「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

聖徳太子の墓所は南大分の『千代丸古墳』と思われます。

2018-12-04 | 古代史

朝倉の志波政所に在ります、真言宗普門院は天平19年(747年)に、第45代聖武天皇の勅願により、行基が創建。

場所は現在の地では無くて、すぐ横を流れる筑後川の泊瀬の向こう岸の中島に位置していた。と謂われ、

中島は、現在は筑後川の放水路となって狭くなっており、朝倉水害の土砂の廃土を搬入し、当時の面影を失っています。

中島の対岸が『恵蘇八幡宮』です。『恵蘇八幡宮』の地は、『恵蘇の宿』と謂い、筑後川の瀬が側に在り、船舶の宿泊地であった、『泊瀬』と覗えます。

記・紀にて、『泊瀬部』と謂う場所は、此の朝倉の『恵蘇宿』の地を指し示しています。

 

わたくしは、此の、中島地区こそが第37代斉明天皇が661年、来訪した朝倉『広庭宮』であった。と考えています。

何故、斉明天皇が来訪したのかは、『泊瀬部』の付く歴史上の人物を調べれば、理解する事ができます。

『泊瀬』・『朝倉』の号の付く人物は、全て此の地に居たか、朝倉で産まれた。と解釈するべきです。奈良県ではありません。泊瀬は、初瀬→長谷に繋がり、奈良県の長谷寺は、此処の地、朝倉『泊瀬』が源であろうと考えられます。

つまり、斉明天皇の夫の第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の、前々の(蘇我馬子から殺された)第32代崇峻天皇(泊瀬部=長谷部若雀天皇)や、

第21代雄略天皇(大泊瀬幼武・大長谷若建命)、第29代欽明天皇(天國排開広庭天皇)及び、その第3皇女の穴穂部(阿蘇のカルデラや盆地の事)第31代用明天皇(橘豊日天皇・池辺皇子=幼少期は南大分『東院』(後宮と呼ばれていた。)に推古天皇と一緒に暮らして居たものと、考えています。後の時代に男子禁制になります。)に嫁いだハシヒト間人皇女(聖徳太子の母と謂われています。)、

そして、斉明天皇の子であります『ハシヒト間人皇女』は、この地に居られた事が想像される。のであります。

第33代推古天皇額田部皇女豊御食炊屋姫尊)は小墾田宮(南大分『古国府』近辺と考えられます。)で亡くなるのでありますが、子でありました早世した竹田皇子の墓の傍に埋葬する事を遺言して、恵蘇八幡宮に在ります1号・2号古墳に埋葬されたものと、考えています。

この事柄を真実と考えますと、斉明天皇が朝倉広庭宮に来た理由が紐解けます。

 

佛法を重んじた娘の『ハシヒト間人皇女』(第36代孝徳天皇の皇后)が此の朝倉の地に棲んで居たと思われます。

孝徳天皇(天万豊日天皇)は、難波長柄豊碕宮(大分の明野~鶴崎地区『葛木』と考えています。)で政務を摂り、奈良には行かず、654年11月に豊後長柄豊碕宮で病気で亡くなり、『ハシヒト間人皇后』は、その後仏教の盛んな朝倉の橘氏の『尼寺』(栢寺)に来ていたと思われます。

記紀は『行宮』と、嘘を述べて、ごまかしています。

 

奈良の長谷寺も、朝倉普門院と同じく、神亀年間に造られた『木造十一面観音立像』(本地佛では、『十一面観音像』とは、『天照大神=アマテル=ワカヒト』=本来の『若宮』を意味しています。『水波能比売命=豊玉姫』が『不動明王』の事です。)を本尊にしています。そして、奈良の長谷寺には『普門院』があります。

 

当時の、朝倉の普門院(普門寺)は、『広大山普門寺』と号して、現在は、神亀元年(724年)に行基に依って造られた『木造十一面観音立像』(1.74m)を本尊にしています。普門院と称するのは、天和年中(1681~1684年)だそうです。

 

弘法大師も、唐から帰国した翌年の大同2年(807年)に此処朝倉の『普門寺』を訪れて、真言密を修した。と伝わっており、『筑前国続風土記』には、「この寺の仏堂広からずと雖も、その営作の精巧なること国中第一なり」と記されており、此処は特別の地であった。と考えるべきです。

 

わたくしは、朝倉中島(筑後川の川原)に在った『普門寺』の、以前の名は『川原寺』と呼ばれた。と思っています。『川原寺』を奈良県の『長谷寺』に移築?したもの。と考えています。

『川原寺』と対を為す、『ハシヒト間人皇后』と関係があります『橘寺』(尼寺)は、浮羽町流川に在ります行基創建由来の古刹『大生寺』ではなかろうか。と思っています。

此の浮羽町~吉井町地区は『橘氏』が大勢います。現在も、鎮西身延山『本佛寺』や『延寿寺』・『満願寺』・『妙福寺』が橘氏地域に在り、近くの古墳群との考察から、耳納山麓に『橘寺』と呼ばれた『寺』があり、多分「栢寺」と思われます。

 

九州政権が、白村江の戦以来、近畿へ遷都し、「栢寺」荒廃後に『行基』が『大生寺』※を創建したものと考えられます。

 

※『大生寺』は、何となく『大聖勝軍寺』とも関係がありそうです。

『大生寺』の元の名前の由来は、『大聖勝軍寺』(587年物部氏との戦いで、聖徳太子が発願、594年創建で、推古天皇が命名した。)であった。と、考えられます。

根拠は、うきは市『大生寺』は桓武天皇期(延暦元年782年)に『五台山大聖寺』として、勅願寺となります。1391年『大生寺』となりました。

桓武天皇の母親は、タカノ竹野郡(田主丸町唐島)の『新笠』(百済、武寧王ー聖明王の末裔)です。『新笠』は唐島の秋永氏=息長氏集落で育ったものと、思われます。

『栢寺』=『大聖勝軍寺』と思われます。『大聖勝軍寺』は、後に大阪八尾市太子堂に移されます。

 

鎮西身延山『本佛寺』は、明治の初期に、山梨県の身延山から、日蓮聖人の御真骨分安聖地と鎮西栴檀林(学校)として九州総括寺を兼ねて創建されており、何故、この様な耳納山の中腹地に立派なお寺が造られたのか。首をかしげます。

 

その理由は『橘氏の寺』が以前に存在していて、此処から佛教が全国に広がった聖地と捉えられていた。からと考えられます。

その証拠に、『本佛寺』の本殿の垂幕には、井桁の中に『橘紋』がハッキリと這入っています。

此の地に『厩所』があり、厩戸皇子(聖徳太子)がハシヒト間人皇女から、産まれた。と、考えられます。

 

此処、『橘氏の寺』に集められた聖徳太子(穴穂部=阿蘇→若狭に避難したハシヒト間人皇女が産んだ子、父は用明天皇と言われています。)(南大分の向原寺は、蘇我稲目が仏像を欽明天皇と相談して、自分の寺へ持って帰った場所です。その後は豊後国分寺になり、現在は大分市歴史資料館に成っています。)由来の48体(多くの仏像が、九州が北限の『楠木』で造られています。)の仏像は、後に奈良法隆寺へ運ばれます

 

応仁の乱(1467~1477年)の兵火に遭い、朝倉の『普門寺』(以前は『川原寺』と呼ばれた。と、考えています。)は焼失しますが、再興を行ったのは、何んと!!!『斯波時勝』であった。と伝わっています。

『斯波』は、『宋書』夷蛮伝倭国条に記入されています、元嘉2年(425年)の使者『司馬曹達』の『司馬』に関係があると考えられます。

『斯波』(司馬)氏は、元は、軍馬を養成する役割の渡来人だったとも考えられます。『曹達』が名前でしょう。

 

聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれ、『馬』との関係が暗示されており、聖徳太子の研究には、『馬』を考察する必要性を感じます。そう謂へば、『蘇我馬子=聖徳太子』の説。の研究者がおられましたね。

 

法隆寺の釈迦三尊像を創ったとされます、『鞍作止利』は、司馬氏で有ります。

 

聖徳太子(622年没)は斑鳩宮に居たとされ、斑鳩宮は南大分の東院と考えています。聖徳太子の埋葬されています場所は、大分市東院宮苑に在ります、『千代丸古墳』(7世紀初頭築造)と思っております。後に、穴穂部間人皇后(母=621年没)の遺骸と伴に大阪河内の叡福寺磯長陵古墳に移されます。

父で有ります用明天皇は『磐余池辺双規宮』(勝山黒田~豊津町周辺と考えています。)で病気で亡くなります。用明天皇の埋葬地は田川郡大任町秋永地区に在ります、名前の附いて無い古墳(磯長=秋永陵)と思っています。

 

この時、病気平癒を願って四天王寺(別名を堀江寺と謂い、此れは行橋市の堀江に造られて、後に大阪に移築された。と考えています。)や、法隆寺(別名を斑鳩寺です。後に奈良県に解体移築されます。わたくしは、向原寺の事と考えています。)が造られています。

 

推古天皇は飛鳥宮赤村~香春町と考えています。)で政務を執ります。この飛鳥宮は、アマテル=ホアカリ=饒速日命がゆふいんから移動して来て、創った宮です。第34代舒明天皇(赤村の岡本宮)や第35代皇極天皇も、此処で政務を執ります。

 

第35代皇極天皇(飛鳥宮板葺殿にて)の時に、息子の中大兄皇子が、中臣鎌足と組んで、『蘇我入鹿』を誅するのですが、その時に、『蘇我入鹿』を『鞍作』と呼び、蘇我氏は『司馬=斯波』氏であった。と理解されます。蘇我氏は馬の『鞍』を造ったり、香春岳で産する銅で『佛像』を創った技術者であった事柄が、解りました。

 

やはり、斯波氏・朝倉氏のルーツは此の朝倉長田志波(笠縫氏)地区であったことが理解できます。    2018年11月9日 記

 

 

 

 

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