「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

ホツマ伝から、スサノオは景行天皇時代の人物であった。と考えられます。

2017-11-01 | 古代史

前回のブログで

スサノオは、国東半島杵築市熊野に在ります『真那井』の『朝日宮』(場所の特定は不明です)で『赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』を見初めて、求婚を申し込みますが叶わずに、その後は次第に、アマテルの北の局ツボネが在ります、『イサワ大内宮』(杵築市大内地区に在ったものと考えられます。)に出入りするように為ります。

 

と、述べていますが、スサノオの求婚が何故、叶わなかったのでしょうか?

疑問が残ります。此れをわたくしなりに、考えてみたいと思います。

 

赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』は、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の事で、大分県佐賀関の『早吸日女神社』に出現しており、 現在の『早吸日女神社』祭神は、

 ・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)

 ・大直日神(おほなほひのかみ)

 ・底筒男神(そこつつのをのかみ)

 ・中筒男神(なかつつのをのかみ)

 ・表筒男神(うはつつのをのかみ)

 ・大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)

とされており、肝心な本来の『早吸日女(速津姫・速来津姫)』は隠されており、『八十枉津日神(やそまがつひのかみ)』が『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の事かも知れません。

大分県には、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』を祀る神社は数多くあり、此のお方は景行天皇時代に登場されています。(豊後風土記・速見郡記)

『ゆふいん』は、以前は速見郡に属しており、景行天皇が遣って来て、天之御中主命を祀るゆふいん金鱗湖畔の『天祖神社』の伝承では、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』が景行天皇から、「天之御中主命を祀るよう」の命を受けて、『天祖神社』の祭神となった。

と、されています。

亦、『肥前風土記・彼杵郡』の条項でも、『速来津姫(早吸日女)』が景行天皇熊襲遠征時に、出て来ており、『彼杵ソノギ郡』の名前の由来が述べられています。

ホツマ伝では、金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻が『西宮』の別名『広田宮』にて、斎奇船(イワクス船)に乗せられた『蛭児』を拾い、育てた。と述べられ、其の場所は、長崎県大村湾と繋がる佐世保湾の『早岐』と、考えられます。

この『早岐』は、佐世保湾と大村湾とを結ぶ、潮流の速い『早岐の瀬戸』で有名であります。早岐には『住吉神社』もあり、『蛭児』が後に『早岐神』と呼ばれたものとも考えられます。

金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻は『蛭児』以外に、自分達の子であります『速秋津姫アキ子』(アマテルの西局の典侍)を儲けて、ゆふいんのホツマ國(叉はヒタカミ國=日田市日高ダンワラ地区)へ嫁にやって、アマテルとの間で天津彦根命(後に滋賀県近江彦根へ渡ります)を儲けた。と述べられています。

金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻は、=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=彦波瀲武盧茲草葺不合尊とも考えられ、(根拠は、此れまでのブログ考察に拠り『崇神』と『神武』は同一人物。から導かれます。)

大分県内陸部の日田市には、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』を祀る神社は数多くあり

八幡社   :日田市西有田  :早吸日女神 外

・平野社   :日田市有田   :早吸日女神、天照大御神、大宮賣神、宇賀魂命

・大山祇社  :日田市東有田  :早吸日女神 外

・関社    :日田市大肥   :早吸日女神(天満社 境内社)

・金山神社  :日田市夜明   :早吸姫命、須佐之男、大己貴命

・関神社   :日田市田島   :早吸日女神(大原八幡宮 境内社)

・関神社   :日田市天瀬町  :早吸姫神(主神)

昭和49年 高原三郎著 『大分の神々』より

七瀬川 浩氏のブログ『ひとつあがりのカフェテラス』18、【神武天皇伝承】早吸日女神社③(大分市佐賀関)より転写しました。詳しくは、七瀬川氏のブログをお読みください。

 

此れは、金折カナサキ(金崎)=伝統あるウガヤ朝末裔の海の将軍=住吉神=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=彦波瀲武盧茲草葺不合尊が、大分~宮崎~鹿児島(カゴノミヤ)~熊本~長崎(西宮=ヒロタノミヤ広田宮)~福岡(シキノミヤ久留米市城島宮・ウカワノミヤ鵜川宮=大刀洗町高橋地区に現在鵜木川が流れています。)~山陰・中国~四国・近畿(住吉神社)を、船で縦横に、頻繁に行き来していた、海人・物部族のリーダーの一人で有った。(他に宗像・糟屋氏が居たものと考えられます。)

と考えられ、『倭の内陸部』をサクラウチ=桜大人・桜大刀自(大山カグツミ橘統みの父)を配下に統治していた、トヨケ=豊受大御神と、其の息子耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命に匹敵する『海の大将軍』で有った事が理解できます。

トヨケ=豊受大御神と、金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇とは20歳程の差があったものと推察され、トヨケ=豊受大御神の娘であります伊弉册命・息子の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命と同年代の新進気鋭の金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇は、自分の娘『速秋津姫アキ子』を、『倭の王』トヨケ=豊受大御神の孫『アマテル』の嫁としてホツマ国=ゆふいんに献上すべく、豊後杵築の『赤土氏』に預け、養育していたものと考えられます

そう謂う事情が有ったので、スサノオの求婚が叶わない事となり、アマテル(=瓊瓊杵尊)と自分(スサノオ)との立場と待遇の違いに不満が生じます。

また、スサノオは、トヨケ=豊受大御神と息子の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命(=瓊瓊杵尊)から『海を治めよ』と『海人族の王』命じられますが、気鋭の金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇が、伝統あるウガヤ王朝の実力者として海人族を纏めており、

(『秦』・『南粤ナンエツ』からのルーツを持って、紀元前111年頃串間~西都原に遣って来た人々。と考えられます。)

『形だけの添えられた王』としてのストレスが溜まったものと考えられます。此れが、豊後杵築の八坂川を挟んでのアマテル(=瓊瓊杵尊)とスサノオの誓約ウケイを生じさせる結果となり、スサノオの乱行と追放に繋がったものと考えられます。

その後、アマテル(=瓊瓊杵尊)もアスカ宮(田川香春町~赤村)へ、ヒタカミ國の耶蘇杵やタカキネ高木神より移動を命じられます。

スサノオの追放後に、世情混乱{伝統あるウガヤ王朝派=伽耶系と、徐福=紀元前219年頃に来倭したと考えられます。(秦)に繋がる大幡主=和邇氏・新羅派と、周の太伯タイハクに繋がる熊本の、『呉』の末裔(紀元前473年頃以後に倭に遣って来た人々)、松野氏族=新羅派系(姫氏)の諍い}が生じ、

『倭』の将軍(初代大物主=物部氏の首領)を指名されたのは、鹿児島県曽於郡に居た太耳フトミミ=玉壁を携えて中国雲南省から遣って来た多(大)将軍=耳族 の娘を娶って、朝倉市林田※『余名持』で生まれたと考えられます、耶蘇=八十杵の子=瓊瓊杵尊『大己貴命』ですが、スサノオが、『倭』から追放された事による渡来人等々の混乱を収める事が出来ず

 

甘木朝倉からゆふいん~杵築~伊予~スサノオの居る島根出雲に逃げて、其処に居付こうとし、倭からの独立を目指しますが、

 

ヒタカミ國の耶蘇杵の子の、第7代ヒタカミムスビ神・斎名タカキネ・幼名フリマロ(記・紀で謂う高木神の事)と、ホツマ國=ゆふいんの、大祭祀神官アマテル(瓊瓊杵尊と考えられる。)出奔後の瀬織津姫(向津姫)が、新しい天照大御神として大神官位に即し、『大己貴命』に國譲りを迫ります。使者となったのは『事代主=大国主命=大己貴命の息子=蛭児=経津主命』と『武御雷男神』(阿蘇氏豊玉彦=秋永氏の初祖)です。

 

ホツマ伝(10文)では、この様を次のように述べています。

 

『タカギ勇みの ミカツチや フツヌシ副えて カシマタチ』(カシマタチ=曲がった、邪な、事や心を直す事)

 

『カシマタチ』(=曲がった、邪な、事や心を直す事)は成功し、

『大己貴命』は島根出雲を『倭』に返します。

武御雷男神タケミカツチは『カシマ尊』の名称を第7代ヒタカミ國(=大分県日田市日高)タカキネ高木神から拝命し、後に関東茨城県鹿島市に渡ります。

{ホツマ伝で、武御雷男神タケミカツチの一人娘『比咩神』と述べられています水波能女命=豊玉姫を娶ったのが、天之児屋根命=春日尊(神)=景行天皇です。天之児屋根命は、ヰチチ゛市千魂命とフツヌシ経津主命の妹アサカ朝霞姫との間の子とされています。

わたくしの考えでは、天之児屋根命=春日尊は、開花天皇(ウガヤ)の子の彦坐王(景行天皇=長髄彦)の事であります。ヰチチ゛市千魂命が棲んでいたのは、筑後太刀洗町高橋、春日地区と考えられます。此処に棲んでいたヰチチ゛市千魂命は『春日殿』と呼ばれています。

田主丸竹野(タケノ・タカノ)で、開花(ウガヤ)と竹野姫(豊姫)との間で生れた彦坐王(彦湯産隅命)を養子にして育てたものと考えられます。

 

竹野姫(豊姫)はゆふいんの宇奈岐日女命の甥(武諸隅)の子と、勘注系図から窺えますが、『宇奈岐日女命』は、スサノオから逃げて倭に帰ってきた『アカル姫』とも、アマテル(=瓊瓊杵尊)の内宮の『瀬織津姫(向津姫)』とも、トヨケ=豊受大御神の娘であります『伊弉册命』とも考えられ、『宇奈岐日女命』の実体が不明です。しかし、『宇奈岐日女命』が『卑弥呼』であろう。と考えています。

 

景行天皇は、後に幼少時に育った太刀洗町高橋地区に遣って来て、※水沼君『猿大海』に、豊後宇佐の『ウモト大元の宮』、亦の名を『アカル宮』にて祀られています『道主貴ミチヌシノムチ』=『豊比咩命』を祀るように命じています。『豊比咩命』は、如何も『アカル姫』の事に想われます。

 

※水沼君については、

郷土史の研究家の間では、赤司八幡宮の宮司『宮崎』様が、戦国時代迄は『水沼・水間』の姓を名乗っていたが、豊後から日田・浮羽に遣って来たキリシタン大名の『大友氏=大伴氏』が、うきは~筑後の神社を軒並みに焼き払い、困った邑役達が相談して、上高橋の今村地区を大友氏=大伴氏の『飛藩地』として献上する事で、大友宗麟の息子と話し合い合意し、焼き払いを避け、難を逃れた。と、考えられています。現在も『今村キリスト教会』が在ります。

元の『止誉比咩神社』の所在地は、筑後川南岸の『宮地』(銅鉾が出土しています。)地区に在った。と謂われています。(現在の『豊比咩神社』で、欽明期の『金刺宮』=大城町金島と、考えられ、当時は筑後川の蛇行が激しくて、洪水後の堤防・河川敷工事等にて、当時の面影を残していません。)

大城町小学校校庭には、(神功皇后(秋永氏)が、品陀和気命を産んだ時に産湯として使った。と伝承がある。)井戸が残っています。

雄略期にも『嶺県主泥麻呂』ミネノアガタヌシマロ(県主泥麻呂アガタヌシマロ→タヌシマロ→田主丸町の由来と考えられます。『嶺』は、景行・日本武尊期には、『平群』の山々と謂われていたものと想われ、『耳納連山』を意味しています。)が、『養鳥人』を雄略に献上した。として、登場しています。

雄略(息長氏=秋永氏)は、うきは・朝倉~田川飛鳥宮(河内)がホームグランドと、考えるべきです。

 

 

幼馴染みの磐鹿六雁命イワカロッカリノミコトを大膳=宮廷調理長に摂り立て、八坂姫を連れて、オウス小碓命(日本武尊)の足跡を辿り、三重県能褒野{小碓命(日本武尊)の埋葬地}から関東千葉~茨城(香取・鹿島と考えられます)迄肢を延ばしています。

 

磐鹿六雁命の出身地と想われます、田主丸『ロッカリ鹿狩』地区は、現在は『シバカリ柴刈』に呼び名が代わっており、川会小学校が在ります処の唐島以真江地区(秋永氏集落)では、百済國第25代王に為ります『武寧王』(西暦463~523年・在位502~523年)が生れて育ち、暫く滞在して居て、倭で子・聖明王を儲けたものと考えられます。

『武寧王』の末裔の※高野新笠タカノノニイガサ(西暦720~790年)が桓武天皇(山部王)の生母です。『和氏ヤマトウジ』と述べられ、此れは『倭氏』と解釈され、元々は、日本人を意味しています。つまり、倭と百済王統は、血統が繋がっている。と解釈する事ができます。 ※、高野は竹野(タケノ・タカノ)の『当て字』と考えられます。

 

『柴刈』の西には『宮司』の地名があり、其処には『豊比咩神社』(祭神は豊玉姫)が在ります。

もし、『豊比咩命』が『豊玉姫』であるならば、『豊玉姫』は『アカル姫』と同一人物と考えられ、『開花天皇』を産んだ『ウチシコメ欝色謎命』とは、『豊玉姫』を意味している。事に考えられます。

そして、『孝元天皇』とは、ニニギネと木之花開耶姫の間の子『火遠理命=山幸彦(耶馬幸彦)=天津日高日子穂穂手見命』(日田市日高の『耶蘇杵』の弟『ツワモノヌシ兵主命』と考えられます。)を意味する事に為ります。

ホツマ伝では『ツワモノヌシ兵主命』は父のトヨケ豊受大神から磯城県主に任じられた。とあり、此れは久留米市城島シキを意味しており、物部氏族の巣であります。高良山の下宮にも『孝元天皇』を祀っています。

フツヌシ経津主命と、妹アサカ朝霞姫は、ゆふいんホツマ國『宇奈岐日女命』関連の祭祀を行なう家系の血縁人物と考えられます。

ひょっとしたら、竹野姫はアサカ朝霞姫の事かも知れません。フツヌシ経津主命はホツマ國の香具山カグヤマ=ハラミ山=別府鶴見岳を治めた事から、『香取尊』と呼ばれます。}

 

『大己貴命』の子の『クシヒコ=大國主命=第2代大物主=物部氏の首領』は倭でタカキネ高木神の娘のミホツ姫を娶り、『コモリ子守尊=第3代大物主=物部氏の首領』を儲けます。

 

この様に、『倭の大乱』は、スサノオの『倭王』追放から、物部氏の混乱が生じている考えられ、其の存在時間軸は、ホツマ伝のハヤスフ姫=『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の陳述により、景行天皇の時代(崇神天皇)と時を同じくしている。と考えられます。

早吸日女命は景行天皇{彦坐王=彦湯産隅命=長髄彦=天之児屋根命=猿田彦}の義妹で、アマテルの西局の典侍となり、『天津彦根命』を儲けた。と考えられます。

・ 早吸日女・天速津姫・速来津姫=速秋津姫(秋子)=住吉神の娘

・  住吉神=金折=ウガヤフキアエズ=神武の父、=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=崇神の父

・  神武と崇神は同一人物である。事から、ウガヤと開花は同一人物である。と考えることが出来、玉依姫と伊香色謎命が同一人物である。と導かれます。

 

 

 

 

 

 


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今、ホツマ伝が面白い。(ホ... | トップ | 本当の笠縫邑の場所と、日高... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
学術会議 (ムスカ大佐)
2020-12-09 11:43:34
大同少尉殿、君のアホずらにはうんざりするよ。言葉を慎みたまえ。特殊鋼の結晶の秘密はようやく理解したようだが、まだ戦車云々といっている。古事記でも読んで安来の十神山になぜ制空権が宿るかをもっと勉強したまえ。臣下の礼は忘れずに。さらばだ。
返信する

コメントを投稿

古代史」カテゴリの最新記事