さて本日は、
我が息長氏(秋永氏)の先祖第26代継体天皇とその子であります第27代安閑天皇が九州(倭)で存在を考えられる。と謂うことが『内倉武久』さまによって発表されましたので紹介を致します。
『内倉武久』さまのブログ(うっちゃん先生の「古代史は面白いで」)
013「継体天皇」の御陵は福岡にあった。
014「継体天皇」の御陵は福岡にあった②。
015「安閑天皇の都」も北部九州にあった。
の3部を拝読しました。
013~014「継体天皇」の御陵は福岡にあった。の内容は
まず、記・紀に記す『磐井』と『継体天皇』の争いは北部九州倭での出来事であろう。と考えられ、「継体天皇」の埋葬地であります『三嶋の藍』の地名を従来の定説である大阪府高槻市安威(あい)の『今城塚古墳』に疑問をもたれます。
内部に納められた石棺のうち一つが九州の阿蘇溶結凝灰岩製で、九州からはるばる運ばれた石棺であることや、付近の古墳から出土している短甲などが南九州の地下式横穴墓の出土品と酷似していること、そして埴輪に九州の熊曾於(熊襲・隼人)族が持っていた相撲の風習を思わせる力士像があることから、こ の古墳群は熊曾於族、というか、九州から派遣された九州政権の官人の墓ではないかと疑問を呈しておられます。
つぎに、朝鮮の史書『東海諸国記』には「継体天皇」は16年壬寅みずのえとら(522年)に、初めて九州年号を建元した天皇である。と記録されている事を述べられ、「二中歴」も継体天皇から始まっている事を指摘されます。
{重要なのは、継体天皇は「九州 政権の年号を創始した天皇であろう」ということだ。ということは「継体天皇は九州の王であろう」と考えざるを得ないのである。}
{「継体天皇」は九州政権の王位をめぐる権力闘争の勝者だったと考えられるのだ。諡(いなみ=贈り名)はその戦いに勝ち、政権を簒奪して「跡を継いだ」から「継体天皇」とされたのだろう。}
{さらに『書紀』と『記』では天皇の名前が違う。『書紀』では「男大迹(おほど)」だが、『記』では「袁本杼(えんほんじょ?)で、とても「おほど」とは読めない。別人と考えるほかない」
と、「継体天皇は九州の王であろう」を元に「九州の継体天皇の本拠地」を考察されます。
和名類聚抄(和名抄)から「三嶋」の地名を見つけられます。場所は朝倉市上座郡です。
「藍」の場所についてはブログ本文より転写します。
「明治十五 年全国小字調べ」の福岡県分にあたってみた。するとなんとそこにはちゃんと大字「宮野」「大福」に小字「ミシマ」「三島ノ下」や「會(会=あい)」も記録されていた。「會」は「あひ」とルビ付きで二か所ある。「合の坂」もあった(『福岡県史資料』第七集)。ここが『古事記』にいう「三島の藍」である可能性 も高い。国名の「筑紫」がカットされていた可能性が考えられた。
旧朝倉町は筑後川中流域の北側に広がる街で、『書紀』には斉明〝天皇〟が白村江の戦い(六六二年)に参加するために中大兄皇子と滞在した「朝倉の宮」の所在地であると書く。
以上のように『三嶋の藍』の地名は筑前朝倉の地で認めることが出来る事を発見され、御陵に相応しい古墳として、直径80m程の国内最大級の円墳「長田大塚古墳」を比定地に考えられて居られます。
015「安閑天皇の都」も北部九州にあった。では、「継体天皇」の本拠地と御陵が朝倉に在ったのであれば、第27代安閑天皇の御所が気に為ります。内倉氏は次のように述べておられます。
『記紀』による と、「安閑」の都の名は「勾金の橋(箸)の宮」という。「『記紀』に記す天皇はすべて大和にいた」と勘違いしている国史学者らは「まがりのかなはしの宮」と読んで、奈良県橿原市曲川(まがりかわ)がその遺称地だと主張している。岩波書店の権威ある史料として名高い日本古典文学大系『日本書紀』や『古事記』もそう解説している。
しかし、都の名は「勾金(まがりかね、あるいは、まがりのかなはし)」であって決して「曲川」ではない。奈良県立橿原考古学研究所がこの周辺を発掘調査したが、それらしい遺構はまったく発見できなかった。当然の結果であろう。
宮内庁は安閑天皇の御陵を大阪府羽曳野市古市にある前方後円墳であるとする。しかし、ここには「安閑天皇」と古墳を結び付ける伝説など全くない。平安時代に作られた「延喜・諸陵式」の記載に基づいた指定である。「安閑」は大和にはいなかったのだからこれまた当然だ。
と謂う事で「安閑天皇」の都を朝倉の山向こうの田川(鷹羽)郡香春町勾金の事であろう。と次のように述べられます。
田川郡香春(かわら)町に「勾金(まがりかね)」の地名が残っている。『書紀』によれば、田川郡一帯は古くは「高羽」とか「鷹羽」という誇らしく雄大 な名の場所で、「豊(前)の国」に属する。熊曾於族の夏礎(なつそ)姫が君臨していたといい、「夏吉」という地名も残っている。
香春町一帯は銅な どの鉱物や石灰の一大産地として知られる。この地域のシンボル的山は香春岳である。郡内のあちこちから眺められる。三つの山塊が南北に並び、現在は上質紙の製造やセメントに使う石灰の産地である。一の岳(たけ)は山の頂上付近から順に採掘が進み、山塊は半分ほどに削られて今は見る影もない。「採銅所」の地 名もある。古来、宇佐八幡に奉納される鏡もここで造られてきた。
香春町の隣は田川市、大任(おおとう)町、赤村、川崎町で、北側は北九州市小倉南区である。大任、川崎町一帯は往古「桑原」と呼ばれた地域である。「安閑」がいた場所を探すには、『書紀』に記録された「屯倉」の所在地を探れば手っ取り早い。
それによると「安閑」は、この勾金のすぐ南側に「桑原の屯倉(みやけ)」を設置、赤村にも「我鹿(あか)の屯倉」、大任村に「喜原の屯倉」(『太宰府管内志』)を置いた。
さらに周辺の「穂波」「嘉麻」「滕崎(しつさき?)」「肝等(かとの?)」「大抜(貫)」にも置いたという。「大抜(貫)」は京都郡苅田町境いの小倉南区にある。
「みやけ」は「官家」とも書く。これは天皇家の直轄地とされる。「屯倉」は軍事的な施設で米などの食料や武器の貯蔵施設である。
「安閑」はこのほか「火の国」「播磨」「紀国」「尾張国」「駿河国」などにそれぞれ一、二か所屯倉を置いたという。が、なぜ田川郡とその周辺に屯倉が集中して置かれたのか。
それは「安閑天皇」の都がここにあったからである、と考えざるを得ない。
本拠地周辺に軍事的な防衛施設を設けたり、緊急用の備蓄米などを置くのは古今の常識だ。大和にあったという都を守るのに、とんでもない遠地の九州に備蓄物資を置いてどうするのか。
ただ『書紀』には奈良や大阪の小墾田(おはりだ)、桜井、茅渟(ちぬ)山にも屯倉を設けたと記される。国史学者らはこれら三か所の屯倉は、「大和政権の安閑」が身近に置いたものだろうと考えている。
「小墾田の屯倉」 についてはよくわからないが、「桜井の屯倉」が奈良の桜井市のどこかに置かれたとすると、話は違ってくる。この周辺の古墳からは九州製の石棺が数多く発見されている。たとえば慶雲寺古墳、ミクロ谷古墳、兜塚古墳などがそうだ。発掘調査が進めばもっと増えるだろう。しかも、当地には朝倉、三輪、海石榴市(つ ばきいち)など北部九州と同じ地名がたくさんある。要するにここにいたのは九州政権の人々であり、関西における拠点の一つであったと考えてよさそうな地域なのだ。
「茅渟山の屯倉」が置かれたのが大阪府和泉市周辺であるとすると、ここにいたのは紀氏と大伴氏、熊曾於族の内氏らであったらしい(『書紀』雄略紀・紀小弓の項など)。両方とも九州政権の中枢部にいた氏族である。
要するに「大和政権」とは関係のない「屯倉」であると断ぜざるを得ないのである。あるいは同じ地名がある九州内に置かれた「屯倉」かもしれない。国名を記していないからだ。
『書紀』は同じ地名が各地にあるのを利用して、たくみに古来から列島の中心は大和・畿内にあったかのように記載している。わざと国名を記さず、国史学者らが北部九州の地名を奈良や大阪の地名であると勘違いするように仕向けている。歴代の国史学者らの「思い込み」による対応は実にずさんきわまりないといえよう。
と、従来の国史学者らの「思い込み」を糾弾され、正しい歴史を解明する為には洞察力が求められるようです。続いて、
「勾金」では整備された官庁街の遺構も発見されている。遠賀川水系金辺(きべ)川の支流のひとつ「御祓川(みはらいがわ)」の東側で発見された。浦松遺跡(写真 矢印。後方は香春岳一ノ岳。福岡県教委発掘調査報告書から)である。方向をそろえた大型建物の跡が少なくとも八棟分発見されている。貴人が住まったり、大極殿にも使われた庇(ひさし)付の建物跡もある。
出土した土器から、奈良時代の遺跡、とされている。しかし奈良時代にこのあたりに「官庁街」が建設されたというデータはなにもないし、その必然性もない。九州の土器は近畿の同じ形の土器より百五十年ないし三百年ほど古いことが放射性炭素(C14)の年代判定でわかっている(「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房、ある いはインターネットブログ「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」NO・5「九州の土器は古い」参照)。九州歴史資料館など九州の考古学研究者のなかにはこのことにことさら目をそらし、相変わらず土器による年代判定のみにこだわり、結果的に日々いかがわしい古代史像づくりに励んでいる人が多い。もちろんこ こ浦松遺跡でも理化学的な年代測定はいっさいされていない。
現在採用されている「土器による年代判定」は、古来九州は辺地であり近畿より文化度が低かった、という思い込みによる「年代判定」である。とんでもないことだ。放射性炭素の年代測定は全世界の物理化学界、考古学界が支持しているもっとも確実な年代測定法である。浦松遺跡は安閑の都の一部である可能性が高い。周辺の地下からは時折「巨木」が発見される。都への導水施設か建物の用材、あるいは何らかの防御施設の跡であろうと思われる。柱の残痕や木材を放射性炭素によって年代測定をすればすぐに時代が判明しよう。
大任町にある桑原神社の祭神のトップは「安閑天皇」だという。昭和三十一年、榊原宮司の覚え書きにはっきりと記載されている。安閑と神社を結び付ける伝説が今は伝えられているかどうかわからない。しかし、安閑がこのあたりに都を置き、かつ「桑原の屯倉」も置いていたという 『書紀』の記述からすれば、神社は安閑と深い関係にあったことが偲ばれる。
『書紀』によると 安閑は、三十五歳前後で若死にし、在位年数も二年ほどしかなかったらしい(注1)。九州から関東、東北までの支配権を「筑紫の君・磐井(いわい)」から奪った偉大な父親「継体」の跡を継いだものの、自らの勢力を構築する間もなく、この世を去ったらしい。継体が死ぬ直前に譲位されたとも書く。対外的な業績 はほとんどなかったようだ。
父親の「継体」の後ろ盾は熊曾於族の「三島の宿祢(すくね)」で、「継体」自身も熊曾於族ではなかったかと推察した(同ブログ)。『書紀』安閑紀にそれを裏付ける記述があった。国々に「犬養部(いぬかいべ)を置く」ように命令したという。なぜ「犬を養育する施設」を国ごとに置くよう命令したのか。おそらく熊曾於族がもっていた「犬祖伝説」を具体化し、犬を尊重する施策であろうと考えられる。ただ単に「犬好きの天皇」という理解では考えられない施策である。息子が熊曾於族なら、父親も当然熊曾於族であろう。
また、「安閑」の后(きさき)は春日山田皇女(はるひのやまだのひめみこ)という。国史学者らは「春日」を「かすが」と読んで、安閑が大和の奈良の春日と関係があるかのごとく考えている。
だが地図で見る通 り、勾金の西南、田川市に「春日町」「春日橋」「春日神社」、嘉麻(かま)市に「山田」の地名が残る。「山田」は朝倉郡や京都郡などにもあり、かなり広い地域をそう呼んでいたと思われる。「春日」の西南には「口春(くちはる)」という地名もある。「春日」への入り口、という意味である。であるから、ここの 「春日」は「はるひ」と読むべきではなかろうか。
『記紀』によればお后(きさき)は又の名を「山田の赤見の皇女」というという。「勾金」の南側、「赤村」との関係もありそうだ。ここには現在も「我鹿(あか)神社」が鎮座し、「我鹿の屯倉」が置かれたところでもある。
「春日」の東側一帯は古来「奈良(なら)」と呼ばれていた。「勾金」の東側も古来「大坂」と呼ばれ、「大坂山」(飯岳山)がある。その東側は「京都(みやこ)」と呼ばれる。
関西の地名の多くは九州からもたらされたものであろう。中国、朝鮮に近く、権力の発生地でもあった九州から人々の移動にともなって、地名も関西、関東、東北へと広がっていったのである。この地域一帯に住んでいた人々が関西に進出し、そこに故郷の名前をつけたと考えられる。
后は三代前の「仁賢天皇」の娘であるという。事実であるとすれば当然、「仁賢天皇」もこの近くにいたことになろう。
田川、京都(みやこ)郡地域、「豊の国」は中国の史書に言う「倭国」の中心地のひとつであった可能性が高い。
と、締めくくられています。
わたくしは、継体天皇(袁本抒命)は越前福井に棲んでいたものと考えていましたので、衝撃を受け再考をしましたが、如何も内倉氏の考察は間違い無いものと思えます。
『三嶋の藍』が朝倉上座郡三嶋にあり、継体が朝倉に居たのであれば、烏集院や宮野の地名や第37代斎明天皇(第34代舒明天皇=息長足日広額天皇の皇后)が行宮を置いたとされ、田主丸(和邇氏の本貫地)には秋永氏が(息長氏)が現在も存在しており腑に落ちます。
亦、『安閑天皇』が香春町勾金の周辺(浦松遺跡が大いに考えられます。)にいたのであれば、此処は天之御影神と息長水依比賣命=辛国息長大姫大目命の居た息長氏(秋永氏)の本貫地であり、当然の事と思えます。
東峰村は福井村と合併しており、『日本書紀』の『期年』の記述は藤原氏の捏造があったと考えられ、当てにはなりません。わたくしは、『期年』に付いては『古事記』を信じて考えるように勉めています。
元興寺伽藍縁起并流記資財帳には
大倭国(やまとのくに)の仏法は、斯帰嶋宮(しきしまのみや)にて天下を治めた天国案春岐広庭天皇『欽明天皇』の世、蘇我大臣稲目宿禰が仕えていた時、天皇在位七年戊午(538年)十二月に伝わった。とされ、逆算をしますと『欽明天皇』の即位は531年になり、斯帰嶋宮は久留米市大善寺玉垂宮田主丸町唐島の解釈になります。『欽明天皇』の和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらのみこと)となっており、此れは朝倉の広庭宮で産まれたと考える事が出来ます。何故なら、第37代斎明天皇(第34代舒明天皇=息長足日広額天皇の皇后)が行宮を置いた場所が『朝倉広庭宮』と呼ばれ、此処朝倉三嶋には父であります継体(袁本抒=息長氏=秋永氏)が居た場所であると考えれば、道理が適います。
継体が没した年が百済本記を参考にして日本書紀では『辛亥かのとい』(531年)に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御したとされていますが、日本書紀の記述は信頼が出来ません。527年説もあり、はっきりしていません。
『古事記』には『丁未ひのとひつじ』(527年)と記され、此の年は『磐井の乱』が起こった年であります。百済本記では『日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨』とあり、此れは天皇と皇太子と皇子が次々に亡くなった。と解釈されます。
天皇は継体に相当し527年に崩御、皇太子は香春の勾宮に居た『安閑』で、皇子は大分葛木高田に居た『宣化』と想われ、此れは継体家に対する遺恨が暗殺(叛乱)として現れたものと考えられます。
《その後の考察による追補》
『宣化天皇』が居たのは『檜之隈宮』とされ、大分葛木高田では無く、佐賀県神崎市の『日隈』地区であった。と考えられます。神崎市教育委員会に訊ねますと、この地区には6世紀頃の100個以上の古墳が未掘で存在しており、今後調査の必要を感じている由、でありました。
佐賀県立博物館入口ロビーに置いてあります4世紀頃の石棺は日隈地区横の久保和泉に在ります熊本山から出土しています。此の久保和泉から日隈地区に掛けては大集落が在ったと考えられ、『丸』の名前が付く和邇氏の里であった。とも考えられます。今後の調査が待たれます。
欽明が531年に久留米市大善寺玉垂宮田主丸町唐島(斯帰=久留米城島シキ・嶋シマ=唐島宮)で磐井の後を継いで天下が治まった。ものと考えられます。
『金刺宮』とは、『唐島柴刈地区』の北を流れる筑後川の向こう岸、久留米市北野町『金島』を指しています。『神功皇后』が、『品陀和気命』を産んだ『筑後国御井郡賀駄郷』の傍です。
『宇美八幡宮』については、『敏達』(=新羅の法興王=元は豊後から派遣された王と、考えられる。)3年に、
一緒に遣って来た新羅系渡来人が、『崇神天皇=スサノオ=天日鉾』と、一緒に遣って来た筑後に散逸した以前からの新羅系渡来人(=元は熊本県玉名の『白氏』=九黎族が『新羅』を造ったものと考えられます。)と共に、勝手に応神=品陀和気命を祀って終い、混乱が起こっています。
(『宇美八幡宮』は、『崇神』が久留米市荒木(城島シキ)の『静ちゃん』に孕ませて産ませた場所。と百嶋由一郎氏は述べられています。)
奈良県の磯城郡金刺宮跡地は、奈良へ渡った新羅系渡来人達が、勝手に作った全くの出鱈目。と考えられます。
『唐島』には、『蘇我稲目』=新羅法興王と『馬子』が豊後から遣って来ています。『馬子』は、『押坂彦人大兄皇子』と同一人物と考えられます。
『唐島』には、雄略天皇(大泊瀬幼武尊=朝倉山田を意味している。此処朝倉山田には、『推古天皇』と、息子の『竹田皇子』の墓が考えられます。亦、第2代『天照大神=瀬織津姫』の墳墓も在ると考えられます。)
・清寧天皇(白髪大倭根子命)・顕宗天皇(袁祁王・来目稚子=久留米を意味している。)
・仁賢天皇(大石尊=筑後大石の高躬神を意味している。・嶋郎=唐島を意味している。)
・武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊=泊瀬列城宮に居た。とされています。『唐島片の瀬』の北に筑後川の瀬が在り、地域の名が『大堰』『江戸=穢土』と呼ばれています。)
継体の出自については、わたくしは、彦主人王ひこうしのおう(汙斯王)=継体の父は従来通りの説近畿近江高島市に居たものと解釈をします。
日本書紀の記述を信じますと、継体は福井県坂井市で育ち上がったものと考えられ、其処に九州から大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが近畿に遣って来た。と謂う解釈になります。
ですから、20年もの間、倭(やまと)=九州に這入れなかった理由が腑に落ちるのです。
倭が近畿纏向に在って、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが福井県に迎えに行ったのであれば距離的・時間的にも可笑しな論理になり、研究者を納得させる事が出来ません。
倭(やまと)は九州に在ったと考えざるを得ません。
と謂うことで、内倉武久さまの『継体は福岡に居た。』の考えは、間違いなく正しい解釈と思われ、古代史研究の大きな重要な発見であり、今後の研究に大きな成果を齎すと考えられます。
『やまと』の名称は福岡県山門郡(大善寺玉垂宮を含む)と、香春町~勝山黒田に並列状態で存在していたもの。と考えており、その後倭の大乱第2幕(神武=崇神東征)が起こり、日子坐王(=景行天皇=孝霊天皇)が大和の名称を近畿纏向に持ち込み(謂わば出張所)、懿徳・孝元・日子坐・安閑等々の居た香春のヤマトは藤原氏によって消され、人々から忘れられて、近畿の『大和』と福岡県の山門郡の『山門』が現在に残っているものと考えられます。『邪馬台』は『ヤマト』と発音する。ものと考えられます。
大分県ゆふいん温泉在住 秋永 祥治