「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

菅原道真は、大宰府では亡くなってはいない。可能性があります。(阿蘇氏を考える。)

2021-02-24 | 古代史

令和3年2月7日NHKのドラマ『麒麟がくる』の、明智光秀の生涯を描いた番組が終った。

一般的には主君に謀叛した悪人的なイメージを持っている方が多いようですが、信長との軋轢が生じた明智光秀の、心の内面の新しい解釈と、過酷な戦国乱世時代を選択して、当時の武将達が生き抜く様が、史実に沿って描かれ、光秀が『麒麟』=『平和な世の中』を求める想いが伝わる、良い作品でありました。

配役陣も、明智光秀(長谷川博己)・松永久秀(吉田鋼太郎)・織田信長(染谷将太)・帰蝶(川口春奈)と、演技力が高く、感心しました。

特に驚きましたのは、正親天皇(おおぎまち)を演じた坂東玉三郎です。

御簾の中に黙して、格調高く、徐に口を開く姿は、言葉遣いと表情の圧倒的な演技で、『居るだけで、荘厳』でありました。歴史に名を残す名演技に出会えて幸せでした。

 

最後の場面は創作の登場人物『お駒』が、光秀の生きている姿を、人混みの中で見つけて、後を追い、「幻影であったのか」と思う場面で終わるのでありますが、

原作者か脚本家は、明智光秀は、豊臣秀吉との『山崎の戦い』の後に亡くなってはおらず、生き延びて居た説がある事を知っていたのか、少しだけ想像を持たせた演出に成っていました。

昔から、明智光秀が天海和尚(徳川家康に、古来よりの仕来りや伝承、多くの知識を授けた人で、日吉神社に代表されます、山王一実神道(山王権現=大山咋=琴平神=阿蘇氏の八大竜王・豊玉彦=健磐龍命タケイワタツ=賀茂建雷男命カモタケイカヅチヲ=建雷男命の息子で、豊玉姫=龍神姫=水波能女命ミズハノメ=青龍大権現=息長大姫大目命=天ノ鈿女アメノウズメの弟(=息長氏)になります。亦の名を速瓶玉命ハエミカタマ=賀茂建角身命カモタケツヌミ(=阿蘇國造神社)は、(熊甲阿羅舵彦クマカブトアラカジヒコ=熊本甲佐神社で祀られています。朝鮮半島に船長として渡って、帰って来た速瓶玉命=賀茂建角身命の異母弟になります。)佛教と、神道、比叡山の山岳信仰を、所謂、『山王一実神道』=日吉神社=大山咋=松尾神=琴平神=賀茂建角身命=酒の神を江戸時代に全国に広めて『慈眼大師』を賜りました。

江戸城の方位縁起の指南や、関ヶ原合戦にて立てた、のぼり旗には、『厭離穢土オンリエド 欣求浄土ガングジョウド』(汚いこの世の世界から離れて、清い浄土の世界を求める。)の佛教用語が、描かれて、家康に、多大の影響を与えた人物です。

別名『南光坊』 関ヶ原合戦絵図の、徳川陣幕内に、南光坊が描かれています。亦、大阪の陣の切掛けを造った『方弘寺』鐘銘の因縁をつけるのに関わったのでは。と猜疑されています。)に為った。との説があります。

生誕年は天文5年(1536年)頃ではと、ハッキリしていません。没年は寛永20年(1643年)とされ、108歳迄生きた事になり、猜疑されています。

明智光秀の生い立ちについては、はっきりとしてはおらず、誕生年についても、1513年から1516年・1528年・1540年の説があり、(因みに、織田信長は1534年~1582年、豊臣秀吉1537年~1598年、徳川家康1543年~1616年、の誕生です。)

わたくしも、明智光秀が天海和尚に為った可能性は、大いにある。と、考えている一人です。

理由は、世間での評判の歴史と、本当の歴史は違っている事が、多く認められるからであります。

 

例えば、菅原道真は、延喜3年(903年2月25日)太宰府で亡くなった。と、一般にはマスコミ・歴史専門家をも含めて疑念を挟まず信じておられます様ですが、

(百嶋由一郎氏の研究)伝承を辿って、調査を行うと、

実態は、昌泰4年(901年2月1日、警固役人二人・幼児二人を含めた7人で京を出発)博多湾到着後、藤原時平の刺客、亦刺客、亦亦刺客、に狙われた道真一行は、太宰府に着任できず、一旦、天拝山で祈願して(北野天神縁起絵巻)→基山(小郡市吹上地区の重松家への大正時代の大宰府天満宮宮司、西高辻信稚氏からの石碑伝承に拠る)へ移動。→三養基郡中原から→脊振越えの三瀬・板屋峠→博多早良郡司の『壬生家』に7か月間滞在。

太宰府に赴任するまでには、その後、船にて福岡市西区六本松(谷邑)を出帆→豊前椎田沖で遭難(綱敷天満宮の案内由来)、椎田浜にて静養して、→宇和島宿毛の寺に寄り→西大分邯鄲カンタンに上陸後、陸路にて→玖珠の葦谷邑(現在の九重町菅原)の『安全堂』で長期滞在し、『菅原』では、現地の女子との間で二人の子を儲けています。道真の子孫が現在も居られます。わたくしは、以前にその末裔の方と会った事があります。→川船で筑後川北野町江口に上陸。→小郡市松崎の下高橋官衙遺跡(天武と持統の間で設けた、明日香浄御原宮)を通って→太宰府赴任したと、考えられます。1年半~2年以上を要しております。

 

そもそも、『菅原』氏は、阿蘇氏の土師氏(元々は粘土から埴輪・器や鋳型を造る職種)から派生した一族で、菅原氏の源元であります、『天之穂日命』は豊後宇佐『アカル宮』で生まれて、宗像氏の『アヤコ』が乳母として育て、その後生母の居る『出雲』へ送り返しています。豊受大神(高躬結び神)が、倭に遣って来たAD206年~207年頃は、九州~山陰~四国は一体化して本州への移住が盛んになっていました。(ホツマ伝によります。)

 

阿蘇周辺には、『菅原』の地名が数多くあり、阿蘇氏派生の志賀氏から受け継いだ吉田家次(吉田豊後の守)=吉田司家が『相撲』の宗家です。

久留米磯城宮(大善寺玉垂宮)に居た『垂仁天皇』に、傍用人達の殉死の代わりに、埴輪を埋める事を提言した、相撲で有名な『野見宿祢』は土師氏であります。

 

阿蘇氏とは、

わたくしは、『阿蘇』の解釈を『阿』は『亜・吾』(自分・我々)、『蘇』は『蘇の國』(蘇の國から来た)と、解釈しています。

 

『蘇』とは、中国の歴史では、『周』の時代の河南省『温県』(BC1100~BC650年頃)の事で、温(蘇)県には、古来温泉があったと謂われ、BC650年頃に、蘇(温)から玉名~天草~熊本~八代に流れ着いた人々が、倭では『温泉』と謂う言葉の最初の使用者と考えられます。(『周』の『太伯』の末裔。の由来と考えています。)

7世紀の『隋書』にも『俀(倭)に阿蘇山あり。』と出ています。

BC650年頃には、大陸から遣って着た人々が居たものと、考えられます。

熊本平野は『瑞穂=水穂の國』と呼んでおり、この人たちが『水稲』を齎しているものと、考えられます。

阿蘇周辺には、温泉が数多く湧出しています。

 

『蘇』とは、奈良時代からの食品『酥』ソの事であろうと、謂われていますが、此れは、『蘇』から遣って来た人々が、乳を煮詰めて作って食していた『酥』ソを、『蘇人』の好みから『蘇』ソと呼んだものと、考えられます。

 

京都~三重の近畿地方には、今でも軒下に、『蘇民将来』(我々の先祖は、蘇の民である。・蘇の民を倭に招き容れた。)掲げる習慣が残っています。本来の『蘇民将来』の起源は熊本~豊後でしょう。

 

熊本には、その後、BC473年頃『呉』(春秋時代)の王族の『姫』氏、BC334年頃『越』の王族の『熊』氏、BC223年頃『楚』の宰相『屈原』が、洞庭湖に注ぐ汨羅江ベキラカワへ投身自殺したのを偲ぶ、5月の節句『ちまき』の行事。の風習が伝わっており、

 

佐賀県には、BC210年頃『秦』の『徐福』一行が遣って来て、静岡県から関東地方まで『徐福』伝承を残しています。

 

宮崎県串間市~西都原には、BC111年頃『秦』に繋がる『南粤』ナンエツ王族の『多』氏が、翡翠で出来た『玉壁』を持って雲南省~海南島から遣って着ています。

そして、AD57年に後漢初代の光武帝(劉秀)から、『漢委奴國王』カンノイドコクオウと刻印の金印が、倭に贈られて、糸島(志賀島)から発見されています。

 

『多氏』は『大己貴命=宇摩志阿斯訶備比古遅神(國引き神話より、『倭國の乱』を収めるべく、韓半島から招聘された人とも想われます。)→宇摩志→馬氏→司馬氏(晋の王族)』に繋がっているとも、推測されます。

 

宮崎県都農町に在ります日向國一の宮『都農神社』では、『大己貴命』を祀っており、素戔嗚尊(崇神天皇=息長氏)が新羅から連れてきた人達が大暴れをするのですが、ホツマツタエに依りますと『大己貴命』は、『初代大物主』に為って、乱を収める役を仰せ使っています。

 

奈良県に在ります大和国の一の宮『大神神社』オオミワジンシャでは、『大物主大神』即ち『大己貴命』を祀っています。

 

『大神氏』オオガは『阿蘇氏』です。本貫地は、豊後日出町大神です。日出町『藤原』地区と、隣り合わせです。後々の『木下家』が、徳川家康から『日出藩』として、拝領されます。

 

『大己貴命』と、『大国主命』を、同一人物である。と、混同している人が多くいらっしゃいますが、ホツマツタエに依りますと『大己貴命』(大黒様・佐太大神・カルの君・田中神・日隈君・顕國玉・初代大物主・八重垣の臣)と、タケコ(宗像三女人の長女です)の間での子が『大国主命』(恵比寿様・事代主神・二代目大物主・倭大國魂)と、述べられています。

 

この事を信じますと、『大国主命』は早岐(西宮・広田宮)でウガヤフキアエズ=開化=住吉神から育てられた『蛭子』(男性)の事であります。

後に磯城=城島の大善寺『玉垂宮』に、出雲より遣って来た『高姫』(記紀では、『大己貴命』と『多祁理比賣命』の間に産まれた『下照姫』とされています。)とか、『玉依姫』(『孝元天皇』との間で『崇神』を生んだ後に、『開化天皇』の妃になっています。モンゴル方面の風習では、よくあることです。『記・紀』では伊香色謎命・伊迦賀色許賣命と、伏せられています。)と一緒に暮らしています。

 

出雲の『大己貴命』の元へ遣わされた『事代主神』とは、『蛭子尊』(恵比寿)であった事が理解できます。『記・紀』では『事代主神』の正体が隠されています。

 

『大国主命=蛭子尊』は、タカキネ(7代目高躬結び神・日田の耶蘇杵の子)の娘『ミホツ姫』を娶って、『子守尊』(別名水分神・第三代大物主)を儲けています。

 

しかしながら、ホツマツタエでは、『蛭子』は『伊弉諾尊』と『伊弉冉尊』の第1子で、『アマテル』の前子と述べられ、『稚姫』『下照姫』『高照姫』と別名があり、女性と判断されています。

 

わたくしの判断では、金折=住吉神=開化天皇が、長崎県早岐で育てた『蛭子』は『男性』であり、磯城=城島の瑞垣宮『玉垂宮』で、出雲から帰って着た『高姫=下照姫=ミホツ姫』と結婚をしたものと考えられます。

 

『蛭子尊』と『美保津姫』は、『出雲』の傍の島根県松江市美保関町の『美保神社』で、『事代主神』=『えびす神』の総本宮として祀られています。

『出雲大社』の『大己貴命』が西に向かって鎮座されていますのは、『倭』が九州に在ったからか、出身地の中国大陸に想いを馳せていたものと考えられます。

 

 

この『王』(多氏)(『大己貴命』の先祖)が、久留米磯城宮に居た崇神天皇が名乗った本当の神武天皇(カムヤマトイワレビコ)であろう。と考えています。その兄が、『五瀬の命』で、宮崎県五ヶ瀬町に痕跡を残しています。

阿曾『豊玉彦』の娘であります、『豊玉姫』は宮崎県の鵜戸神宮でウガヤフキアエズ=住吉神=開化天皇(稚倭根子日子大毘毘命)を産み、『豊玉姫』は『祖母山』に、『稚倭根子日子』は阿蘇五岳の『根子岳』に痕跡を残しています。

 

神武天皇とは、

高良玉垂宮神秘書では、『モリヤ山の神を守る大臣オトド』と書かれています。『モリヤ山』とは、イスラエルの『モリヤ山』の修行者が匪ヒを担いで山に登った。『修験の山』との伝承があります。確か、長野県『善光寺』の近くにも『モリヤ山』が在った。と記憶しています。

 

※、《追補》2021年4月2日

ウィキペディアで、『神武天皇』を開きましたら、別名(諱)イミナが『彦火火出見』と出ていました。驚きました。

久留米高良山玉垂宮下宮で祭られています『孝元』=『日高彦穂穂出見尊』が『神武天皇』の正体でした。記・紀では、孝元天皇のとされています、崇神天皇が『神武天皇』を名乗った事が理解できました。

ホツマ伝の解釈によりますと、『崇神』の実父は『開花天皇』ではなく、『孝元天皇』(母親は玉依姫=豊玉姫の姪)であります。

父の名を息子が名乗った。だけの事でありました。つまり、古事記・日本書紀で出てくる『神武天皇』(神日本磐余彦火火出見尊)とは、崇神天皇が親父の孝元天皇(日高彦穂穂出見尊)の名前を名乗った。と謂うことです。

 

勉強不足で申し訳ありません。

 

 

AD207年頃阿蘇(豊香島→豊鹿島)を中心に倭(九州~四国~山陰・北陸)を統括していたのが、息長氏(海南島賀茂)の健磐龍命=豊玉彦=記紀では武甕槌命・建御雷男神と、その息子、賀茂建角身命=速瓶玉命=八咫烏です。(それ以前は、白氏=白山姫一族が治めて居た。と、考えられます。)

如何謂う経緯で『大=多(己貴命)』家の上に『息長』家が、奪タツようになったのかは不明です。(大型の帆船を幾艘も所有して、海上貿易を牛耳っていたものと考えられます。)

 

 

『菅原道真』は、延喜3年(903年2月25日59歳)に太宰府で亡くなって、榎寺(安楽寺)に埋葬した。と報告した道真・※白太夫一行は、船で鹿児島川内市東郷町藤川に逃れ、其処で、京都から妻子を呼び生涯を全うしている。ものと考えています。

 

その根拠は、

『道真』の太宰府での滞在期間が、(逃亡の期間を差し引いて考えると、)余りにも短くて、太宰府にては亡くなってはおらず、此れは太宰府赴任から、時間をかけずに白太夫と伴に薩摩川内の藤川へ移動しているもの。と考えることが自然に想われます。(それとも、着任後に暗殺された?)

藤川には、梅鉢を京都から持って来た側近の『白太夫』シラダイユウの墓があります。

 

  • 白太夫は、三重県伊勢神宮外宮の神官を務めた渡会ワタライ(地区)の『春彦』の事と謂われており、道真の安否を気遣い京都から『梅鉢』を持って太宰府に遣って来た人物で、都から飛んできた『飛梅』の由来の人。道真の霊を守ったとの伝承があります。

 

一緒に藤川へ遣って着て居るものと、考えられます。

 

菅原道真については、宮原誠一氏のブログ『神社見聞牒』No53・古川清久氏のブログ『新ひぼろぎ逍遥』603をご覧ください。

勉強になります。

 

《追伸》

ジョン・グラムの音楽に拍手を送ります。

 

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (きよし)
2022-02-03 19:02:55
妄想ですね
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