古事記には、天孫降臨の条項に、瓊々杵尊(ニニギノミコト)の述べた言葉として『此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。』とあります。
日本書紀では、『そ宍(し)の空国(からくに)を、頓丘から国覓(くにま)ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到る。』となっています。
此の二つの記入の中で、気になりますのは、日本書紀の空国(からくに)を、覓(ま)ぎ行去りての意味です。これは、『まだ、移住者(統治者)のいない土地を探しながら笠狹碕に来た。』と解釈されます。目的は、移住地探しであったと謂う事になります。
そして笠沙の岬に住む「木花之開耶姫(コノハナサクヤ姫)」と婚姻しています。亡くなった後の埋葬地は可愛山(かえやま)となっています。
葦原中国の笠狹碕は博多の西の糸島半島の事だと考えられます。此処周辺には『記・紀』に出ている条件が揃っています。可愛山(かえやま)と可也山(かややま)・吾田(あた)と有田(ありた・あた)・日向と日向・高千穂と高祖山の比定地があり、地図をご覧になれば解りますが、此処の糸島は、韓国に向き合っていまして、ここは朝日も夕日も照る立地です。日向や鹿児島にある吾田の比定地は韓国とは向き合っていません。
半歩譲って、宮崎の高千穂峰に降り立ったにしても、笠狹碕は博多の西の糸島半島の事だと考えられます。
鹿児島の野間半島は条件に無理があるようです。
瓊々杵尊(ニニギノミコト)は福岡県糸島市高祖山(417m)周辺に住んで居たものと考えられます。
と謂うことに成りますと、天照大神は此処糸島に居られたとも考えられる事ができます。
1965年(昭和40年)糸島市曽根遺跡群の平原遺跡にて、弥生時代後期中頃と思しき墳墓から棺と伴に(中には40面分もの銅鏡片が這入っていたそうです。)
夥しい勾玉・管玉等の装飾品が発見されました。副葬品から埋葬された人物は女性であると考えられ、此の中に、天照大神が持っていたと思しき『八咫鏡』が発見されて、1号墓の主を、調査主任であった原田大六氏は『大日孁貴(おおひるめむち)』である『玉依ひめ』(神武天皇の母)ではないだろうか。と推定されているそうです。
また同氏は殯宮(もがりのみや)と思しき建築物の痕跡を見つけられています。
玉依ひめは海神(わたつみ)の子であります。姉妹には『豊玉ひめ』がいます。当時は、大日孁貴(おおひるめむち)は結婚出来たのでしょうか。
この時代で可能性を持っていますのは、『玉依ひめ』『豊玉ひめ』『木花之開耶姫』『万幡豊秋津師比売』『天照大神』の1神4人になります。
『玉依ひめ』『豊玉ひめ』は綿津見神の子です。『木花之佐久夜毘売』は大山祇神(おほやまつみ)の子です。『万幡豊秋津師比売』は高木神の子です。
此の中で、大日孁貴(おおひるめむち)には、『玉依ひめ』も大いに可能性を持っていますが、一番可能性を感じますのは、『天照大神』を挙げることも出来ます。
鏡と謂う点からも、『天照大神』の方が相応しいとも考えられます。
原田大六さんの業績に敬意を払うと伴に、『玉依ひめ』に『天照大神』も加えたいと思います。
古事記にては、イザナギが禊をして、左目を洗ってアマテラス、右目を洗ってツクヨミ、鼻を洗ってスサノオの三貴神を生むのですが、福岡市西区小戸(おど)には、その地と謂われています小戸大神宮(おどだいじんぐう)が在ります。
此処が、天照大神の誕生地であると考えられます。
後世、纏向に遷都した垂仁天皇が娘である倭姫命に命じて、20年架けて天照大神を祀る場所を見出した伊勢神宮のある伊勢志摩の地名は、天照大神が居た伊都志摩(いとしま)から変化したものと考えられます。