『三国志』は晋の時代に陳寿(233~297)が編纂したものでありますが、現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれています。この版本は12世紀宋代の紹興年間(1131~1162年)と紹熙年間(1190~1194年)に拠っています。同じく宋代の類書『太平御覧』では『三国志』を引用した箇所では「邪馬臺国」の表記になっていて、『壹』(いち・い)と読むか、『臺』(たい)と読むかで論争が起きています。研究者によっては「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではなかろうか、と謂う説もあるそうです。
「邪馬壹國」の表記からは、「やまいこく」と読み、山を囲んで拠点として成り立つ国と謂う意味があるそうです。
「邪馬臺国」の表記からは、「やまたいこく」と発音し、中国での『臺』の意味は「宮城」の事を意味するそうであり、日本での『台』の意味とは少し異なる様であります。
大分県には耶馬溪があり、その並びに院内~安心院~由布院があります。わたくしには、この院内~安心院~由布院~別府~大分こそ「邪馬臺国」・「邪馬壹國」であろうと考えられます。
由布院が『高天原』であったと認められ、『室の秋津島宮』の事でもあった。と考えられます。安心院には妻垣神社(共鑰神社)があり、此処では神武天皇の母である玉依比咩命を祀っています。宇佐神宮の元宮とされており、古事記「足一騰宮」や日本書紀「一柱騰宮」として記述されています古社です。宇佐神宮には天皇家と関係があるものと思われ、明治に成るまでは、代々参詣をされているようです。之は妻垣神社が重要な意味を持っていると考えられ、此処、妻垣神社が天皇家の出発地との解釈も成り立ちます。
そうです!!!「院内~安心院~由布院」は『天の中心』だったのです。安心院は安曇氏の本貫地であり、玉依比咩命は安心院で生まれ、ニニギ命の天孫降臨の後に糸島に行ったものと考えられ、其処で神武天皇を産んだものと思えます。
そうしますと、福岡県の糸島の日向から東に向けて出発した神武天皇が何故宇佐に立ち寄り、宇佐津比古命と宇佐津比賣命の歓迎を受け、饗宴を受けたのか。と謂う疑問が解けます。多分、従兄妹か親族であったと考えられます。
と謂うことであれば、宇佐神宮の『弐の殿』に祀られているお方は『玉依比咩命』である事になり、以前わたくしが述べた息長大姫大目命では無い事になり、訂正を致す事になります。
《追補》
2014年3月15日のブログ(『多祁理比賣命』に涙する。)の考察にて、宇佐神宮の元宮と謂われます安心院妻垣神社の『比咩大神』は、高天原(由布院)より天降りした『多祁理比賣命』が『大己貴命』と結婚して子宝を得て、朝倉甘木にて幸せを得ますが、高御産巣日神に対しての須佐之男命派=新羅系渡来人の反乱(倭の大乱)で、出雲へ逃げる事に為ってしまいますが、『多祁理比賣命』は再び出雲より帰って来たものと考えられ、宇佐神宮の『比咩大神』の正体は『多祁理比賣命』であった。と訂正いたします。
《その後の考察での訂正。追補》
本来の『比咩大神』は、(彦穂穂出見尊の皇后『豊玉姫』の事で、後に天之児屋根命=景行天皇の妃になります。『水波能女命』とも、謂います。)と、『多祁理比賣命』(大己貴命の妃)は、別人です。
《その後の考察での追補2》
ヤマト邪馬台国の首都の場所は、ホツマ伝の解読によりますと、
大分県日田市(ヤマテの宮=ケタ臺ツボ)に豊受大神=高躬=倭ゐ族=チベット族と、考えられます人々が紀元205年頃遣って来ます。
曹操の鉄鏡(金銀錯巖珠龍紋鉄鏡)を携えて大山祇命=橘氏等と共に、阿蘇から阿蘇津姫=豊玉姫を、息子(日高彦穂穂出見尊=孝元天皇の事)の嫁に娶り、亦、熊本玉名の白氏の『白山姫』を久留米市大石町から、長男の『耶蘇杵』の嫁に娶り、鹿児島県曾於郡大崎町の『太耳の娘』も『耶蘇杵』が娶ります。『耶蘇杵』の子、大己貴命が朝倉市林田余名持で、生まれている。と考えられます。
西暦206年頃と思われます。
※(記・紀では、『彦穂穂出見尊=孝元天皇』は、瓊瓊杵尊と木之花開耶姫の子とされています。が、ホツマツタエの記述に依りますと、『高躬の子』、と述べられています。姉にイサ子=伊弉冉が述べられています。
ゆふいんを『イサ宮』と述べられて、伊弉冉が居た事に為ります。ひょっとしたら『宇奈岐日女命』は『伊弉冉』かも知れません。
ホツマツタエの記述では、ゆふいん『アサマの宮』で、伊弉冉が『アマテル』を1月1日に産んだ。と述べられています。
瓊瓊杵尊が後に『サカオリの宮』と呼び名を替えています。
景行天皇の息子、日本武尊が愛知県熱田の『ミヤズ姫』宅で滞在中、ハラアサマの『サカオリの宮』を懐かしみ、「絵図を見てみたい」と述べ、『ミヤズ姫』の父親であります『乎止与命』が遥々『ゆふいん』迄来て、絵図を送った。と述べています。)