「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

高良神(玉垂命)は、出雲から帰ってきた『下照比賣命』(高比賣命)で有った。と考えられます。

2014-08-25 | 古代史

多祁理比賣命は『下照比賣命』を木俣に挟んで出雲から宇佐に帰って来ましたが、『下照比賣命』はその後出雲にて天若日子命と結婚をしましたが、天若日子命は高木神の返し矢にて亡くなります。『下照比賣命』は大いに悲しみ泣き腫らしたと記されていますが、その後の彼女の行方は記されていません。如何なったのでしょうか?

今日は、わたくしの想像を交えてその後の『下照比賣命』の行方を考察して見たいと思います。

 

多祁理比賣命の『倭』(九州宇佐)への帰郷への手助けは物部安曇族が行ったものと考えられ船を使っての行動で、国東半島奈多沖の岩礁(市杵島)に乗り上げ上陸した。との伝承があります。

下照比賣命』の場合も同様に、生誕地である『倭』(甘木朝倉)への帰郷を願望したものと想われますが、此処は高木神の本貫地でもあり、望みが叶わず、そう遠くない物部安曇族の拠点である有明海傍の『大善寺玉垂宮』周辺に匿れたものと想われます。

 

そして、『玉垂命』の本質は『下照比賣命』(=御井神)である。と考える事が出来ます。

 

高良玉垂命』の高良山への来臨は、高良山『古系図』内注記に『仁徳天皇治天55年9月13日』とあり、これは西暦367年になり、4世紀後半のお方として研究者は考えを始め、武内宿禰説や神功皇后に干珠・満珠を渡した安曇磯良(アズミノイソラ)説・物部保連(モノノベノヤスツラ)説等諸説があり、議論がありますが、確定されていません。

 

わたくしの説での、この『大善寺玉垂宮』には、3世紀後半~4世紀初頭まで『崇神天皇』が居られた事になっており、『崇神天皇』は社の殿にて、倭大國魂神(大物主命)と天照大神を祀って居たと日本書紀に記されていますが、『下照比賣命』が出雲から帰って来たと考えられますのは、崇神以前の時間軸でありますので、わたくしには、『大善寺玉垂命』の誕生した時間軸を西暦367年より古く考える必要があると思われます。

考察をしてみたいと思います。

 

ネットにて『玉垂宮』を開きますと古賀達也さまの研究ブログが有りました。

拝見しますと、

『筑後国神名帳』には玉垂媛神とある。

『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。

平成九年、広川町郷土史研究会より稲員家文書五一通(近世文書)が冊子として発刊された。同書巻頭の佐々木四十臣氏(同会顧問)による解説「稲員氏の歴史と文書」では、稲員家のことが次のように紹介されている。

「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。

高良大社が三種の神宝を持つ社格であることは重要だ。伊勢神宮や熱田神宮でさえ三種の神宝すべてを持っているとは聞いたことがない。しかも高良大社では三種の神宝を隠し持っているわけではない。御神幸祭ではその行列中に堂々と並んでいるのである。天皇家以外で三種の神宝をシンボルとして堂々と祭っている神社があれば教えてほしいものである。

高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」

(以上要点のみ転写記入しました)

 

と述べられており、

わたくしは以前に、大善寺玉垂宮にて大善寺宮司の『隈正實』さまに『高良玉垂宮』との関係をお訊ねした処、

『関係がない事はないが、高良大社より古く、明治36年に1800年祭を、昭和28年に1850年祭を執り行って居り、私が平成15年に創設1900年祭を執り行った。』と憮然とした表情で胸を張って強調された事を思い出しました。

 

上記の高良大社の記述は、高良大社(高良玉垂命)から大善寺玉垂宮が別れたかの様に印象附ける様に記述されており、大善寺玉垂宮の『隈正實』さまにとっては、異議のある記述だったようです。

 

わたくしの解釈では、『下照比賣命』若しくは、後の『玉依姫=息長帯比賣命=神功皇后』は大善寺附近で『物部保連』と再婚して九人の子を儲けた。

第一王子斯礼賀志命の末裔は大善寺瑞垣宮(玉垂宮)にて後の天皇(欽明)に遣えた。その後大善寺玉垂宮の宮司(隈氏)になって今日に至っている。

次男朝日豊盛命の末裔は高良山高牟礼で筑紫を守護した。

と謂う事になります。

 

高三潴に在ります『月読神社』内に、『高良廟』と刻まれた『額』の鳥居と『塚』は『玉垂命の墳墓』と謂われており、『下照比賣命』は此処に葬られているものと思われます。

(追補、月読命は大山祇神と同一人物と考えられており、大己貴命の父とも謂われています。高三潴の『月読神社』の古墳は江戸時代有馬藩が発掘して、剣を持ち帰った。とされており、此処に埋葬されていますのは大己貴命の父と考えられます『月読命(大山祇神)』であろう。と考えられます。であれば、下照比賣命は祖父の元に返ってきた。と、考える事ができます。

下照比賣命』の埋葬地はみやま市瀬高の飯江はえ近くにあります玉垂宮附近とも考えられます。)

 

わたくしの解釈では、西暦360年代大善寺玉垂宮から高良山玉垂宮の分宮に尽力したのが朝日豊盛命の末裔の人(物部安曇氏)であり、その末裔の『草壁保只』が802年に高羅山の北側の平地、北野町稲数に移り住み、姓を『稲数』に変え、『止誉比咩神社』(豊比咩神社)を造ったとも考えられますが、

其れならば、景行天皇が『止誉比咩神社』(豊比咩神社)に遣って来た時間軸と合わず、北野町稲数邑では『草壁保只』が遣って来るよりもっと古い時代(景行以前)から『止誉比咩命』(豊比咩命)を祀っていたものと考えられ、『止誉比咩神社』(豊比咩神社)の最初の祭神は『多祁理比賣命』で有ったろうと思われます。其れを訊いた『景行天皇』が『道主の貴』として祀る様に命じたものと感じられます。

 

 

『御井神』とは、『木俣神』とも呼ばれ『多祁理比賣命』と『大己貴命』の間の子の『下照比賣命』とされ、『高比賣命』とも呼ばれています。高羅山が高良山になったと謂われ、この『高+羅』の朝鮮語での意味は『高の國』の事である。と「宝賀寿男」さまが『御井神の系譜』の中で述べられています。

御井は「三つの井戸」とも解釈され、之は祭祀を行なう『巫女』の禊(清め)が想像され、高羅大社の『御手水の井』と朝妻に在ります『味水御井神社』と赤司八幡宮の傍、大城小学校内にある『益影の井』の三つの『井』をもって『三井』の始まりに成ったのではなかろうか。とも考えられていますが、わたくしには、素直に『御井神』(下照比賣命)を表す『御井』と思われます。

 

 

根拠の1、『大善寺玉垂宮』に祀られています玉垂命は、千木は外削ぎの『男神』となっていますが、口伝では、本当の祭神は『女神である』とされており、『謎』の女神となっております。

『大善寺玉垂宮』はその後、高良山にも進出して『高良玉垂宮』(筑後國一の宮)と為ります。(大善寺宮司の『隈正實』さまは、大善寺の方が古いと述べられていました。)

わたくしには、此の高良山進出した時期が、仁徳天皇55年(西暦367年)と思われます。

この高良山進出の理由は、肥前國水上悪党の『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)が大善寺玉垂宮を占拠して高良山に一時避難を余儀なくされた為であろう。と考えられ、

其れを退治したのが下照比賣命(玉垂命)の末裔の『藤大臣』(玉垂命)であった。と謂う解釈になります。

 

※{玉垂宮の『鬼夜』祭り伝承では、仁徳天皇の御代56年(368年)1月7日に藤大臣(玉垂命)が、玉垂宮を占拠していた肥前國水上悪党の『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)を退治した事に由来している由。}

 

{『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)は句呉(こうご)の渾名と考えられ、水上の場所は。佐賀市大和町川上峡辺りとされ、此処は川上梟帥(カワカミタケル)が叛乱を起こした場所とも考えられております。現在は、『秦』から来たと謂われる『徐福』が上陸した地とも謂われており、『金立』(きんりゅう)の地名もあります。}

 

そして、高良山に其の儘鎮座したものと考えられ、『祖神』は大善寺玉垂宮に戻ったと思われます。

 

根拠の2、久留米市の東部にある高良山の下を御井町と称し、朝妻に在ります『味水御井神社』へ高良玉垂宮より『行幸』行事が行なわれていました。『味水御井神社』の現在の祭神は水神の『水波能賣命』とされていますが、『御井神社』の本質は『御井神』と思われ『下照比賣命』を影にて祭って居たと考えられます。

三井郡北野町大城(現在は久留米市北野町大城)に在ります赤司八幡宮(あかじはちまんぐう)は、以前は『止誉比咩神社』(豊比咩神社)と呼ばれ、『水沼の君』(三潴郡の大善寺玉垂宮を指すものと考えられます)が祀り守って居たとされ、『景行天皇』の九州遠征の折、「道主の貴(ちぬしのむち)」として祀るよう当時の『水沼の君』(師木の県主)であった『猿大海』に命じて『止誉比咩命』(豊比咩命)の御魂を祀ったとされています。

『豊比咩』とは、豊後の『比咩大神』、即ち『宇佐』に居られた『多祁理比賣命』を指すものと考え直さないといけないかもしれません。

 

根拠の3、10月は全国の神々が出雲に集り、出雲國以外は神無月となるのですが、高良玉垂宮の『神』は出雲へは行かず、『神有月』とされ、不思議とされています。此れは、わたくしの説での『下照比賣命』であれば納得が行きます。このお方の父は以前『倭』(北部九州)を治めていた『大己貴命』であります。出雲に行く必要はありません。

 

根拠の4、『下照比賣命』の母である『多祁理比賣命』は『宇佐神宮』に『比咩大神』として祭られており、勅使道筋に『宇佐大善寺』が存在します。これは『水沼の君』(久留米市三潴大善寺玉垂宮)からの往還があった事を意味しており、証拠として、安心院に在ります『三女神社』の由緒には「水沼の君(三潴大善寺玉垂宮)が此れ(三女神社)を守る」と記入されています。三女神とは、わたくしのブログでは『多祁理比賣命』(田心比賣命)のみの『一女神』で有った。事に為っています。

 

根拠の5、

「高良山には元々高木神(高御産巣日神、)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)とも呼ばれていましたが、玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座した」

 との伝説が残っていますが、これは『高木神』と『高良玉垂命』の関係を推考出来る貴重な伝承であると考えられます。

わたくしには、『高木神』と『高良玉垂命』の間は元々仲が良い関係ではなかったと感じられ、渋々『高良玉垂命』を受け入れた事が解ります。此れは『高木神』と『下照比賣命』の関係に置き換えると納得できます。

『高木神』と和邇氏は、『下照比賣命』の父母であります『大己貴命』と『多祁理比賣命』をクーデターにて筑紫より出雲へ追い遣った張本人です。

 

この様に、わたくしの説にて考えを進めますと『玉垂命』は『下照比賣命』で有った。と考えられる事が導かれます。

 

そして、『大善寺玉垂命』の誕生は、『倭の大乱』と『崇神天皇』の間に考えられます。

高良大社にあります『三種の神宝』は、三潴の大善寺玉垂宮で生れた『崇神天皇』が出雲の神宝十種を見てみたいと謂う事で、『建諸隅命』に命じて出雲の『飯入根命』から受け取っており、その神宝の一部と考える事が出来ます。

 

亦、以前にも述べましたが、久留米市御井町に在ります『祇園山古墳』は活眼入日子(垂仁天皇)の一番下の弟の『倭日子命』の墓であろうと考えています。奴婢の殉葬が視られます。

 

 《追補》訂正。

その後の調査にて、『比咩大神』(天之児屋根命=景行天皇の妻=水波能女命=豊玉姫=秋永氏の元)と『多祁理比賣命』(大己貴命の妻)は別人である事が判明しています。

亦、磯城宮に居た『崇神天皇』は、母親の『玉依姫=秋永氏の元で、豊玉姫の姪』(伊香賀色謎命)と一緒に居たものと考えられ、『玉依姫』も『玉垂命』の候補として考えられます。

2021年現在、わたくしの、考えでは『玉垂命』は、『玉依姫』(伊香賀色謎命=神功皇后=息長垂姫)であった。と思っております。考えが変わっていますので、訂正します。

 

 

 

 

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