「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

妻垣神社の『磐座』に『多祁理比賣命』の御霊魂が居られる。と考えられる。

2014-03-22 | 古代史

8世紀来、宇佐神宮に関係深い境外摂社八ヵ社を、四年もしくは六年毎に、宇佐神宮の神輿を担いで巡行する『宇佐神宮行幸会』があり、次のような八社を、順に廻って最後に宇佐神宮に行き着くのでありますが、

1日目、田笛神社 豊後高田市界→ 鷹居神社 宇佐市東上田→ 郡瀬神社 宇佐市樋田 
2日目、泉神社 宇佐市辛島泉→乙神社 宇佐市下乙女→大根川神社 宇佐市佐野
3日目、4日目、妻垣神社 宇佐市安心院町妻垣大門
5日目、小山田神社 宇佐市北宇佐→宇佐神宮

其の後、『宇佐神宮』から4日掛けて国東半島の『奈多八幡宮』市杵島まで行幸します。

注目なのは、「妻垣神社」だけが、2泊され、内陸の山の中であります。他の七摂社はすべて海岸に近い行幸に適した場所であり、『妻垣神社』だけが特別の意味を持った摂社であることが判ります。

この「妻垣神社」こそ、古事記・日本書紀にも記されています『足一騰宮(あしひとつあがりのみや)』で、「莵狭津彦」や「莵狭津比賣命」が「神武天皇」を歓待した場所とされています。

「妻垣神社」の創建は、765年石川朝臣豊成が、共鑰山(ともかきやま)の麓に比咩大神を祭神として社を造営し、一緒に八幡神も祀った由。後に神功皇后も祀った。とされ、共鑰山(ともかきやま)の頂上近くの磐座(いわくら)が比咩大神の本体と考えられます。此処に比咩大神の御霊魂が居られる事になります。

『比咩大神』については、「妻垣神社」の解釈では神武天皇が御出でになった事から、その母君である「玉依比賣命」ではなかろうか。としていますが、研究者の間では疑念が持たれています。

この『比咩大神』に関しては、以前のブログにて、わたくしも「妻垣神社」の解釈に賛同して、「玉依比賣命」である。としましたが、『大己貴命』と『多祁理比賣命』の人生を考察した結果、前回のブログで述べました様に、『多祁理比賣命』が安心院に帰って来ている。と考えられ、多祁理比賣命の暮らした場所を探しに行く事にしました。

 

安心院には『多祁理比賣命』の痕跡を疑われます場所が二箇所在ります。一箇所は宇佐神宮の元宮とされています『妻垣神社』であります。もう一箇所は『三女神社』です。このどちらかであろうと考えられます。

 

2014年3月18日(火)午後3時に由布院を出発、塚原(高天原)~天間~安心院の『三女神社』から覗いました。県道42号線安心院温泉の傍に流れています津房川の横の崖に沿って造営されており、最初に在ります鳥居には『ニ女神社』の額が掲げられています。

この『二女』の解釈は、日本書紀の本文では沖津宮が田心姫、中津宮が湍津姫(たぎつひめ)、辺津宮が市杵嶋姫(いちきしまひめ)、と述べていますが、第一の一書・第二の一書・第三の一書では解釈が区々(まちまち)異なっており、はっきりとは伝承をしておらず、瀛津嶋姫(おきつしまひめ)は市杵嶋姫(いちきしまひめ)の事とされ、この沖津嶋(おきつしま)は田心姫(多祁理比賣命)の事であり、仮に、瀛津嶋と沖津嶋を同一に解釈したとすれば、市杵嶋姫と田心姫(多祁理比賣命)は同体と解釈し、『二女』になったとも想われます。

 

『宇佐神宮行幸会』にて最後に訪れます杵築の『奈多八幡宮』は海の中に浮かぶ小島に瀛津嶋姫(おきつしまひめ)=市杵嶋姫(いちきしまひめ)が顕現され、上陸された。とされて、このお方が『比咩大神』 とされていますが、

本当は『田心姫(多祁理比賣命)』が上陸したものと考えられます。当時は田心姫(多祁理比賣命)を隠さないと活けない社会情勢であったので、辛島氏は八幡神と抱き合わせして『比咩大神』と曖昧にする事で時の政権からの目を逃れたものと考えられます。

 

『二女神社』の社殿は、津房川と並行に崖を300M程登った場所に南向きに造営されており、数キロ先の正面には竜王山(スサノオ)があり、之に向かって居ます様にも見えますが、本当はその先に微かに視えます鶴見山~由布岳、即ち高天原に向かっています。社殿にはオーラは無く、社殿に向かって右横には、何処からか移動して持ってきたと思しき石群があります。三柱石は男根とも考えられ、田心姫(多祁理比賣命)が此処で半生を過ごした様には思えません。

 

次に、竜王山の東となりに在ります共鑰山(ともかきやま)の麓の『妻垣神社』に行きました。安心院盆地からは50m程登った地に位置しており、社殿からは強いオーラが感じられました。大善寺玉垂宮を見た時と同じ霊感が有ります。社殿は『三女神社』と同じく、高天原に向いております

境内で、大分にお住まいで、祀りの準備に来ておられた禰宜の「妻垣常彦」さまに偶然お会いしました。

道を挟んだ共鑰山(ともかきやま)側の草薮は遺跡である由。

多分「比咩大神」を守っておられた方々の住居跡か、墳墓とも想われます。

共鑰山にある磐座玉垣「上宮」、社殿を「下宮」と称し、行幸会の二日目は「上宮」にて儀礼を執り行った由。

「社殿」は戦国時代「大友氏」に焼かれて其の後の造営で、古書籍は何も無い由。

 

わたくしの考えを述べました処、氏も『神武天皇』が此処に御出でになられた目的に疑念を持っておられ、共鑰山の『比咩大神』『多祁理比賣命』であるならば腑に落ち無くも無い。との言。

 

共鑰山の『磐座』に参拝し、物凄いパワーを受け、わたくしには、此処が『多祁理比賣命』が後半生を過ごされた場所である。と確信を持ちました。

 

共鑰山の『磐座』に『多祁理比賣命』の御霊魂が在るもの思われます。

 

辛島氏は、共鑰山にて『多祁理比賣命』の御霊魂を守って居た「莵狭津彦」の末裔である「宇佐氏」を説得して、『比咩大神』を安心院から宇佐へ持ち出したものと考えられます。

「宇佐氏」は、後に宇佐神宮の『宮司』を辛島氏から奪う事になりますのが腑に落ちます。

 

 《その後の考察による補追》

玉依比咩とは崇神天皇の母の事であり、神武天皇が共鑰山の『足一騰宮』へ来て歓待を受けた。と記・紀が謂うのは、『神武』の名を騙った『崇神』が歓待を受けた事を意味しており、

豊玉比賣命は市祁島比賣命=息長水依比賣命=天鈿女=猿女の事であり、伊可古夜比賣命は玉依比咩の母です。伊可古夜比賣命の夫が、八咫烏=賀茂建角身命で、豊玉姫の弟に為ります。

京都の上賀茂神社で祀られます『賀茂別雷命』とは、『崇神』を意味しており、『崇神』(神武=彦穂穂出見尊を名乗った人=実父が日高彦彦穂穂出見尊で孝元天皇です。)の母が玉依姫で有る事が理解できます。

 

 

 

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多祁理比賣命に涙する。

2014-03-15 | 古代史

最近、多祁理比賣命の人生を考えています。

このお方は、須佐之男命と天照大神の間に高天原(木綿の院)で生れて、須佐之男命の追放の後、由布院(高天原)より天降りを余儀無くされ、安心院~宇佐より宗像(刺国)の上八(八上)へと渡り、成長を遂げた後、甘木にて、(豊国を治めていたと考えられます少日子名命)と一緒に、筑紫治めて居た大己貴命と結婚をします。

阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命を儲けて幸せな人生を送って居ましたが、須佐之男命の取り巻き新羅人の叛乱にて、高御産巣日神(朝倉)・和邇氏(田主丸)より、『大己貴命』が『大物主』に選ばれ、須佐之男命派新羅人と戦います。この須佐之男命(崇神)派の叛乱にて大戦乱が起きたものと考えられます。

{高良山から飛んできた石礫(いしつぶて)が基山の荒穂神社(五十猛命)にあり、高良神社(高木神)の床下には基山から飛んだ石礫(いしつぶて)がある由。と荒穂神社の由緒に記入されています。}

 

次第に戦況が悪くなり、高天原(木綿の院)の戦いの敗北を経て杵築の大屋毘古命を頼った後、船で四国伊予へ逃げます。

大己貴命一行は途中で日出町大神に在ります愛宕神社(高倉下)にて復権祈願を行い、須佐之男命の『ムラ雲の剣』を奉納したものと考えられます。(この『ムラ雲の剣』は其の後、垂仁天皇の子である若木入日子(神武天皇)が杵築熊野にて病に臥せった時、再び登場します。)

 

大勢の大己貴命一行は、多祁理比賣命の父である須佐之男命を頼って出雲に渡りますが、夫である大己貴命は、須佐之男命と櫛名田比賣命との間に出来た嫉妬心の強い須勢理比賣命を娶って、地位の安泰と出雲に根付く事を図り、多祁理比賣命の元に来なくなったものと考えられ、失望した多祁理比賣命は阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)と下照比賣命を出雲に置いて倭(九州)へ帰った。と、記されています。

 

倭(九州)には大己貴命多祁理比賣命への同情者が多く、天之穂日命・天若日子命が高木神の「國譲りの交渉の使者」として出雲に遣わされますが、前者は三年・後者は八年経っても仕事をしていません。

 

多祁理比賣命の生涯はこの様な激動の人生で有ったものと観えて来ます。

 

その後の多祁理比賣命は、一生を、故郷である『宇佐安心院』にて閉じたものと考えられます。

出雲大社の本殿の『大己貴命』は、西向きに坐しておられ、『大己貴命』の北部九州(倭)への思い入れが心に痛みます。

『大己貴命』は、その後は出雲から青森 ツガルへ移動したと、ホツマ伝で述べられています。

 

後に、その『多祁理比賣命』の心情を察して五十猛命の末裔の辛島氏が「宇佐神宮にて『比賣大神』として祀ったものと感じられます。  合掌。

 

そういえば、二拝四拍手一礼の参拝の方法は、宇佐神宮出雲大社も同じだったですね。此れも関係が有りそうです。

 

 

 

 

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