『ホツマ伝』解読ガイドより、
『先にツクシのカンタチはソヲのフナツのフトミミをヤスに娶りて、フキネ生む』
『後諸共に 神となる オオモノヌシはフキネなり トヨツミヒコと 治めしむ』
『ミモロの傍に殿成して 請えば賜はる儲けの子 クシミナカタと若妻のサシクニワカヒメ 諸共に 住ませてヌシは ツクシ治す』『ひたるの時に これを継ぐ 母子至れば 遺し言「このムラクモは生れ坐せる御子の祝ひに捧げよ」』『言いて 夫婦神となる ヤスに納めて 祭る後 ツクシヲシカの 御言宣』
前回のブログ(平成25年11月26日)にて『ホツマ伝』解読ガイドを引用しましたが、
古事記では天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と刺国若比賣命(さしくにわかひめ)の子が大己貴命とされているのに対して、
『ホツマ伝』では筑紫の神立命(カンタチ)が曽ヲ(鹿児島県曾於郡大崎町)の※船津(船迫)の太耳(フトミミ)を甘木市夜須にて娶り、
※近くに、横瀬古墳・唐仁古墳群・神領古墳群が在ります。
つまり、豊受大神の息子のカンタチ(神産巣日神=古事記では、造化三神とされています)が、鹿児島県曾於郡大崎町船津近くに棲んで居た『太耳』(中国雲南省『耳族』の南粤國の『大=多』大将軍=玉璧を持ってBC110年頃串間市に遣って来た王の末裔)の娘を娶り、天之冬衣神=大己貴命=大物主を儲けた。
天之冬衣神(フキネ)を生んで、この天之冬衣神(フキネ)が大物主(大己貴命)である。と述べられ、
豊祇彦命(トヨツミヒコ)=少日子名命(=古事記では、神産巣日神の息子とされています)と一緒に統治していた。とされています。
『ホツマ伝』では具体的に、甘木三諸山の傍に殿を造って櫛御名方命(クシミナカタ)《=子(建御名方命?)親族と考えられます。》と大己貴命の若妻である刺国若比賣命(サシクニワカヒメ)を住まわせて居たと述べられ、
神立命(カンタチ)亦は天之冬衣神(フキネ)は須佐之男命より献上された剣(ムラクモ)を持っていて、
『日にちが過ぎて成長した時にこの剣を与えよう』と考えていた、と述べられています。
わたくしには、神立命(カンタチ)は神産巣日神と想われ、大己貴命と少日子名命は兄弟であったと考えられます。
と謂うことは、前回のブログでの解釈である、「神産巣日神や少日子名命を頼った」『他人の関係』では無く、「親子と兄弟」の関係となります。
平成25年1月25日のブログ『橿原神宮は由布院に遷宮しなければならなくなりました。』の条項では、次のように述べています。
『やまと』平定の後の行動として、神武天皇は糸島には帰らずに、大久目命の勧めにて高天原の佐士野(由布院の佐土原)にて『媛踏鞴五十鈴媛命』と出会い神八井命と神渟名川耳命を儲けています。
この『媛踏鞴五十鈴媛命』は出雲の事代主命(大己貴命と神屋楯比賣命の間に生まれたと謂われています。)、と三嶋溝杙耳(みしまのみぞくひみみ)の娘の『玉櫛媛』の子孫とされていますが、由布院から出雲へは天火明命や天道日女命とその子と考えられる天香語山・少彦名神・天鳥船神・天櫛玉命・天神玉命・天道根命等々多くの神が天降したり、係ったりしていると考えられます。
出雲に関わる姻戚を持つ方が高天原(由布院)に居ても不思議ではありません。
亦、古事記には、美和(三輪)の大物主神としか書かれてなく、島根の出雲と解釈するより、甘木・朝倉の『三輪』の『大己貴神』と繋いで解釈した方が自然かも知れません。
と述べたことが、真実味を増した事になり、
出雲に渡った人達は、筑前甘木朝倉及び由布院(木綿の院)からの人々であった事に為ります。
福岡県朝倉市林田蜷郷にある美奈宜神社(みなぎじんしゃ)の御祭神は須佐之男命・大己貴命・事代主命の三柱が祀られています。
近くに『余名持』ヨナモチと呼ばれる50軒程の集落が在り、内30軒の姓が『徳永』様で、『大己貴命=大穴牟遅命』との関連が詮索されます。
姓氏語源辞典で、『徳永』様の分布を調べると、南九州と福岡県に集中しており、『大己貴命』を祀る神社の分布を頭に入れて考察しますと、『大己貴命』と『徳永』は関係がある。と考えざるを得ない。と、想われます。『大己貴命』は、新羅にも渡った。とも考えられ、『國引き神話』を残しています。
此処は高木神の本体である高木邑にも近く、後世、記紀では熊襲の叛乱と述べて第12代景行・第14代仲衷天皇自らが九州に遣って来ていますが、
天孫族の以前での内部分裂(倭の大乱)が原因であった事が理解出来ます。