歳を重ねてくると、脳の海馬が剝がれて幼少の昔の事を思い出します。
父の故郷の田主丸~草野では、一年の折り返しの7月の中旬頃~下旬に、近くの神社で子供たちの祭『よど』が行われて、灯篭に灯がともり、舞台が設けられ、夜店屋台の軒には『神農』と書いた布が下げられ、『茅の輪くぐり』『祇園神輿担ぎ』弁当お菓子を持っての『お籠もり通夜』が、盛大に行われていたのを懐かしく思い出します。
一年の前半の田植えが終わり、子供の成長の無事と、一年後半の稲の成長を念じての祭りであろうかと思います。
柳田國男氏によると、『よど』とは『宵宮』の意味だ。相であります。
現在、古代の研究をしています、わたくしの『よど』の解釈を、想像を交えて申しあげます。
『よど』とは、『夜を通して』と解釈します。
エジプトの相撲文化やレバノン杉や蔦の文様、イスラエルの『モリヤ山』の行者の文化、トルコ北部の『拝火教』(土から炎が出ていたのが、神への敬いを成す教えを齎した)を携えて、
西アジアの、月夜の、満天の星銀河を湛えた、果てしない砂漠を、黙々と東に向かって歩く姿が瞼に映ります。この人たちが『月氏』の由来と、考えています。(トルコ國の国旗は、赤地に三日月と五陵星『アユ・ユルドゥス』です。)
その末裔(ゐ=倭)が日本に遣って着ているものと、考えています。
根拠は、
わたくしの『家紋』と、阿蘇神社の『神紋』である、『違い鷹羽』であります。『鷹羽』はモンゴルから西アジアに掛けての鷹を使っての狩の文化がよく知られており、『鷹羽』のルーツと考えています。
砂漠の行動は、気温上昇の昼間は避けて、月明かり、星明り(こぐま座の北極星ポラリスや全天で最も明るいシリウス、天の川銀河群、オリオン座)を道標に、オアシスから次のオアシスへと移動していったものと想われます。
砂漠の道中で手に入れたものが、満天の星空から降って来た『星くず』即ち『鉄隕石』で有りましょう。
宇宙を旅して来た隕石には、鉄以外に微量の他の金属が含まれており、硬くて重く、錆びにくい、剣を造るに適した良質の素材であったと考えられます。
饒速日命が高天原(ゆふいん塚原)から多賀(河内の国の河上のイカルガ哮峯=田川郡香春町河内と想われます。)へ天降りの時『天璽十種瑞宝』を天津神から頂くのですが、
其の内の『八握剣』は『鉄隕石』から造られていたものと想われます。饒速日命をフルノミタマ布留御魂大神とも呼びます。
饒速日命は物部氏の祖と謂われ、物部氏は『石』(本来は砂漠で拾った隕石と考えています。)を祀っています。
田主丸町には、『石王区』があり、久留米市大石町の伊勢天照御祖神社(天照=饒速日命)では『大石』を祀っています。
わたくしは、豊後葛城氏のルーツは、西アジアからモンゴルに掛けての砂漠の星空に有った。と考えています。
『星くず』→『くず』→『屑』→『葛』→『国栖』→『玖珠』
日本書紀によると、神武天皇(崇神=スサノオの事)の時代にツルギネ剣根命(大田田根子のいとこ)が葛城國造に任じられますが、此の解釈は、日田の豊受大神一族の剣根命(日田のタカミムスビ高御魂神の末裔)が玖珠(葛)~耶馬渓・ゆふいん方面を治めた。と謂う事柄に為ります。
葛城氏とは、中国大陸西域から鉄隕石を持って南方(海南島~雲南省)から、倭(ゐ)に、船で遣って着て、韓半島高句麗まで、鉄を求めて新羅人や百済人と交易をした人々であります。星を読み解き、航海術と暦に長けた、頭脳明晰な人種であったものと考えられます。
追補 2024.12.10
葛木氏の元は、豊後大分です。熊本玉名の白日別氏シラヒワケウジから、分かれた豊日別氏=豊後紀氏を指しています。豊後紀氏が全国各地に拡散したもの。と考えています。
白日別氏は、紀元前473頃に中国会稽方面から、天草に辿り着いて、朝鮮半島に斯蘆シロ出張所を設けて交易を行います。その頃から、島根出雲は韓半島との大切な基地と思われます。九州と出雲・斯蘆は、白日別氏と豊日別氏が治めて居ました。
斯蘆には、葛木氏の王=葛文王を送り込み統治します。斯蘆は斯羅シラから、新羅シラギに変わり、第21代法興王(葛分王)が、倭の韓半島任那府を統合し、40歳の時に、葛木氏の命により倭に蘇我稲目(大連臣)として豊後大分に召喚され、久留米市(磯城)田主丸町川会邑唐島(斯麻)に居た欽明天皇の跡の敏達天皇(他田天皇オサダノオオキミ=ワサダノオオキミ)として歴史に登場したものと考えられます。豊後大分には、稙田(ワサダ)地区が在ります。
敏達の子である押阪彦人大兄皇子が、蘇我馬子と謂う事に為ります。従って、押坂彦人大兄皇子が産んだ舒明天皇は、蘇我馬子の皇子で有ったろうと考えられます。
敏達天皇(行橋勝山黒田付近の甘樫丘=馬ヶ岳=黒田官兵衛が秀吉軍20万の兵を待機させた場所)と推古天皇(豊後大分小墾田宮オハリダノミヤ=現在の古国府=大友宗麟屋敷跡の傍で政務をした。と、考えられます。)で儲けた竹田皇子は、蘇我馬子と異母兄弟と考えられます。
蘇我馬子は、磯城斯麻~朝倉で崇峻天皇を殺害し、推古天皇(義母=小墾田皇女)を娶り、アメノタリシホコとして、随書倭国伝に登場したものと、考えられます。蘇我馬子(626年没)は亡くなる2~3年前に、豊後葛木氏の本貫地を、蘇我氏に割譲するよう推古天皇に迫りますが、小墾田宮=古國府で政務を取っていた推古天皇(628年崩御)は断ります。
蘇我馬子は、豊後大分で亡くなり、桃原=現在の桃園地区=葛木地区の崖の下に埋葬されます。663年の『白村江の戦い』敗戦後、葛木氏(豊後紀氏=海部氏)は、全て奈良~近畿に渡ります。
豊後(難波長柄豊碕宮)で政務を行った最後(654年迄)の王は、皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)です。
蘇我蝦夷と蘇我入鹿は『甘樫丘(行橋勝山黒田馬ヶ岳)』田川郡香春町~赤村辺りに在った『飛鳥板葺き宮』で完結しており、蘇我氏4代は、全て九州での出来事である。と考えられます。
出雲王国から移住してきた富(トビ)王家(松江の大庭に王宮(=現、神魂神社)の分家、
クシヒカタ(母親は摂津三島の溝杭媛命/生玉依姫/瀬屋タタラ媛命)が登美家を号して大和の開発に着手。
しばらくしてから、西の出雲王家、神門臣家の多岐津彦らが登美家のクシヒカタを頼って大和の葛城に来訪。
クシヒカタは葛城の中南部に入植する事を勧め、
多岐津彦は高神(高カモ)家を号して入植、開発に着手。
この二家が原初の葛城族=出雲神族(カモ族=出雲の王族)
そこに徐福(と市杵島媛命、高照媛命らの)孫、ムラクモが葛城の笛吹の地に威勢を張って、、、
先住の出雲族らが折れてムラクモを大王に推戴。
初期の大和王国が成立。
ムラクモ大王は葛城の笛吹に大王宮を構えました。
笛吹の地は又、高尾張と呼ばれた事から
高尾張王朝とも(以降、大王宮所在地+王朝)
ムラクモ大王に押し出される形で副王家の登美家は三輪山西麓の磯城地方に移住。
、、、磯城登美家、磯城縣主家。
三代タマテミ大王は母親の実家、磯城登美家で大王に即位した事から
以降、磯城に大王宮が遷り、「磯城王朝」と呼ばれます。
高尾張にはタマテミの異母兄弟が居て高尾張家と呼ばれて豪族化。ムラクモ剣(後、草薙剣)を護持。
大王家にこの剣を渡さなかったと言う。
この磯城津彦タマテミ大王の頃から大王家の権力、求心力は衰微して大和の3割を領するだけの豪族化。
魏史倭人伝に言う大和大乱、、、
まさに大和の狭い領域で大王家、副王家の磯城登美家、高賀茂家、高尾張家らが互いに覇権を争う半ば内乱状態が長々と続きます。