「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

日本武尊の東國征討に疑義あり。正しい『伊勢』は綺宮=基宮=基山宮だった。

2018-02-14 | 古代史

わたくしの説では、ホツマ伝の解釈から景行天皇時代=崇神天皇時代=スサノオ時代=アマテル時代は、『伊勢=妹背』の場所は、佐賀県基山町の『伊勢』と謂う事になっており、近くの鳥栖市柚比『弥生が丘』から基山町『三ヶ敷』に架けての『梅が坂古墳群』は、景行が六年程逗留した、『日向高屋宮』の場所である。と考えを進めますと、

日本武尊が、伊勢の倭姫命(景行天皇の妹)を訪ねて、父、景行天皇から命じられた東国・蝦夷・陸奥への討伐への思いを述べ、スサノオがアマテルに献上した『天之叢雲剣』=『草薙之剣』と『火打石』を倭姫命から授かって、出発しますが、此の『伊勢=妹背』は三重県の伊勢ではなく、基山の『伊勢=妹背』であろう。とも考えられます。

 

何故ならば、『日高見國』とは、日田市日高町『ダンワラ古墳群』周辺の山々で、『ホツマ國』の『浅間宮』とは、ゆふいんの『浅間宮』を指し、当時、山深く、道も無いような獣が出る不便な場所を『エミシ蝦夷』の居る『ミチノク陸奥』と、蔑視して呼んでいたものと、ホツマ秀真伝から読み解けます。

 

『日高見國』『秀真國』は、『ヤマト邪馬台国』の事であります。

『豊受大神』とその息子の『耶蘇杵』、『耶蘇杵=大幡主=瓊瓊杵尊と想われます。』の嫁の、久留米から嫁いだ『白山姫』、『耶蘇杵』の弟で『根国』に渡った『カンサヒ神狭日』、『神狭日』の妹の『イザナミ』、その『イザナミ』の弟の『ツワモノヌシ兵主命』(磯城県主=久留米)=『日高彦穂穂出見命』=『孝元天皇』(高良神社下宮社で祀られています)=最後は軽(香春町)に居た後で、滋賀県シノ宮で亡くなった。と考えられます。『耶蘇杵』の子の『高木神』と弟の『少彦名命』、『イザナミ』が生んだ『アマテル』・『月読命』・『イザナミ』の子に養子された。と考えられます、(『日高彦穂穂出見命』と『玉依姫=八咫烏(賀茂建角身命)の娘です。』の子であります)『スサノオ』=後に崇神(神武=彦火火出見尊=孝元=崇神の実の父親を名乗ります。)と為ります。

八咫烏(賀茂建角身命)は、阿蘇氏(賀茂健雷男之命=豊玉彦)の息子に為り、姉が阿蘇津姫命=豊玉姫(日高彦彦穂穂出見尊の嫁で、ウガヤフキアエズ=住吉神=開化天皇を儲けます。)=水波能女命=龍神姫命=秋永(息長)氏の元=猿女(二度目の結婚を、景行天皇=猿田彦=天之児屋根命として、久須姫命=五百野皇女イオノノヒメミコ=伊勢宮のアマテル斎司をした人。を儲けます。)と、呼ばれます。

その他、『大宮姫ミチコ』=活津彦根命(滋賀県に渡った人)の母・『七夕姫コタエ』(小郡の七夕神社・鳥栖市姫方の姫古曽神社)と謂った錚々たる人物を輩出している。と考えられます。

継体期に起こった『磐井の乱』は、古事記には、『石井の乱』と述べられており、此れは、日田市石井地区(ガランドヤ・穴観音古墳があります)の『豊受大神』に繋がる日田~うきは・朝倉一族へのクーデターの乱と考える事が出来ます。

 

ネットにて、景行天皇の九州熊襲征討を研究した『松倉文比古』龍谷大学教授の論文『景行紀の構成』を拝読しました。

本質を捉えた、細心の感性と猜疑心、周到な学問的な配慮、確りした論考と考証が行なわれており、第一級の研究者であることが判ります。皆様にも是非読んで頂きたいと思います。

わたくしが、気に留めたのは、景行12年8月から景行19年9月までの九州熊襲征討をしました後、翌20年2月に、景行の妃(景行の皇后は八坂入姫命)で有ります、『ミズハノイラツメ水歯郎媛』(私見では、このお方が豊玉姫)が生んだ『イオノノヒメミコ五百野皇女』を『伊勢』に遣わして天照大神を祀らしめた。と、日本書紀が述べており、その後、景行40年10月に景行の子であります『日本武尊』が、東征の為、垂仁天皇の第4皇女で、景行の妹に為ります『倭姫命』の居た『伊勢』に出向き、スサノオがアマテルに献上した、『天之叢雲剣』(草薙剣)と『火うち石の這入った袋』を授かります。

この『倭姫命』が奈良県の笠縫邑から、十数年掛けてあちこちを鋒鋩した末に三重県の『伊勢』に落ち着いたのが、垂仁25年3月と記述され、景行20年2月の『イオノノヒメミコ五百野皇女』の『伊勢』での天照祭祀派遣は、既に『倭姫命』が祭司として居るので、疑義が生じる事になり、筆者(松倉氏)は景行の熊襲征討や日本武尊の川上梟帥の再熊襲討伐、東國の蝦夷・陸奥国征討を解説しておられます。松倉氏の考察は鋭く、日高見國の蝦夷が『叛く』と記述された条項の解釈は、『王権』の領域内の「王化」に従わない人々と謂う理解の上に立っている。とされ、「王化」が貫かれている事に着眼されておられます。また、日高見國は伊勢を間にして日向と向き合う場所に在った。と考えられる。と述べられています。

正に、わたくしの説、日向高屋宮(鳥栖~基山)-伊勢(基山)―日高見國(日田)を言い当てておられます。

氏は亦、景行天皇は、九州熊襲討伐を九州熊襲・親征討と表現され、考察の深さが目に付きます。

景行天皇は、日本武尊の足跡と、東國巡狩の旅(景行53年8月~9月)の後、伊勢にて暫く滞在するのでありますが、

(景行53年12月)日本書紀の記述は、「東國より還りて、伊勢に居します。是を綺宮と謂ふ。」とされています。

キノミヤ綺宮とは、キノミヤ基宮→基山宮→伊勢宮

つまり、景行天皇が東國より帰還したのは、基山の『伊勢宮』であった。と解釈されます。

と、為れば、日本武尊の立ち寄った伊勢は、三重県の伊勢ではなく、佐賀県基山町の伊勢とも考えられ、東國の定義が変わって来る事に為り、日本武尊の足跡の再考証が必要となります。

美濃(日田市に在ります。)や三重(大分大野郡が元です。)や尾張(大分鶴崎が本貫地)甲斐(大分から山梨に移動した人々の事で、武田=竹田氏も元は大分です。)『相模』は原文には『佐賀牟』と書されています。『五百野皇女』の別名は『久須姫』とも謂うので、『玖珠の姫』とも想われます。玖珠は『名草』の地名があり、神武天皇(崇神のこと)が誅したと考えられます『名草遺跡』があります。

また、日本武尊の崩御した、伊勢の近くの能褒野の場所の解釈の問題もあります。近江=淡水海の伊吹山とは、近畿ではなく九州?

遺骸から魂が白鳥と成って飛び立ち、降り立った河内の場所(大阪の河内ではなく、香春町の河内と考えられます。景行天皇は豊前京都郡勝山黒田~香春町に居たものと考えています)や、飯塚・田川に在ります数社の『白鳥神社』の由来とは?。久留米のサキ佐岐神社との関係が、有りや無しや、辞世の歌、倭は國のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭うるわし の解釈等、

色々な古代への謎が思い浮かびます。

みなさまの考えをお聞かせ下さい。

 

                                          大分県ゆふいん温泉在住   秋永 祥治

 

 

 

 

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崇神はスサノオで有った。と考えられます。

2018-02-02 | 古代史

前回のブログにて、「豊玉姫は、『日高彦火火出見尊(兵主命)』と一緒に韓國へ渡って、帰国たもの。と考えても良さそうです。」と述べましたが、実は、その後よくよく考えを深めますと、わたくしに於いての、城島(シキ)久留米に於ける登場人物は、崇神、孝元、兵主命、豊玉彦、天日鉾、スサノオ、日高彦火火出見尊が同時代に生きて居る事になります。(わたくしの考察では、ホツマ伝の叙述より、スサノオは、景行天皇時代の登場人物者であります。)

前回のブログにて、孝元、兵主命、豊玉彦、天日鉾、スサノオ、日高彦火火出見尊は全て同一人物で有ろうと、ホツマ伝と百嶋氏説で解釈しましたが、考察を深めますと、天日鉾=スサノオと、豊玉彦と、孝元=兵主命=日高彦火火出見尊を一緒にするのには、豊玉姫=アカル姫との関係の論理に無理があります。改めて考え直してみることにしました。

 

わたくしの説には、ウガヤ(開花)が可愛がった崇神は、久留米と杵築で、出現しており、スサノオ(杵築で出現)の面影が重なり、歴史の謎が深まります。

 

私の新見解では、

本来の崇神(神武)の母は、(豊玉姫の弟である『賀茂建角身命』の子の、)『玉依姫』であります。父は『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』と考えられます。(此れまでは、大山咋としていました)

 

記・紀では『玉依姫』を『豊玉姫』の『妹』としています。『賀茂建角身命』は、八咫烏として神武(崇神)を、吉野(玖珠・山国町)を通って、ヤマト飛鳥宮へ案内する場面に、登場しています。

しかし、ホツマ伝では、『豊玉姫』の弟、『賀茂建角身命』の娘の『玉依姫』が、『白羽の矢』との間で、ミケイリ神武=崇神を生んだ。と述べられ、『白羽の矢』の解釈が伏せられています

わたくしは、大山咋と玉依姫の恋愛伝承から、『白羽の矢』は『大山咋』の事と解釈しましたが、これは間違いで、『白羽の矢』の正体は『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』であった。と考えられます。

『白羽の矢』の意味は、『白羽の矢』を持つお方は『天下人』を意味していると考えられ、此れは『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』を措いて、他は為りません

もし、此の考えが正しければ、『ウガヤ=開花=住吉』と『崇神=神武』は、母違いの年の離れた兄弟であった。と考えられます。

『ウガヤ=開花=住吉』は豊玉姫が産み、『崇神(神武)=スサノオ』は玉依姫が生んだものと考えられます。

 

(ホツマ伝とわたくしの解釈での新見解)

孝元=兵主命=日高彦火火出見尊は、豊玉姫=アカル姫と玉依姫を一緒連れて、物部の雄、『ハテツミ(果て統み)』=『豊玉彦』=『健御雷神』=『八大竜王』=『大綿津見神』と、『豊玉彦』の息子の『賀茂建角身命』=『ハエミカタマ速瓶玉命』=『大山咋』=『松尾神』=『琴平神』=『賀茂別雷命』=『綿津見神』を軍神将軍として、倭の榎津(大川市)から、壱岐・対馬経由で韓半島に渡って、その後の孝元=兵主命=日高彦火火出見尊は、如何なったかが不明ですが(新羅にて亡くなったか、病気になったものとも考えられますが、多分元気に帰還したものと考えられます)、少なくとも『豊玉姫=アカル姫=息長大姫大目命』と、『玉依姫』・『賀茂建角身命』・『豊玉彦』は、倭の姫島・国東半島八幡奈多・宇佐大元宮(ウモトノミヤ)=アカル宮(ホツマ伝の記述に因る)に帰還をしたものと考えられます。

其の時、新羅王にするべく韓半島に、『日高彦火火出見尊』『玉依姫』の間の子を、置き去りにしてきたのが、スサノオ(天日鉾)と考えられます。スサノオ(天日鉾)は豊玉姫=アカル姫と、母の『玉依姫』を追って国東半島へ遣ってきます。

 

其処で、豊受大神やその息子の耶蘇杵(スサノオの伯父に為ります。)から、「アマテル(イザナミの子)は、ホツマ(ゆふいん塚原)の高天原を治めよ、スサノオは海を治めよ」と、命じられます。(イザナミ=兵主命の姉 の養子になり、アマテルの弟にされます。)

スサノオは、杵築『アサヒ宮』で見初めた『早吸姫』への求婚が叶わず、年の離れた兄、『ウガヤ』の実力を眼にして、年下の『アマテル』に従わない行動を(アマテルの北局大内宮の妻二人に手を掛けて妊娠させ、杵築の八坂川を挟んでの誓約)します。

結果、豊受大神(生きて居たか不明)・耶蘇杵(兵主命の長兄)・高木神(耶蘇杵の長男で、弟が少彦名命、妹に大宮姫ミチコ=アマテル東局典侍と、七夕姫コタエ=アマテル東局内侍が居ます)・アマテル等に、爪剥ぎの刑と倭から韓半島(→根国)へ追放されます。

根國に落ち着いたスサノオは、根国のオロチ(=愚霊・蛇)に為っていた、天忍日命(兵主命の兄であるカンサヒ神狭日の子)・シラヒト白人(根國の守の臣)・モチコ(元はアマテル国東半島杵築大内の北局の典侍で、天之穂日命を生むがスサノオとの不倫がバレて、解任され根国に返された人)・ハヤコ(モチコの妹で、同じくアマテル北局の内侍で、スサノオとの不倫で、解任された人)人々を粛清します。そして、アマテルに『天之叢雲剣』を送り、許しを受けたもの考えられますが、スサノオのその後は、ホツマ伝は何も述べていません。

 

問題は、同時代の崇神であります。

崇神は、『ツヌガノアラシト都怒我阿羅斯等』とも呼ばれ、福井県の敦賀~若狭へ、韓半島アラカヤ阿羅伽耶から、アカル姫を追って国東半島・姫島へ出現した人物の当人であろう。とされています。

わたくしには、{久留米城島(シキ)に認められる。と考えられます}崇神は、(記・紀に於いては、)孝元=兵主命=日高彦火火出見尊と豊玉姫が生んだ、ウガヤ=住吉神=開花天皇が、伊香色謎命(玉依姫)との間にて儲けた事にされて、隠されています。

 

(記・紀に措いては)『豊玉姫』の妹とされる『玉依姫』は、

ホツマ伝では、『豊玉姫』の弟の『賀茂建角身命』の子が『玉依姫』と述べられています。

『豊玉姫』と、弟である『賀茂建角身命』の父は、『カゴ宮』の主『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦』と述べられています。

つまり『豊玉姫』と『賀茂建角身命』は、姉と弟で、『豊玉彦』と『豊玉姫』の関係は、親と子でした。

そして、論理を進めると『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=八大竜王』とは、『建御雷神』を意味している。事に為ります。

『建御雷神』の子が、『比咩大神豊玉姫=本来の市祁島姫』です。{ホツマ伝で、ウモト大元宮=アカル宮(=宇佐神宮の元宮の事)と述べられ、景行天皇が、サルオウミ猿大海=猿淡水海に、宇佐神宮で祀られています、『比咩大神』を祀る事を命じ、サルオウミ猿大海が居たと考えられます久留米市北野町大城、宮司に在ります『豊比咩神社』(傍の畑にて銅矛が出土)にては『豊玉姫』を祭神としており、『比咩大神』とは『豊玉姫』を指します。}

中臣(藤原)氏の祖とされます、賀茂別雷命(=『賀茂建角身命』)とは、(建御雷神の孫の)『玉依姫』(母はイカコヤ伊可古夜姫)が生んだ崇神=神武=スサノオを意味します。

ホツマ伝では、『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=八大竜王』は、本拠地はカゴの宮(籠の宮=鹿児島宮)です。籠の宮=鹿児島宮は、『ゆふいん大杵社=椎根津彦=宇豆彦』を経て、京都府宮津湾に在ります『籠』神社の『椎根津彦=宇豆彦』に繋がっています。

『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』は、人生の途中には、『阿蘇の宮』に一時棲んで居た。と述べられており、『豊玉姫』と『賀茂建角身命』も、阿蘇に住んだことがあると考えられます。阿蘇山の『根子岳』は『稚倭根子日子大毘毘命=開化天皇=住吉神=ウガヤフキアエズ=豊玉姫と日高彦穂穂出見尊との間の子』を意味しています。

『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=建御雷神=八大竜王=大綿津見』と『健磐龍命』は同時期の人で、(ホツマ伝に依ると)『健磐龍命』は、娘の『阿蘇津姫』を『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』のユナ斎餞として『内侍』に侍らせて居ます。

如何も、『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=建御雷神=八大竜王=大綿津見』と阿蘇神社の『タケイワタツ健磐龍命』が重なり、『豊玉姫』と『阿蘇津姫』が重なります。

と謂うことは、『ハエミカタマ速瓶玉命』は『健磐龍命』の子である。

と、『國造神社』の由緒にありますので、『カモタケツヌミ賀茂建角身命』が、阿蘇國造神社の『ハエミカタマ速瓶玉命』の事。と考える事が出来ます。

鴨=賀茂とは、中国、海南島の地名の事で、「河が会う」と謂う意味があります。ホツマで、『賀茂建角身命』は、『ニニギネ』から『河会の国』を賜った。と述べられ、『河会の神』と呼ばれた。とされ、此の解釈は、田主丸町タカノ竹野の『河会邑』を賜った事に考えられ、(河会小学校があります)後に、京都の『河合』(賀茂川と高野川)へ移動しています。{久留米市宮の陣を流れています筑後川地区に高野の地名があり、当時、此の地区(久留米市宮の陣タカノ高野~田主丸タカノ竹野)を流れます、筑後川を高野川と呼んでいたものとも考えられます。}亦、筑後の御井・三井の名前も京都下鴨神社の三井社に移動しています。

 

『玉依姫』と、『孝元』(白羽の矢)との間で儲けた子、ミケイリ三毛入野命(崇神=スサノオ)は、ウガヤ=住吉神=開花に育てられて、カンタケ神日本磐余彦尊(神武)=を名乗ります。

{ホツマ伝では、ウガヤ=開花の臨終に際して、父の『孝元』=『兵主命』=『日高彦穂穂出見命』から受け継いだ『白羽のヲシテ璽』を『崇神』=『スサノオ』は受け取り、神武(カムヤマトイワレビコ)を名乗ります。}

大幡主命=塩土老翁神=耶蘇杵命から、筑豊の『物部氏』を背景に、田川(多賀)アスカ宮で『豊玉姫=天宇受賣命=息長大姫大目命(崇神の伯祖母に為ります。)』を娶っている長髄彦=天之児屋根命=猿田彦=景行が居る事を聞き、倭から追放して、王権の統一と領土拡大をしょうとした行動が、記・紀の述べる、『神武東征』の実態と考えられます。

 

この様に、崇神(神武)はスサノオであった。との解釈が得られます。

 

 

 

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