「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

‘’正田のばあさんは、気が狂った‘’の解釈を考察しました。今上天皇は息長氏を受け継いでいる。と、考えられます。

2020-08-25 | 古代史

本日は、皇統の柱と為った、息長氏(秋永氏)が今日迄続いているのか。を、わたくしの推測と、洞察で考えてみたいと思います。

 

わたくしのブログでは、南朝第98代長慶天皇(1343年~1394年)は、朝倉市須川の黒巖山クロイワヤマに葬られたであろう。と述べています。現在も、菊池氏流の星野耕一氏が代々守っておられます。(第8代星野胤忠タネタダが埋葬し、現在35軒近くの星野氏があります。)

 

戦国時代の関ヶ原合戦は有名で、一般の研究者の注目が集まっていますが、関ヶ原合戦以前の、大きな南北朝の戦いの『大保原合戦』(1359年7月から8月29日)を知っている人は、殆んどいません。

 

久留米市宮の神~小郡市大保~大刀洗町に架けて、北朝軍6万・南朝軍4万で死闘を繰り広げています。

 

後醍醐ゴダイコ天皇は、7歳の懐良カネヨシ親王(1381年八女市矢部で崩。日田市の『牧原マキバルの戦い』で死亡し、日田市琴平に在ります普門寺※=朝倉に在ります真言宗『普門寺』に繋がっています。に、『菊池武重』=第13代菊池家当主と共に埋葬されています。)を征西大将軍に任じ、延元元年1336年に、四国の宇都宮氏経由で、阿蘇惟時や菊池武光=第15代菊池家当主=武重の弟の所謂、菊池氏一族に託します。

 

※、日田市琴平町に在ります『普門寺』は、応保2年(1162年)『大蔵永宗』が創建。開山をしたのは、千三百数十年代の『笑厳和尚』(1376年没)と伝わり、33回忌の応永16年(1409年)に『笑厳和尚坐像』が作られました。現在は日田市北友田光岡に在ります、『岳林寺』(足利尊氏の命で創建(1299~1342年頃)の勅願寺です。臨済宗妙心寺派。)の郷土資料館文化財収蔵庫に展示されています

我々歴史研究者が考えなければならない事は、全国各地で南北朝の争いがおきますが、何故、日田の場所で『大蔵氏』(最初は『後醍醐天皇』に味方しましたが、後に『足利尊氏』に寝返りをしました。)と、『懐良親王』『菊池武重』が山の中で争ったのか。です。日田は古代から歴史ある重要地点(豊受大神一族・大山祇命・橘氏・景行天皇)であります。正当皇統である後醍醐天皇は、日田(但馬の源)の古代の歴史を知っていた。ものと考えられます。

 

 

足利尊氏(西暦325年頃に若狭地方に遣って着た、鮮卑族拓跋賀の末裔と考えられます。)が、九州探題に就けた少弐頼尚・少弐直資父子、大友氏時、城井冬綱ら、6万に対して、懐良親王、菊池氏の菊池武光・武政・武信・武明、星野氏、赤星武貫、黒木氏、草野氏、宇都宮隆房、西郷氏※、蒲池氏等4万で迎え撃ちます。

 

双方で20000名以上の死傷者を出した大戦でした。南朝側の勝利で終結し、13年程は足利尊氏の影響から、逃れます。

しかし、1371年足利幕府は※今川貞世(了俊)を九州探題に任じ、周防の※大内義弘が九州制圧に加担し、菊池武光・西郷氏・黒木氏・星野氏・阿蘇氏・蒲池氏・草野氏等軍を破って、1392年太宰府を取り戻します。

 

※、西郷氏は、秋永氏の流で、家紋が一緒の『丸に、違い鷹羽』です。本貫地は、佐賀県神埼市横武西郷と想われます。以前に崇神天皇=神武天皇が『吉野ヶ里』を攻め落し、留まり即位したと考えられます、『柏原』の傍近くです。以前には、此処『柏原』に『寺』と『神社』が昭和迄在りましたが、現在は『公民館』のみが在ります。祭祀の子孫は、現在は東京で『弁護士』を成されています。

『柏原』は、奈良県ではありません。西郷氏は菊池氏一族に頼り、島津氏に拾われて下級武士として、正当皇統の南朝の誇りを背負って、幕末まで薩摩で過ごします。

幕末時に、西郷隆盛に会した土佐藩士が、『南朝』が西郷隆盛の泣き所と、『長州藩士』に教えて、「一緒に南朝の天皇を新しく擁立しょう。」と提案したことで、『薩長連合』が誕生します。以後軍人が、天皇の『統帥権』を盾に、大東亜戦争まで闊歩します。

 

※、今川氏の発祥は、福岡県うきは市今川と考えられます。若狭から来た禿髪氏の足利氏流で家紋は『丸に白二引』です。此処うきは市は倭(豊受大神=高躬結び神一族)の本貫中心地です。禿髪氏=八幡神=秦氏が、『倭』の兄貴分の『俀』として、合体した事が解ります。今川氏は此処から派生し、本州へ移動している。と考えています。

英彦山神社の神紋『二枚鷹羽丸内の二引』から想像されますのは、阿蘇氏及び高躬神の領地に今川氏=足利氏等が、流入したものと考えられます。高良玉垂宮神秘書の142条には、『彦権現は、異国人で、敵神なり』と述べて、『諸国彦権現をツオモイハラ?とした。高良の彦権現はモツハラの手先神で、17代の仁徳天皇9月13日にその山に帰った』と、記入されています。

 

※、大内氏は、スサノオ=崇神が、新羅から遣って来た時に連れてきた人達で、本貫地は、大分県杵築市大内と考えています。此処は、アマテル=饒速日命=ホアカリが、『北の局』通称は『大内宮』を置いた場所で、此処で『天穂日之命』と『宗像三女神タケコ・タキコ・タナコ』が生まれています。『宗像三女神』の『宗像』とは、宗像氏の『アヤコ』が『スサノオの三姉妹』を宇佐『アカルの宮』で育てた事で名付けられた。とホツマ伝は述べています。宗像氏の発祥は、大分市宗方でありましょう。後に福岡県宗像市→対馬(宗氏)に移動したと思われます。

 

杵築には、アマテルとスサノオが誓約をしたと考えられます八坂川と、真名井が、近くにあります。

亦、景行天皇に殺されたスサノオ=崇神の墓は杵築市の大熊山に造られました。

大内氏は後に周防へ移動します。大伴氏=大友氏とも縁があるものと、考えています。

 

わたくしが、久留米市篠山に住んでいました小学5~6年生の頃(昭和33年~34年頃)の記憶に残る、父(明治41年生まれ)が母(大正元年生まれ)に語っていた会話を思い出します。

話の内容は、或る会合で知り合いになった人物が、「自分は、明治天皇の御落胤である。」と謂うので、証拠を求めると、菊の紋の飾りが付いた短刀を後日こっそりと見せてくれた。相で有ります。

父は、『高柳』何某と、述べていたのを覚えています。

わたくしは、子供ながらに、天皇は東京に居られる方なのに、そのお子様が九州に居られる筈がない。有り得ない事であろう。と、長年思っておりましたが、

最近ネットで、大隈重信の築地私邸(築地梁山泊と揶揄された)に集っていた、伊藤博文の断っての希望で、娘であります『大隈熊子』(1863年=文久3年~1933年=昭和8年)が、皇居に召され、明治天皇の子を儲けたのではないか。と、近代史研究者に猜疑されているのに驚きました。

明治天皇の皇后は、一条美子ハルコ(昭憲皇太?后=二十歳迄京都ですごしています。)で有りますが、天皇は維新になると突然に京都から東京へ遷都し、天皇と一緒に過ごした事はなく、従って、一条美子との子は無く、明治天皇は、7人の側室を、生涯に持ったとされ、現在、宮内庁から発表されておりますのが、次の5人です。

権大納言 葉室長順の次女 『葉室光子』 男子を死産。本人も4日後に死亡。

大納言 橋本実麗の娘 『橋本夏子』 女子を死産。本人もその日に死亡。

権中納言 柳原光愛の次女 『柳原愛子ナルコ』 2男1女を儲けますが、男子一人のみ育ち、大正天皇に為ります。

右近衛権中将 園基祥の次女 『園祥子サチコ』 2男6女を儲けますが、4女のみ育ちます。(成人した昌子内親王は、竹田恒泰さんの曾祖母になります。) 

右近衛権少将 千種有任の長女 『千種任子コトコ』 2女を儲けますが、二人とも夭逝します。

 

以上が、明らかになっています明治天皇の側室5名が産んだとされる、5男10女(無事に育ったのは、男子1人女子4人)です。

しかし、二人の側室は伏せられており、内の一人が、『大隈熊子』であった。と、考えられる事になるのであります。

『大隈熊子』は、鍋島佐賀藩上士(砲術長)の家柄(家紋は、古来の天皇家との関係を詮索出来ます『剣花菱』です。皇室に繋がる家柄が良い家紋です。)1863年大隈重信と最初の妻である『美登』との間で、佐賀市で生まれています。

鍋島藩は、江戸時代に陶磁器を、長崎を通じての南蛮貿易で輸出し、財を成し、反射型熔鉱炉で銃・大砲を造り、維新活動家の援助に大きく関わっています。

 

明治4年、熊子8歳の時、祖母の杉本美井子と伴に上京。

1879年(明治12年)17歳の時に、岩手南部家の次男『英麿』(1856年~1910年=明治43年)と結婚をし、『英麿』は大隈家の養子になります。

明治35年(1902年)に『英麿』の保証人被りの理由で、『大隈熊子』と離縁・養子縁組の解除をしますが、二人の間には子が無かった。と謂われています。

『大隈熊子』は、長年書いていた日記の墨を水に浸して、1933年(昭和8年)69歳で亡くなります。

『大隈熊子』は、聡明な、教養と見識を身に着けた、謙虚な思慮深い他人に配慮のある、日本女性の鏡であると、一般に評されています。

男であれば、父である『大隈重信』を超えると、重信の腹心であった犬養毅(1855年=安政2年~1932年=昭和7年)は述べています。

『大隈重信』と2度目の妻で有ります『三枝綾子』には、実子は無く、養子を儲けています。

『大隈重信』の血流は途絶えていると思われていましたが、

もし、わたくしの父が出会った『高柳某氏』が、熊子が産んだ明治天皇の子であれば、『大隈重信』の血流が残って居る可能性があります。

高柳何某の行方を調査の必要を感じます。

三養基郡みやき町には、『高柳大塚古墳』が在ります。亦、佐賀市水ヶ江2丁目大隈重信生家近くの本庄町に『高柳』の小字名があり、『高柳公民館』も在ります。大隈家・杉本家との何かの関係を詮索されます。

 

近代史研究者の間では、明治天皇は、睦仁ではなくて、伊藤博文によってすり替えられた周防熊毛郡田布施町出身の『大室寅之助』である。『大室寅之助』には南朝の血は這入っていない。(研究発表者は故、加島曻氏です。)説が大半の研究者の賛同を得ています。

これが事実であれば、息長氏の血統は『孝明天皇』で絶えている事になります。

土佐藩出身で、第3代宮内大臣を11年間(最長)務め、昭和14年に95歳で亡くなった、『田中光顕ミツアキ』は、昭和4年三浦芳聖ヨシマサ氏(後醍醐天皇の正統南朝、後胤である。と主張した人)に、「もう、知っているのは、西園寺公と私だけ、実は、明治天皇は睦仁殿下には有らせません」と述べています。

皇統が幕末の動乱で絶えた事は、老いた『田中光顕』には、どうしても誰かに伝えて、死にたかった。と、思われます。

三浦芳聖氏には、「大室寅之助は南朝の末裔である。」と述べています。この件は、噓をついたものと考えられます。

歴史の真実は、長州藩が薩摩と同盟を結ぶ為に皆に「南朝の末裔である。」と、噓を謂ったものでしょう。

 

1909年、伊藤博文はハルピンで、朝鮮人の安重根にピストルで暗殺されます。

安重根は、取り調べに対して、15か条の殺害に至った経緯を申し述べますが、その14番目の理由は、次のように述べています。

「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知テオリマス。」

つまり、

「孝明天皇を伊藤博文が殺した。その事は、多くの韓国人は知っていますよ。」と述べています。

また、伊藤博文の死後、明治初期築地大隈邸に出入りしていた渋沢栄一によって、伊藤の幕末時に於ける暗殺者稼業が暴露されています。

 

多分、孝明天皇とその子、睦仁親王は、伊藤博文が殺したものと、思われます。そして、田布施(被差別地区)の大室寅之助が南朝の末裔として、仕立てられたのです。

理由は、人々に余り知られていない顔で有った。と、考えられます。元々、長州藩は、『南朝の末裔』を囲ってなんかいなかった。と、感じられます。御庭番(足軽)の伊藤博文が命じられ、困った挙句の果て探し出された人物が、大室寅之助であったものと思われます。

伊藤博文は、松下村塾で学び、頭がよく仕事が出来、信頼して任せられる職人として、長州藩に仕えますが、維新になると、築地大隈邸で、井上馨や渋沢栄一等のその後の日本の国家像を夢見、議論を戦わします。

以後、多くの傑物が去り、1885年(明治18年)初代内閣総理大臣を務めます。

大隈重信は、明治14年伊藤博文から政策をめぐって疎まれ下野し、立憲改進党を立党、東京専門学校(早稲田大学の前身)を明治15年設立。

明治20年、不平等条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣が辞意を表し、大隈を後任に指名し、明治21年大隈重信が外務大臣になります。

この時、大隈重信と、伊藤博文は再会接触し、旧交を混えたとされています。

その後、明治22年10月18日、国家主義者『来島恒喜』の手榴弾で、『大隈重信』は負傷して、右足を手術で切断します。

 

わたくしが、知りたい事は、二点、大隈熊子がいつの時期に皇居に召されて、明治天皇の子を産んだか、如何か、で有ります。産んだので有れば宮内庁は分かっているでしょうが、発表されないでしょう。

高柳何某を調べる他はないでしょう。

もう一点は、

何故、伊藤博文が、大隈熊子を皇居に召す事を大隈重信に頼んだか。であります。

一つの考え方は、明治天皇(大室寅之助)が、見初めて伊藤博文に頼んだ。明治天皇は、無類の女好きで有った。と、噂があります。

もう一つの考え方は、伊藤博文が花菱紋の家柄である大隈重信の娘を、如何しても皇居に入れ、息長氏の血を明治天皇に入れたかった為。

とも考える事ができます。佐賀県多久市納所地区は10軒の秋永氏(息長氏)が在り、全家が『花菱紋』です。

国民には知られずに、息長氏の血を天皇家に入れ、過去の過ち(天皇のすり替え)を正すのは、第3代宮内大臣『田中光顕』をはじめ、歴代の宮内大臣の悲願でありました。

昭和天皇の時代の戦後に、宮内庁長官初代の田島道治は、民間から登用され4年程任官(1949年~1953年)し、宇佐美毅(1953年~1978年任官)に譲ります。

宇佐美を登用推薦したのは、田島であります。

昭和天皇の第1皇子であります『明仁』殿下の配偶者を探すのに、『学習院』や『聖心女子大』に推薦者を求め、皇統を戻す事を第一に、チャンスを覗っていたものと思われます。そして、白羽の矢が立ったのが、『正田美智子』さん。であります。

軽井沢のテニスコートでの出会いは、作られた出会い。と考えられます。

正田美智子さんは、一般には、平民から皇室へ赴いた。と考えられていますが、わたくしの想像では、正当皇統である息長氏の血流を受けているお方と、思っております。

根拠は、御母堂様の正田富美子(1909年明治42年生まれ~1988年昭和63年没。78歳の生涯)です。

正田富美子さんは、正田英三郎(正田家は代々の群馬県の醤油屋で、現在の日清製粉に繋がっています。)に嫁ぐ前の姓は、佐賀県多久市出身の上海帰りの副島富美(父は副島綱雄 母は不詳とされ、隠されています。)とされています。

しかし、多久市で味噌家業を営む副島家によると、副島綱雄が上海に行った。と謂うのは、認めていますが、正田富美が副島富美であることに、口を閉ざしています。

副島家によると、正田美智子さまと、皇太子明仁殿下の婚約が発表される頃に、一人の男が副島家を訪れて、副島綱雄の戸籍を買い求めた由。驚いて断ると、男は其の儘立ち去った。との事。

そして、婚約発表のインタビューの席での、正田富美子さんのコメントが波紋を呼び、国民から、『平民が、皇室に対して失礼な言質を使った。とんでもない事である。』と、非難されます。

内容は、宮内庁からの(美智子さまを皇室へ迎えたい)使者へ、「そちら様の都合ばかりおっしゃっても、こちらにもこちらの都合もあります。と、こちらの思いも謂ったのです。」との趣旨だった。と記憶しています。

わたくしの想像では、

一連の人物は、前宮内庁長官であった田島道治の腹心の部下であった、東宮大夫の『鈴木菊男』(1906年明治36年~1997年平成9年)の行動であろう。と、思っています。

 

正田富美子さんの正体は、多久市納所にある。秋永氏集落出身の富美さん。ではなかろうか。と猜疑しています。

 

田島道治は、富美の血統(花菱紋)に大隈家(花菱紋)を重ね、皇統を戻そうとしたのでは、ないでしょうか。{宮内庁は、花菱紋が皇統に繋がる家柄である事を知っていた。と、考えられます。因みに、桐紋は、後醍醐天皇が、清和源氏(若狭地方に遣って来た禿髪氏は、倭=九州の多賀へ移動して、秦氏=幡氏→八幡神を豊前・豊後に持ち込み、多くの神社の祭神のすり替えを行いました。)の流れである足利尊氏に下賜したのが、始まりです。菊花紋は後鳥羽天皇が、スキタイ、シベリアツングース系族の『菊紋金貨』を採用しました。}

一連の工夫策で、浮上したのが、秋永氏地区の近くに在った味噌屋の副島家です。副島家は、佐賀では名門跡であり、正田家とは、麹菌で繋げる事が出来、副島綱雄と謂う人物が上海へ渡っており、帰国子女と謂う事で、都合がよい。しかし、母親の名を出すと、噓がばれてしまうので、名前を伏せざるを得ない。との訳で名前の公表を伏せます。

正田家は、300年前まで遡りの調査を進めますが、副島綱雄の妻は隠され、マスコミが指摘しますと、宮内庁長官の宇佐美は『ちゃんと調査をすべきで有った。』と、反省の弁を述べて、事を収めています。

正田富美子は、亡くなる3年前の1985年(昭和60年)3月4日、雑誌編集者の沢田 浩氏のインタビューに、次のように答えています。

 

『婚約から成婚への過程で受けてきた‘’ひどいこと‘’とは、どんな出来事があったのでしょうか。』の質問に対して、

 

「それはお話ししたくありません。ごめんなさい。その当時の日記だって、もう読み返したくないんです。」

「今もちゃんと残してありますよ。あの頃のものもね。」

「そんな話しをどこからかお聞きになって、私の体験したことを本にしないかと謂う依頼は何回もありました。」

「でも、それはごめんだわ。あんなにつらい思いは、絶対に人様に知っていただきたくありません。」

「でも、もし、私が当時の事をありのままに書き記したり、また明かしたりしたら、そこに出てくる人たちは、皆、こうおっしゃるでしょうね。‘’正田のばあさんは、気が狂った‘’とね。・・・」

「もちろん一番ご迷惑がかかるのは、皇太子殿下で、妃殿下でいらっしゃいます。だから、これまでのことは、わたしが静かに胸の中にしまっておけばいいことです。美智子も親の子ですから、そういう私の気持ちは知っていると思います。」

 

 

「いろいろなことで苦しみました。」

「もし、わたしが日記を公表すれば、少なくとも100人以上の方にご迷惑がかかると思います。そのうち50人以上の方が、すでにお亡くなりになりました。でも健在の方は、きっとお困りになるでしょう。

 

わたくしは、

以上の内容から、正田富美子の娘美智子への幸せを願う想い。と、かけ離れた当時の宮内庁関係者の熱心な正田家への説得が、多くの人を入れ替えて奔走し行われて、難航していたものと思われます。

 

関係者の一人であります、東宮大夫の鈴木菊男氏は、田島道治や宇佐美毅に仕えて、誠実な真面目な信頼できる性格の良い持ち主で有ったものと思われます。

 

説得関係者の誰かが、タブーであります、明治維新で行われた皇統が絶えた事を述べ、正統皇統の血である富美子さんの血を受け継ぐ、美智子さんを、皇室に入れて皇統を正しくする事に協力を仰いだ。のかも知れません。

その言葉を聞いた富美子は自分が正統皇統である事に驚き、あの、‘’正田のばあさんは、気が狂った‘’の言葉が出たのでしょう。

 

わたくしの、考えています事が本当であれば、今上天皇(徳仁)は息長氏の皇統を有しており、長年の宮内大臣から宮内庁長官、そして、その関係者の夢はかなっている。ものと、思っています。

 

田島道治前長官・宇佐美毅長官・小泉信三参与・鈴木菊男大夫・黒木従達侍従長・瓜生順良次長等の職員の活躍に敬意を表したいと思います。

 

尚、テレビで活躍の『竹田恒泰』さんは、古代、豊後ゆふいんから若狭に移動した『建田背』タケダセに繋がる阿蘇氏であります。

 

(若狭湾には、『阿蘇海』が在ります。 

亦、『竹田城』があります兵庫県朝来郡和田山には、勅使門を持った神社但馬國一の宮『粟鹿神社』・『赤淵神社』があり、『宇佐神宮』・『薦神社』の勅使門と繋がっており、別府の『豊岡』が但馬タジマ→タンバの『豊岡』に名前が移動しています。 

 

タジマ・タンバの発祥地は豊受大神の本拠地であります、大分県日田市『田島』=大原八幡宮の在る地=ダンワラ日高遺跡の傍です。 

相でした。兵庫県但馬には『日高』郡があり日田市『日高』の名前も移動しています。 

 

ゆふいんに居た『アマテル=火明かり=饒速日』と、随行の一行は、一旦は、若狭但馬~播磨地方へ『天降り』しましたが、その後に倭ゐ=九州の多賀=田川へ、鉄族の武器を持った拓跋氏=物部氏=秦・漢人を引き連れ戻ってきたものと、考えられます。

 

『アマテル=火明かり=饒速日』の右の羽でありました天児屋根=景行天皇=猿田彦=長髄彦は、即位2年、『播磨稲日大郎女』皇女を娶って大碓皇子・小碓皇子を儲けています。

即位4年、大分県日田の『美濃』に行幸して、八坂入媛を娶って稚足彦=成務天皇を儲けています。日田・朝倉の『鵜飼い』の風習が岐阜美濃の『鵜飼い』に繋がります。日田の『祇園祭』は有名です。

 

筑豊を主とする北部九州遺跡には、鉄鏃の出土が多くあります。 

 

『丹波』タンバの源元は大分県日田~ゆふいん地方である。と主張しています。わたくしの考えを補完する。ものであります。)

 

息長氏と表裏一体の長い歴史があり、アマテル=火明かり=饒速日、由来の銘門跡です。

わたくしの妻の、母の実家は武田氏(元、福岡市長の『進藤一馬』氏の時に、助役を弟の『武田隆輔』が務めています。)です。

ブログのきっかけをつくった雲神社の『秋永勝彦』氏の家系図にも若狭の武田氏と行動を共にして、豊後に遣って着ており、武田(竹田)と息長(秋永)は皇統です。

つまり、『竹田恒泰』さんは明治天皇に関係なくても、古くからの皇統です。

おまけに、父親の『恆和』さんの顔は『秋永勝彦』さん等の顔とそっくり似ています。

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする