暫くぶりにブログに向かいます。
本年(令和4年)正月、わたくしと妻が信仰している宗教団体が『火と水の浄儀』を行う予定である。旨を信者に発表されました。
わたくしは、古来からの伝統的な儀式が、現代迄伝承しているのに驚きました。
と述べますは、ホツマ伝の地22巻『オキツヒコの火水の祓』を知っていたからです。
早速『ホツマ伝』を開いてみました。
此の『ホツマ伝』とは、大田田根子が日田市日代宮ヒジロに居たものと考えられます景行天皇に献上された、天君と名付けられた瓊瓊杵尊(別雷男命)の稜威イツを讃え、子々孫々日本武尊迄の伝えを残す、天・地(陰と陽)・人併せて40文(巻)のホツマ文字で書かれた五・七調の倭(和)歌です。
わたくしは、西暦290年~300年頃に献上されたもの。と考えています。従って、古事記・日本書紀より400年程古い書物と思っています。ホツマツタエの信頼性は、記紀より可なり上に有りますが、ホツマツタエも要の事項を伏せています。
『オキツヒコ ヒミツノハライ』 『オキツヒコ火水(秘密)の祓い』
最初は、由来から始まります。
ミカマトノ カミノヒミツノ 御竃の神の火水(秘密)の
ミツノネハ ニハリノミヤノ 本質(蜜)の根源は、新治ニハリの宮への
ワタマシニ アメノミマコノ 移動鎮座に際して 天の御孫の瓊瓊杵尊が
ミコトノリ モリオタマワル 御詔宣を出して、オキツヒコが世話・備え役を賜った。
オキツヒコ
と、述べられ、その後に続けて
カシキノユフノ 畏き(樫木)の由布(木綿)の
ミテクラニ ヤモヨロカミノ 布の供え物と、 八百万神の
カンツトエ タカマノハラノ 神が集まり 高天の原(ゆふいん塚原=ヤスクニの宮)の
カンツカサ アマテラシマス 神司が、天(倭=和)を照らします
ヲヲンカミ ホキタテマツル 大御神を、祝詞奏上で
ノトナカニ 言祝ぎます。
以後、言祝ぎの祝詞が
国常立神・五坐(東西央南北)ゐくらの神・八元やもとの神・ヱトこよみの守神・年徳としのりの神・等次々と述べられます。
終わり方は
モシモミワサノ もしも、水災の
アラントキ スヘヤマツミノ あらん時は、水と山を治める神霊が
アラハレハ タトヒナカアメ 現れて、例え長雨にて
アフレテモ ヤマハシケキニ 水が溢れても、山は繁樹で
モチコタエ ナカレオフカク 持ちこたえ、流れを深く
ナスコトモ ツネニイセキオ なすことがあっても 常に井堰を
マモルナリ 守るなり。
ミナカンチカヒ 皆の神を誓いて
イチシルキカナ 顕著かな
コノトキニ トシノリカミノ この時に、年徳神
マテニアル オオトシカミト 真手(陰陽)にある大年神と
ハニヤスメ オコロモトモニ 埴安姫・オコロ(龍になり損ねた土竜=土公神)も共に
チカイシテ イサキヨカレト 誓いして、諌清かれと
カンホキニ ホキノリナセル 神祝に、祝宜なせて
カナキユヒ 締めくくる
タキヒモキヨク 焚き火も清く
ミツキヨク ミカマトキヨク 水清く、御竃も清く
ミナキヨク ヒミツノミツノ 皆清く、火水(陰陽)の奥義は
タカラオノ スサミナケレハ 寶斧(包丁)が劣化なく研ぎ澄まされて
イサキヨク ニアクルミケノ 潔く煮あげた御饌の
ヒモロケオ ササクルスエモ 奉納食を捧げる須恵器も
キヨラカニ ムスフヒミツノ 清らかに、結ぶ火水(秘密)の
キヨハラヒ 清め祓い
ヨツキタカラト 代々を伝え継ぐ寶と、
スサマシク シツムチカヒノ 進上した執り行いが
イサオシオ ユキスキハニノ 功を為し、悠紀ユキ・主基スキ・埴主基ハニ
ヲヲンカミ キコシメサルル 大御神が聴いて下さるように
キヨハラヒ 浄め祓い
ヒミツオカミニ 火水(秘密・奥義・陰陽)を神に
ツツシミテ キヨメタマヘト 謹みて『御浄め給え』と
マウシテマフス 申して曰す。
で、地の22巻は終わります。
オキツヒコは、志賀の海(博多湾に志賀島が在り、姪の浜には、小戸大神宮が有ります)で、伊弉諾尊から、島津彦・志賀彦と共に生まれた。と述べられています。
ホツマツタエが述べています『火水の祓い』の由来は、
瓊瓊杵尊が『高天原』(ゆふいん)から降臨した後、(ホツマツタエでは、八洲巡りをした。とは述べていますが、天孫降臨の話は述べていません。)瑞穂の中原※(鳥栖~基山伊勢)から、日田に在ったと考えられます『新治ニハリ宮』ヘの移動鎮座の時に、オキツヒコが執り行った建築の前の儀式。と、されています。
※鳥栖市の隣りの三養基郡に『中原』の地名があります。
わたくしのブログでは、豊受大神一族が西暦206年頃大分→阿蘇から日田市に遣って来て、うきは~朝倉へ進出し、(後漢の蜀の太守であった)『高躬』が(木綿)ゆふいん~安心院~九重にホツマ國を隠居國として分割。
ゆふいんアサマの宮(サカオリの宮)には、豊受大神(高躬)・娘の伊弉冉・孫のアマテル・アマテルの皇后の瀬織津姫・瓊瓊杵尊・彦穂穂出見尊・天鈿女命が、居て、記紀が述べている天孫降臨は、ゆふいん塚原(高天原)から、安心院町佐田の猿田彦が、瓊瓊杵尊一行を糸島の笠沙岬方面へ道案内をした事に為っています。
記紀に於いての瓊瓊杵尊は、
木之花開耶姫(ホツマツタエでは、アシツ姫)を娶り、一夜の契りで妊娠して、火照命(ホツマツタエでは、火明り 斎名ムメヒト)・火須勢理命(ホツマツタエでは、ホノススミ 斎名サクラギ)・火遠理命(ホツマツタエでは、ヒコホオデミ 斎名ウツギネ)の三つ子が産まれた。と述べられ、瓊瓊杵尊のその後の行動は不明です。
瓊瓊杵尊の民間での伝承は、基山町史に有り、『伊勢』の地名も在ります。『伊勢』の近くに『イサワ』の転訛名とも考えられます『三沢』の地名も在ります。
ホツマツタエでは、アマテルと瓊瓊杵尊と瀬織津姫は『伊勢宮』に居たと述べられており、『伊勢=妹背=日夜見宮』は、思兼命=阿智彦が建築をしたと述べられています。
ホツマツタエでは、思兼命=阿智彦は、『玉津宮』に使いに出され、『玉津宮』に居た※ワカ姫と出会い結婚します。
※ホツマツタエの解釈では、本来のワカ姫は、蛭子の事になりますが、出雲から大善寺『玉垂宮』に帰って来た『高姫』が、『ワカ姫』の名前を継いだ。と述べられ、『高照姫』(ホツマツタエに於いては、大己貴命と三女神の長女タケコの子です。記紀に於いては、タケコは多祁理比賣命とされています。)の事と考えられます。
わたくしの考察で、『蛭子尊』は男性で、大己貴命の息子の大国主命=事代主命=恵比寿と想われます。)
つまり、ホツマツタエの『玉津宮』とは、大善寺『玉垂宮』を指しています。※
※その後の調査にて、『玉津』の地名が、大分県豊後高田市の丘の上の中央公民館地区に在る事を発見しました。考察の末、ホツマツタエの述べている『玉津宮』は豊後高田市の事と想われます。
従って、ヤスカワとは、福岡県筑前町夜須ではなく、豊後杵築市の『大内宮』(アマテルとスサノオが誓約ウケイをした天之安河=八坂川)と、考えられます。有明海から船で移動しているものと考えられます。
思兼命=阿智彦と、妻の高照姫は、ヤスクニ(=ゆふいん塚原)からヤスカワ(=大分県杵築市『大内宮』=記紀でアマテルとスサノオが誓約をした天之安河)に移り、タガの若宮(田川アスカ宮=アマテルがゆふいん高天原から移動して造った宮で、田川『香春神社』では、天之忍穂耳命を『忍骨命』として祀っています。)
から移動して来た病弱な※『天之忍穂耳命』の面倒を見た。と、述べられています。
※ホツマツタエに依りますと、天之忍穂耳命は、タガ若宮に居たが、その後にヒタカミ國の首都『ケタ壺』日田市に小石原峠を越えて移動しています。
『ケタ壺』は『ヤマテの宮』とも謂われています。天之忍穂耳命は日田で亡くなり、英彦山(神宮)に埋葬されます。斎名は『オシヒト』 贈り名は『箱根神=巡幸神=運廻ハコネ=小石原峠を指しています。移動の多い様』。
後の※『弓削宿禰』は天押穂根命=天之忍穂耳命の末裔と、想われます。『弓削』・『葛原』・『芝原』・『布津原』の地名の発祥は宇佐市に在る。と考えられます。
※ 物部氏の守屋が、母方の『弓削ユゲ大連オオムラジ』と称し、元は弓を作成する一族で、『弓削道鏡』が有名です。対して、『矢作ヤハギ連ムラジ』は、『矢』を作る一族で、鳥栖市に『布津原』の地名がありますが、『布都奴志命』の末裔が、『矢作連』です。筑後~筑前~筑豊に大勢の『中野』姓が居られます。家紋は『抱き茗荷』。(と、呼ばれていますが、本当は『矢』を作る『抱き(笹竹の芽)』でありましょう。)
わたくしの説では、ヒタカミ國の中心は『金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡』(曹操の鏡)が出土した『日田』です。
ですから、『ケタ壺』とは、『日田盆地』を指しています。但し、ホツマツタエ 天2文に出てくる『ケタ壺』は、『ゆふいん盆地=オキ壺』を指しています。
ケタツホノ ツサノツクハノ 『ゆふいん盆地』の『由布岳』(筑波)の
イサミヤニ ウナツキアテミ イサ宮(宇奈岐日女命を祀っています六所宮と考えられる)にて相交わって
イサナキト イサナミトナル イザナギとイザナミとなる
フタカミノ マシワルトキニ 二尊の交わるときに
トコミキヤ トコハトホコニ 床入り酒や 床では、融和を持って
コオモトム 子孫繫栄を願う
『筑波』とは、古代の場合は九州を指し示しています。
ツクバの、ツクとは齊イツクの事で、バは羽・葉・耳を指しています。耳は左右1対を意味します。『由布岳=オキ壺のツクバ山』はゆふいん盆地=オキツボから眺めますと、西の峰、東の峰に別れた『双耳峰』です。
わたくしは、伊弉冉が祭祀・斎イツキをしたと考えられます磐座の存在を幾つか確認しています。
筑紫・筑豊・筑波は九州であると、考えるのが自然です。
茨城県の『筑波山』(火山噴火の無い山体の歴史です。)も男体山・女体山に別れた『双耳峰』であります。
此れは、以前のブログ『籠神社は豊後から遣って来た建田背命から始まった…』(2012年3月24日掲載)を読んでもらえば理解して頂けると思いますが、
孝安・孝霊・孝元天皇期には、豊後紀氏=海部氏・葛木氏・建田氏→武田氏・甲斐氏・あべ氏・工藤氏・藤原氏→伊藤氏・北条氏・三浦氏・八田氏・河津氏・井氏→井伊氏・梶原氏・等の、俗に謂う『阿蘇氏』が、宮津~敦賀方面から近畿~中部~関東方面に散らばっています。
現在NHKで放映されています『鎌倉殿の13人』の登場人物は、殆んど『阿蘇氏』が関東に渡ったものである。と、考えるべきです。北条一族の『牧氏』が出てきますが、『牧宗親』は桓武天皇の生母『竹野』の『新笠』の出身地『牧』と、関係が考えられます。
『ゆふいん』からも、建斗米命タケトメ、その子建多乎利命タケダオリ(建宇那比命タケウナビの弟)、中名草姫(建斗米命の妻)等、大勢の人達が去って行きました。
しかし、アマ族本体の天君と呼ばれ※八洲巡りをした、瓊瓊杵尊・天児屋根命=景行天皇等は、『ゆふいん』ハラアサマ宮(別名サカオリの宮)か、新治ニハリ宮に居たものと考えられます。
※八洲巡りをした瓊瓊杵尊は、奥州で蝦夷エミシを退治して、ヒタカミ國(常陸國)を造りますが、その時『ゆふいん』の双耳峰『筑波山(由布岳=オキツボのツクバ山とも呼ばれていた。と考えられます。)』の名前を、山体が似ている茨城県の双耳峰『筑波山』に命名したものと考えられます。
其の証拠に、『筑波山神社』では、『ゆふいん』に存在した。と考えられます、伊弉冉尊と伊弉諾尊を祀っています。
ですから、『筑波山』と命名したのは『瓊瓊杵尊』である。と考えても可能です。
亦、景行天皇の子、倭建命(日本武尊)ヤマトタケルが、再びヒタカミ國の討伐に訪れ、『筑波山』に登った。と、謂う地元の伝承があり、此れは、父、景行天皇から『筑波山』の話を聞いて居たので、登頂したものと考えられます。
亦の証拠に、アマテルの東局の(乙下侍)妻に、蘇我姫が為っていますが、父の名前は筑波早馬ツクバハヤマです。
蘇我氏は豊後大分が本貫地です。本貫地は奈良県ではありません。ゆふいんの『アサマの宮』は、別名で『馬場浅間ババセンゲン』と呼ばれ、『馬場』、即ち『馬』の『驛』が設けられていた。と、謂われています。
筑波早馬ツクバハヤマは、ゆふいんの人かも知れません。
亦、筑後には『早馬行事』が伝承されています。
亦亦の証拠に、常陸国風土記(元明天皇の詔にて713年編纂)には、『筑波県ツクバノアガタは、昔、紀の國と謂った。』と、述べられており、紀の國とは、豊後紀氏の居た大分を指し示しています。『筑波』の名は、豊後が源元です。
- 如何も、『瓊瓊杵尊』と『アマテル=饒速日命=火明り』が同一人物に思えてきました。多分正解と想われます。(饒速日命=アマテル=火明り命と瓊瓊杵尊の高天原からの降臨時に、どちらにも天之児屋根命=景行天皇=猿田彦が同行しています。先代旧事本記と記紀に拠る)
倭建命ヤマトタケルが、新しい『新治ニハリの宮』を『ヒタカミ國(常陸國)』に造った。と、ホツマツタエは述べています。
東国遠征から、物部氏の尾張愛知に帰った日本武尊ヤマトタケルは、宮簀媛と暫く一緒に居たのですが、
ホツマツタエ 人40文 『アツタ神世を辞む文』には、次のように述べられています。
マキムクノ ヒシロノコヨミ 纏向の、日代の暦(景行天皇の暦)の
ヨソヒハル ヤマトタケキミ 41年春 ヤマトタケ君
キソチヨリ イタルオハリノ 木曽路よりおいでになり、尾張の
タケトメカ マコノムラシノ 建斗米命の孫の連ムラジ(乎止与)の
ヰヱニイル ツマミヤスヒメ 家に這入られる。妻の宮簀姫は
ミヤコヨリ オクリテチチカ 都より、父の乎止与が送り届けて
ヰヱニマツ イマキミココニ 家に待つ。今、ヤマトタケ君此処で、
ツキオコス 月を越す
キミノタマハク ヤマトタケ君が宣給われた。
サカオリノ ミヤハムカシノ 「サカオリの宮は、昔の
ハラノミヤ ナオナカラエリ ハラの宮。今尚、永らえている。
ワカネカヒ ウツシテヒメト 我が願いは、サカオリ宮の絵図を、姫と見て
タノシマン ムラシモウサク 楽しまん。」 (乎止与)連が奏上。
トミユキテ ヱカキウツサン 「臣の私が、描き写して参りましょう」
キミヱヱス ヤマトタケ君が笑い悦んだ。
ムラシクタリテ 乎止与が下り
サカオリノ ミヤオクワシク サカオリの宮を詳しく
ヱニウツシ カヱコトスレハ 絵図面に写して、ヤマトタケ君に送った。
と、述べられています。その後、ヤマトタケは三重県『能褒野』ノボノで崩じました。
ここで考えなければならない事は、
『宮簀姫』ミヤズヒメの父である『乎止与』オトヨが『建斗米命』タケトメの孫と述べられ、敦賀宮津湾の『籠神社』コノジンシャが『建田背命』タケタセに繋がり、
『建田背命』の弟に『建宇那比命』『建多乎利命』『建彌阿久良(大分國造)』『建麻利尼』『建手和邇』一番末の妹が『宇那比姫命=宇奈岐日女』(先代旧事本記より、尾張氏系図)である事を頭に浮かんで考察しますと、
『ゆふいん』に繋がる。と謂う事です。
『乎止与』オトヨは『建多乎利命』タケタオリの子になります。『建斗米命』は『火明命=アマテル=饒速日命』の末裔(弟の子)です。
『饒速日命』の弟が『建日照命』で、『建日照命』の子が『建斗米命』とホツマツタエは述べています。
『ゆふいん』の隣りの『玖珠町』に『名草台』があります。『建斗米命』の妻の『中名草姫』は此処から娶っていたものと考えられます。
ヤマトタケルの、『ゆふいん』への郷愁の想いが伝わって着て、現代の『ゆふいん』に棲んで居るわたくしには、涙が溢れて止まりせん。
『ゆふいん』は、倭建命(日本武尊)の心の『ふるさと』でした。つまり、『ゆふいん』が『倭ヤマト心』の『ふるさと』でした。
全国各地からの観光客が溢れています。観光客の居ない静かな『伊弉冉尊(塚原霧島神社)』『宇奈岐日女命』『瀬織津姫』等の『磐座』を巡って下さい。
毅っと、古代人の『倭ヤマトの心』を堪能出来ると想われます。
『倭ヤマトは 國の真秀マホろば 畳なづく青垣 山籠もれる 倭ヤマトし 美ウルはし』 倭建命(日本武尊)。
『敷島の 倭ヤマト心を人問わば 朝日に匂う 山桜花』 本居宣長。
未通女オトメ等が 散ハナリの髪を 木綿の山 雲な たなびき 家の辺り 見む 万葉集 巻7 1244
よしえやし 恋ひじとすれど 木綿間山 越えにし君が 思ほゆらくに 万葉集 巻12 1391