わたくしの説では、ホツマ伝の解釈から景行天皇時代=崇神天皇時代=スサノオ時代=アマテル時代は、『伊勢=妹背』の場所は、佐賀県基山町の『伊勢』と謂う事になっており、近くの鳥栖市柚比『弥生が丘』から基山町『三ヶ敷』に架けての『梅が坂古墳群』は、景行が六年程逗留した、『日向高屋宮』の場所である。と考えを進めますと、
日本武尊が、伊勢の倭姫命(景行天皇の妹)を訪ねて、父、景行天皇から命じられた東国・蝦夷・陸奥への討伐への思いを述べ、スサノオがアマテルに献上した『天之叢雲剣』=『草薙之剣』と『火打石』を倭姫命から授かって、出発しますが、此の『伊勢=妹背』は三重県の伊勢ではなく、基山の『伊勢=妹背』であろう。とも考えられます。
何故ならば、『日高見國』とは、日田市日高町『ダンワラ古墳群』周辺の山々で、『ホツマ國』の『浅間宮』とは、ゆふいんの『浅間宮』を指し、当時、山深く、道も無いような獣が出る不便な場所を『エミシ蝦夷』の居る『ミチノク陸奥』と、蔑視して呼んでいたものと、ホツマ秀真伝から読み解けます。
『日高見國』『秀真國』は、『ヤマト邪馬台国』の事であります。
『豊受大神』とその息子の『耶蘇杵』、『耶蘇杵=大幡主=瓊瓊杵尊と想われます。』の嫁の、久留米から嫁いだ『白山姫』、『耶蘇杵』の弟で『根国』に渡った『カンサヒ神狭日』、『神狭日』の妹の『イザナミ』、その『イザナミ』の弟の『ツワモノヌシ兵主命』(磯城県主=久留米)=『日高彦穂穂出見命』=『孝元天皇』(高良神社下宮社で祀られています)=最後は軽(香春町)に居た後で、滋賀県シノ宮で亡くなった。と考えられます。『耶蘇杵』の子の『高木神』と弟の『少彦名命』、『イザナミ』が生んだ『アマテル』・『月読命』・『イザナミ』の子に養子された。と考えられます、(『日高彦穂穂出見命』と『玉依姫=八咫烏(賀茂建角身命)の娘です。』の子であります)『スサノオ』=後に崇神(神武=彦火火出見尊=孝元=崇神の実の父親を名乗ります。)と為ります。
八咫烏(賀茂建角身命)は、阿蘇氏(賀茂健雷男之命=豊玉彦)の息子に為り、姉が阿蘇津姫命=豊玉姫(日高彦彦穂穂出見尊の嫁で、ウガヤフキアエズ=住吉神=開化天皇を儲けます。)=水波能女命=龍神姫命=秋永(息長)氏の元=猿女(二度目の結婚を、景行天皇=猿田彦=天之児屋根命として、久須姫命=五百野皇女イオノノヒメミコ=伊勢宮のアマテル斎司をした人。を儲けます。)と、呼ばれます。
その他、『大宮姫ミチコ』=活津彦根命(滋賀県に渡った人)の母・『七夕姫コタエ』(小郡の七夕神社・鳥栖市姫方の姫古曽神社)と謂った錚々たる人物を輩出している。と考えられます。
継体期に起こった『磐井の乱』は、古事記には、『石井の乱』と述べられており、此れは、日田市石井地区(ガランドヤ・穴観音古墳があります)の『豊受大神』に繋がる日田~うきは・朝倉一族へのクーデターの乱と考える事が出来ます。
ネットにて、景行天皇の九州熊襲征討を研究した『松倉文比古』龍谷大学教授の論文『景行紀の構成』を拝読しました。
本質を捉えた、細心の感性と猜疑心、周到な学問的な配慮、確りした論考と考証が行なわれており、第一級の研究者であることが判ります。皆様にも是非読んで頂きたいと思います。
わたくしが、気に留めたのは、景行12年8月から景行19年9月までの九州熊襲征討をしました後、翌20年2月に、景行の妃(景行の皇后は八坂入姫命)で有ります、『ミズハノイラツメ水歯郎媛』(私見では、このお方が豊玉姫)が生んだ『イオノノヒメミコ五百野皇女』を『伊勢』に遣わして天照大神を祀らしめた。と、日本書紀が述べており、その後、景行40年10月に景行の子であります『日本武尊』が、東征の為、垂仁天皇の第4皇女で、景行の妹に為ります『倭姫命』の居た『伊勢』に出向き、スサノオがアマテルに献上した、『天之叢雲剣』(草薙剣)と『火うち石の這入った袋』を授かります。
この『倭姫命』が奈良県の笠縫邑から、十数年掛けてあちこちを鋒鋩した末に三重県の『伊勢』に落ち着いたのが、垂仁25年3月と記述され、景行20年2月の『イオノノヒメミコ五百野皇女』の『伊勢』での天照祭祀派遣は、既に『倭姫命』が祭司として居るので、疑義が生じる事になり、筆者(松倉氏)は景行の熊襲征討や日本武尊の川上梟帥の再熊襲討伐、東國の蝦夷・陸奥国征討を解説しておられます。松倉氏の考察は鋭く、日高見國の蝦夷が『叛く』と記述された条項の解釈は、『王権』の領域内の「王化」に従わない人々と謂う理解の上に立っている。とされ、「王化」が貫かれている事に着眼されておられます。また、日高見國は伊勢を間にして日向と向き合う場所に在った。と考えられる。と述べられています。
正に、わたくしの説、日向高屋宮(鳥栖~基山)-伊勢(基山)―日高見國(日田)を言い当てておられます。
氏は亦、景行天皇は、九州熊襲討伐を九州熊襲・親征討と表現され、考察の深さが目に付きます。
景行天皇は、日本武尊の足跡と、東國巡狩の旅(景行53年8月~9月)の後、伊勢にて暫く滞在するのでありますが、
(景行53年12月)日本書紀の記述は、「東國より還りて、伊勢に居します。是を綺宮と謂ふ。」とされています。
キノミヤ綺宮とは、キノミヤ基宮→基山宮→伊勢宮
つまり、景行天皇が東國より帰還したのは、基山の『伊勢宮』であった。と解釈されます。
と、為れば、日本武尊の立ち寄った伊勢は、三重県の伊勢ではなく、佐賀県基山町の伊勢とも考えられ、東國の定義が変わって来る事に為り、日本武尊の足跡の再考証が必要となります。
美濃(日田市に在ります。)や三重(大分大野郡が元です。)や尾張(大分鶴崎が本貫地)甲斐(大分から山梨に移動した人々の事で、武田=竹田氏も元は大分です。)『相模』は原文には『佐賀牟』と書されています。『五百野皇女』の別名は『久須姫』とも謂うので、『玖珠の姫』とも想われます。玖珠は『名草』の地名があり、神武天皇(崇神のこと)が誅したと考えられます『名草遺跡』があります。
また、日本武尊の崩御した、伊勢の近くの能褒野の場所の解釈の問題もあります。近江=淡水海の伊吹山とは、近畿ではなく九州?
遺骸から魂が白鳥と成って飛び立ち、降り立った河内の場所(大阪の河内ではなく、香春町の河内と考えられます。景行天皇は豊前京都郡勝山黒田~香春町に居たものと考えています)や、飯塚・田川に在ります数社の『白鳥神社』の由来とは?。久留米のサキ佐岐神社との関係が、有りや無しや、辞世の歌、倭は國のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭うるわし の解釈等、
色々な古代への謎が思い浮かびます。
みなさまの考えをお聞かせ下さい。
大分県ゆふいん温泉在住 秋永 祥治