「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

級長津日子命はスサノオと同一人物であった。と考えられます。

2017-02-06 | 古代史

佐賀県唐津市呼子の加部島に田島神社があります。この神社は宗像神社辺津宮(宗像市田島)の三女神を祀っており、海から船を接岸しての参拝をするように造営されており、裏山には祈巌石が数多くあり、宗像から出航した船は、博多湾~糸島経由で、外洋(壱岐島)に向かう事を意味しています。航海の安全を祈る本土最後の寄港地であったろう事が理解出来ます。

平成29年1月28日、古川清久氏の誘いで此処に来たのでありますが、本殿左に在ります摂末社『御先神社』を指して、「ご覧になりましたか。」と古川さまが述べられ、祭神を見ますと、順に右から左へ、級長津日子命・級長津戸辺命・猿田彦命とあり、わが眼を疑い驚きました。

級長津日子命と猿田彦命は別神である。と暗に示されていたのです。わたくしの説では、猿田彦命と級長津日子命は同一神で、『海幸彦』である。と定義していたからであります。一瞬「これは祭神記入の間違いではないか?」の疑いが頭を過ぎりましたが、伝承に誤りは無いものとも考えられます。

百嶋さまも、之をご覧になったものと考えられ、『級長津日子命』が『海幸彦』、『猿田彦』は『山幸彦』と定義されて考察を進められたものと想われます。

級長津日子命と猿田彦との関係をどのように解釈するかを、古川さまに問われたのであります。

動揺して沈黙した、わたくしは一人、車に戻り、想を深めて再考を試みました。そして、わたくしの誤りに気付きました。

 

級長津日子命と級長津日女命=級長津戸辺命を『夫婦』と解釈していた事です。

 

級長津日子命と級長津戸辺命は『』と『』の関係に解釈するべきであります。

 

阿蘇氏は、雲南省・海南島方面から遣って来た犬祖伝説を持った白族が(=『呉』からBC473年頃熊本に来たの白日別氏=葛木氏熊本紀氏が『狗呉』と呼ばれていました。)

鉄を求めて新羅シラ=白=斯蘆や伽耶に出先を創り、熊本県玉名市から派遣された第4代脱解王=昔氏=石氏=物部氏を意味しています。の末裔と考えられます。

 

つまり、級長津日子命が八大竜王=大綿津見神=豊玉彦=武御雷男命=息長氏(秋永氏)の初祖となり、

 

級長津日子命の娘であります級長津戸辺命が、市祁島姫=息長大姫大目命=豊玉姫=天鈿命=息長水依姫=竜神姫=猿女と解釈すべきで、

 

猿田彦(景行天皇)が級長津戸辺命の二番目の夫の(~阿蘇草部かやべ氏(太陽神崇拝)=伽耶=高木神派(後漢、蜀の成都の大守をしていた高躬結び神派は、伽耶経由で倭に着いているものと考えられます。AD205年頃に草部=日下部の吉見は高躬と一緒に遣って来たものと考えられます。

南粤』ナンエツ系秦氏は、BC110年頃串間市(曾於郡の太耳)に着いて西都原から阿蘇・福岡県田川郡迄進出していたと考えられます。

後の『弥五郎どん』・『大己貴命』に繋がる豊後紀氏(葛木氏)の豊日別氏と、阿蘇で合体して北部九州を割譲受け、日田~うきは・朝倉に居つきます。)『海幸彦』と解釈されます。

 

山形県酒田市の『小物神社』の『』の字の意味は『イン=嬴=斎部』の事を指しており、祭神は、級長津日子命と級長津戸邊命であります。

百嶋神社考古学研究では、奈良『春日神社』二月堂の『御水取り』は、『スサノオの心霊』を『豊玉姫』(若狭比咩)が祀っている。と述べられており、之は『級長津戸邊命=豊玉姫=秋永氏』が『スサノオ命=秋永氏』を祀っている事を意味しています。

亦、奈良県生駒郡三郷町に在ります『龍田大社』の元は熊本県の『立田山=龍田山』と考えられ、此処も級長津日子命(豊玉彦)と級長津戸邊命(豊玉姫)を祭神にしています。

スサノオの先祖の原点は熊本県にあるものと感じられ、韓国の『新羅本紀』(1145年成立)の中で第4代脱解王=昔氏は『多婆那国』から遣って来た。と述べられており、如何もこれは『熊本県玉名市』を指し示すと感じられます。

根拠は、中国『周』に繋がる『呉』の『太白』は姫氏で、姫氏が紀氏、即ちスサノオは、姫氏=紀氏の血を受け継いだ王で、これが記紀で謂う、『熊襲』の正体でありましょう。倭には、『呉』『越』『楚=蘇』『秦=辛』『南粤ナンエツ』南方から海流に乗って何度も難民が遣って来ており、宮崎県串間市では、『南粤』王族が齎したと考えられます国宝の『玉璧ギョクヘキ』が出土しています。

紀元前後には、倭から朝鮮半島へ鉄を求めて、呉・越・楚・秦・南粤から遣って来た人々は、競って韓半島の馬韓・弁韓・辰韓(後の百済・金海・伽耶・新羅・高句麗)方面への進出を図ったものと想像出来ます。高句麗には白頭山の名が残っており、日本には高句麗からの帰化人も多く居たものと考えられます。

 

因みに、わたくしの『山幸彦』とは、日高彦日子火火出見尊(福井県小浜市若狭彦神社で埋葬されています。若狭一の宮。)と考えられ、

八田氏は、景行天皇に豊後直入で志賀氏(阿蘇氏=雲南省より渡来のミミ族で、本貫地は豊後大野町)・藤原氏(阿蘇氏=ミミ族で、本貫地は豊後日出町。後々の藤原不比等は、大分市犬飼の橘三千代を後妻に娶ります。)共々退治されます。

後に菅原氏=土師氏(この方も阿蘇氏)が登場します。その他大幡主神系代表として崇神=雷神=久留米市城島シキに居て、勝手に神武を名乗った人。がいます。

 

 《追補》2018年11月10日

その後の考察にて、級長津日子命と級長津日女命=級長津戸辺命は、親子で、豊玉彦(建雷命=健磐龍命=八大龍王)と豊玉姫の事である。と想われます。

豊玉姫は二度結婚をしており、最初の夫は、大分県日田市ダンワラ古墳があります、日高地区出身の日高彦穂穂出見尊(豊受大神=大幡主命、の子)で、阿蘇で結婚して壱岐~対馬経由で加羅国へ渡り、姪(豊玉姫の弟が八咫烏=賀茂建角身命で、その子が玉依姫です。)の玉依姫が彦穂穂出見尊との間に儲けた『天日鉾=スサノオ』を新羅王にするべく、スサノオを置き去りにして、帰還。

彦穂穂出見尊(孝元天皇=蚩尤に繋がる兵主神の事で、豊受大神=高躬の息子です。)が、大津シノ宮=若狭彦で亡くなった後は、

ウガヤフキアエズ=住吉神=開花天皇(豊玉姫=内色許売命、と孝元の子)が、磯城(久留米市城島シキ)玉垂宮で継ぎます。

二度目の夫が、ニギハヤヒ=ホアカリ=アマテル=瓊瓊杵尊の右大臣だった、猿田彦=長髄彦=天之児屋根命=景行天皇であります。

多賀の宮『飛鳥宮』は、ゆふいんのハラ(高天原)から移動したアマテル=ホアカリが名付けています。

アマテル=饒速日命=瓊瓊杵尊は、スサノオ派新羅人との争いに、(基山)伊勢の宮の戦にて、傷つき亡くなったものと考えられます。遺体は香春町宮園の『オウキン皇君さんの墓』に埋葬した。と想われます。今でも近所に居られます、柳井秀清さまたちが、代々伝承して守ってくれています。

ホツマ伝の叙述に依りますと、(基山の)伊勢宮に、アマテルといっしょに居た向津姫=瀬織津姫=二代目天照大神に向かって、「お前は、ワカ姫の処へ行きなさい。わたしと、トヨケ=豊受大神で、背を守る」と述べられており、これは、背振山系を和邇氏・アマテル・長髄彦=猿田彦=景行=天之児屋根命・豊受大神(高躬結び神)が、領有していたと考えられます。

ワカ姫は大己貴命とタケコ多祁理比賣命が儲けた子であります。ワカ姫は住吉神=ウガヤフキアエズ=開花天皇に、久留米市城島シキ『玉垂宮』にて育てられ、大分県豊後高田市の『玉津宮』で阿智彦=思兼神と出会い結婚、病弱の天忍穂耳命の面倒を杵築市のヤスカワ八坂川で、看た。と述べられており、その後の、ワカ姫の行方は不明です。

わたくしは、ワカ姫は、出雲で生まれシキ久留米玉垂宮で開化天皇に育てられます。→豊後高田の玉津宮で思兼神と結婚→ゆふいんのヤスクニ→アマテルとスサノオがウケイ誓約をした気候の温暖な杵築市八坂川ヤスカワで、病弱な天之忍穂耳命の面倒を看る→香春町→小石原峠を越えて日田ケタ壺で天之忍穂耳命が亡くなり、英彦山に埋葬されます。→その後に糸島へ移動している。と考えています。

向津姫=瀬織津姫=第二代天照大神は、基山の伊勢から、ワカ姫の居たと考えられます糸島へ逃避したものと思われます。

多賀『飛鳥宮』で、豊玉姫=辛國息長大姫大目命=息長水依比売命=水波能女命=龍神姫を娶った猿田彦=景行天皇=天之児屋根命=長髄彦が、スサノオ=崇神天皇(このお方が神武天皇=カムヤマトイワレヒコを勝手に名乗ります。)と、倭の覇権を争います。

磯城県(久留米市城島)から出陣したスサノオ=崇神(息長氏)は、基山の伊勢~鳥栖~吉野ケ里~佐賀大和~小城の背振山系の和邇氏の拠点を攻略後、佐賀県神埼市西郷『柏原』で、即位。

糸島も攻略し、第二代天照大神で有ります向津姫=瀬織津姫を殺害。向津姫=瀬織津姫の墓は、朝倉市山田の『長田大塚古墳』に造られた。と、想われます。

スサノオ=崇神(息長氏)は、三度(最初は海路で失敗、祖父の八咫烏=建角身命に助けられます。陸路で二度)福岡粕屋郡経由で長髄彦=天之児屋根命=猿田彦=景行天皇の居た多賀(田川)を攻めます。

アマテルの亡き後、田川~行橋で守って居た、長髄彦=天之児屋根命=景行天皇=猿田彦は、記紀にては、ウマシマジ(饒速日命の第2子)に殺された。事にされていますが、実際は、但馬~播磨に兵を引き、後に物部氏を引き連れて行橋勝山黒田へ遣ってきて、杵築に居たスサノオ=崇神を殺害します。

スサノオ=崇神の墓は、杵築市大熊山に、『小熊山古墳』として造られ、後に奈良県天理市柳本の『行燈山古墳』に移されます。

 

(織田有楽斎に繋がる柳本藩が、秋永氏=息長氏の源元であります場所である田川郡香春町~大任町秋永地区を、飛藩地として江戸時代末迄治めており、代々の筆頭家老は『秋永氏』が為っています。現在も天理市柳本町に家老の末裔『秋永』さんがお住まいです。亦、わたくしのブログの切っ掛けに為った耶馬渓『雲神社』宮司秋永勝彦さまの親族=羅漢寺大和尚が、戦国時代に細川忠興に附いて熊本へ行っています。戦国時代迄は、秋永氏=息長氏が理解されている事が納得されます。)

 

級長津日子は八咫烏=建角身命=琴平神の父であります豊玉彦(健磐龍命=武御雷命=八大龍王)を指し、級長津戸辺は、娘の豊玉姫(息長大姫大目命=龍神姫=美水波能女)を指しています。訂正を致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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