の兵主命=日高彦穂穂出見命=孝元天皇=山幸彦との間にて、御真木入彦命=後の崇神天皇=スサノオ=神武天皇を儲けます。
此の崇神(スサノオ)が、アマテル=天火明命=ニギハヤヒ=瓊瓊杵尊の臣であった天児屋根命=彦坐王=長髄彦=景行天皇が居た田川~行橋黒田~苅田を西暦234年(甲寅)に攻めます。
海路で1回、陸路で2回試みます。之が記紀ではヤマトの地を奪う『神武東征』に為っており、和邇氏の郷 佐賀県神埼市『日の隈』の『柏原』にて崇神=神武が西暦241年(辛酉)即位を一方的に宣言したものと考えられます。
長髄彦=彦坐王は、西暦248~250頃近畿に渡って孝霊天皇として中国地方を主に活躍し、251年景行天皇として近畿纏向にて即位します。その後西暦258年(戊寅)8月=景行12年8月に崇神を討って国の統一をする為に倭(九州)に遣って来ます。
行橋黒田に行宮を作り、木綿の院(由布院)の宇奈岐日女命の後継者の速津姫(ホツマ伝では赤土の娘と述べられていますが、実態は住吉神の娘と考えられます)に崇神(スサノオ=神武)の情報を伺い(宇那比姫の兄の『建田背』若しくは『建宇那比命』の子が『建諸隅命』で、『大海姫』は『建諸隅命』の姉若しくは妹で、
『崇神』の妻に為って杵築市で暮らしていた。と考えられます。此の『大海姫』が『宇佐津姫』で有ったろう。とも、考える事が出来ます。
速津姫(ホツマ伝で、スサノオから求婚された人)から情報を聞いた景行は杵築で崇神(スサノオ)を討ち、
その後は熊襲(崇神の後ろ盾の志賀氏・八田氏・中臣氏)を誅し、崇神の取り巻き新羅人本拠地の城島=シキの玉垂宮近くの、鳥栖弥生が丘~基山で数年(6年?若しくは半分の3年?)暮らして国乳別皇子の他2人を儲けて、纏向(日田)に帰りますが、数年後には佐賀県川上峡の和邇氏(彦坐王の出身地田主丸と同属別れ)と考えられます川上タケルが叛乱を起こして、景行の子である倭タケルが派遣され収めます。