中国の三国志記、『魏書』第30巻『東夷伝倭人条項』に記述された『倭』の部分が、日本の事で、中国に於いての『日本』の認識は、『倭』とされています。
わたくしは、何故に、当時(後漢・魏・呉・蜀の時代)の中国の人達が『日本人』を『倭人』と呼んだのか?の疑問がいつも付き纏っていました。
今日は、此の事を皆様と一緒に考察したいと思います。
『倭』は、現在は『ワ』と発音をしていますが、古代史研究家の『内倉武久』さまは、『ヰ=ゐ』と呼ぶべきである。と講演会で述べられており、わたくしも同感で、ブログでは、『倭』は『ゐ』と述べています。
志賀島で出土した金印の刻印『漢委奴国王』の発音は『カンノワノナノコクオウ』ではなくて、『カンノイドコクオウ』又は『カンノイトコクオウ』と読むものと考えられます。
中国には、チベット系少数民族の『倭イ族』と呼ばれる人々が、貴州省・四川省・雲南省に、戦乱の結果、散逸していますが、本来は、四川省成都市北40キロにあります、古蜀の長江文明『三星堆サンセイタイ文明』を造った人々であろう。と、中國の研究者に考えられています。
わたくしのブログでの、肝は、阿蘇(健磐龍命=豊玉彦)で、豊玉姫=阿蘇津姫を息子(彦穂穂出見尊=兵主神)の嫁に娶って、日田・浮羽に遣って来た、豊受大神の正体であります。阿蘇に来る前は何処に居たのでしょうか?
豊受大神は曹操ソウソウの鏡(金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡キンギンサクガンシュリュウモンテツカガミ)を持って、中国大陸から渡って着ている。と考えられ、袁エン氏の親族であろうかと思っています。
西暦190年代から210年代に架けての『袁』氏における登場人物は、『袁紹』エンショウ(西暦142年生まれ。『曹操』との、西暦200年『官渡カントの戦』で敗戦した人で、202年病死します。)と、その子長男、『袁譚』エンタン。(西暦205年、南皮で、曹操の子『曹純』に斬首されます。)次男、『袁煕』エンキ。(207年遼東の『公孫康』に、弟の『袁尚』と伴に斬首されます。)三男、『袁尚』エンショウ。(207年遼東の『公孫康』に斬首されます。)です。
『袁紹』の202年6月28日死後、『袁譚』と『袁尚』は後継者を巡って骨肉の争いをします。
203年『袁譚』は、『袁煕』と『袁尚』の軍に追い詰められ、苦し紛れに本来の敵であります、『曹操』と同盟を結び、その証として、『袁譚』の娘を、『曹操』の子『曹整』に嫁がせて、縁組を行います。
しかし、直ぐに『曹操』は、『袁譚』の盟約違反を理由に、『袁譚』の娘を離縁させて、『袁譚』の元へ送り返して、再び『曹操』と『袁譚』は対立して、205年戦を行い、南皮で『袁譚』は殺されます。
『袁紹』・『袁譚』・『袁煕』・『袁尚』の人生は中国大陸で完結しており、『倭』に遣って来てはいません。
では、誰が『倭』(日本)に遣って来たのでしょうか。
実は、『袁紹』には、姉妹がおり、西暦180年代に、四川省『成都』の太守をしていた後漢の官吏『高躬』コウキュウが、『袁紹』の姉妹を娶っています。
『高躬』はその後に『蜀』の太守をします。が、『高躬』と、その息子である『高幹』の消息はその後不明です。
わたくしは、『豊受大神』(ホツマ伝では、第5代タカミ結び神)の正体は、三星堆サンセイタイ(四川省成都)蜀ショクの太守をしていた、『高躬』コウキュウ→タカミ が、西暦206年『曹操』の鏡を持って日本に遣って来て、高皇産霊尊タカミムスビジン=タカミ結び神と呼ばれたものと、考えています。
故に、中国大陸の人達の認識は、『高躬』タカミの本貫地三星堆(蜀)に居た倭イ族の地から、『高躬』コウキュウ→タカミの子である『高幹』コウカン→タカミキ→タカキと伴に日本へ遣って着ており、日本を『倭』イと呼んだものと判断されます。
『高見』氏・『高木』氏は、天武天皇の子孫の『高階』氏(高階真人・高階朝臣)と伴に、蜀の『高躬』『高幹』親子にルーツを持つものと考えられます。
ぜひお話が聞きたいです。
豊受大神=宇佐族が信奉する月読命/月の女神。=宇佐神宮の主祭神。媛大神。(宗像三女神は子孫であり後に主神月読命を隠さなければいけなくなった為の苦肉の策(偽書の古事記(半分は捏造、改ざんのオンパレード)成立以降))
宗像三女神は実在のお姫様方。
父親は宗像王家を創設した出雲王国第6代オオナモチ(主王)八束水臣津野王の王子(親王)アタカタス王。
彼が北九州の豊国の宇佐王家に実質、入婿となって宗像王家が出来ました。
表向きは出雲神族(カモ族=出雲の王族)。実質は宇佐族(本宗)
アタカタスの三人の女(ムスメ)たちが古代史に多大な影響を与えました。
長女の多岐理は第7代オオナモチの天冬衣王の王后/国巫女(祭主/媛巫女)。次代のスクナヒコ(副王)八重波津身王(事代主神/大物主神/ほか)を生みました。
次女の多岐津/多吉は第8代オオナモチの八千戈王(いわゆる大国主神)の王后/国巫女(祭主/媛巫女)となり次代のスクナヒコ、味耜高彦を生みました。
お二方は父方のいとこ同士の間柄。
一番重要かつ、微妙な立場になる、市杵島媛命は、
秦国人/二度目の渡来を果たして佐賀の吉野ヶ里に定住帰化してニギハヤヒを自称した徐福(本名、徐市(フツ))と政略結婚して
ホホデミ命とホヤ媛命を生みました。
この徐福が先の渡来の際に出雲王国の王女(内親王)高照媛命と結婚して五十猛を生みました。
五十猛の誕生で警戒が緩んだ出雲王国に徐福ら秦国人勢力はクーデターを仕掛けて
八千戈王と八重波津身王を相次いで殺害して出雲王国を簒奪しようとしましたが、
直ぐに態勢を建て直した出雲王国が反撃に転じて秦国人勢力を鎮圧平定。
首魁の徐福、ホアカリを自称には捕捉次第殺害する出雲八重書きが発布された事で
徐福(ホアカリ)は居場所を失い配下二千人と妻子を置き去りにして母国秦国に逃亡。
後に五十猛(母親が出雲神族故に身分が保証された)は散りじりになっていた秦国人/渡来人らを呼び集めて丹波に移住して五十猛を改め、海カゴヤマと号して丹波王国を建てた。
その海カゴヤマに異母妹のホヤ媛命が嫁いでムラクモを生みました。
このムラクモが大和に南下して先の出雲大事変の影響で大和の葛城に移住していた出雲族らと王国を開き初代大王に就任(偽系図での神武=ムラクモ大王)
このムラクモ大王の王朝をホホデミ命の物部王家が攻めて滅亡させたのがいわゆる神武東征神話の真実。
その東征に豊国宇佐族も参画して大和入り。
仲間内での軋轢、争いに敗れた豊国宇佐族勢は丹波(丹後)に逃避。
宇佐族伝統の月の女神/月読信仰を布教しました。
丹波人(海部氏)はこの神を豊受大神と尊称して奉祭。
後に伊勢の外宮に遷宮
この宇佐宮の月の女神/月読命の祭主/媛巫女が
親魏倭王、豊媛命(稚日女命(生田神社)/宇佐女命/ウズメ命/豊受媛命(外宮、和魂))
宇佐族は、
アーリア族らの迫害、隷属を忌避したインド中部のクナ国のクナト王が率いる移民団が日本列島に渡来した3500~4000年前よりも更に早い時期に渡来して西日本全域に繁栄していたといい、
自らは月の女神/月読命(月神)を信仰する故に月に住むと言う月兎神にちなみ、ウサギ族と号していたのがウサ族に変化したと
宇佐公康氏は伝承しています。
ただ、宇佐族が何処から来たのかは一切語られていて居ないためルーツは不明。
インドから渡来したドラビタ族=出雲族は文字や製鉄法、農耕等、家畜等を有していたといい
情報や政策、施策は樹皮紙に墨で横書きされ記録されました。
その文字は恰もいにしえのインダス文字の様で有ったらしい。
その貴重な樹皮紙をユウといい、その主要な産地故に湯布院となったらしい。