「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

朝倉長田志波に在る、『日鷲神社』から導かれる『天太玉命』と『猿田彦』の関係。

2018-09-08 | 古代史

2018年9月3日、古川清久さまから、「朝倉志波に在る、宝満宮を調査した所、脇宮に『日鷲神社』が有りました。一度ご覧いただきたい。」との由。

 

わたくしのブログでは、此の、筑後川の泊瀬の傍の、朝倉長田志波地区(斯波氏・日下部氏・彦座王・日野氏・大山祇・継体天皇・欽明天皇・推古天皇・崇峻天皇・雄略天皇・斉明天皇・・・等と関係がある。と考えられる。)は、

 

田川香春町~大任町(アマテル=ホアカリ=饒速日命・日高彦穂穂出見尊・・天児屋根命=長髄彦=景行天皇=猿田彦・神功皇后・応神天皇=宇佐押人・仁徳天皇以降の歴代の天皇の存在が考えられます。)(辛國息長大姫大目命=豊玉姫=秋永氏の本貫地)~赤村(仁徳・舒明・皇極・斉明天皇)~勝山黒田~豊津町地区(懿徳天皇・孝霊天皇・景行天皇・蘇我蝦夷・入鹿・)と、

 

双璧を成す、倭王朝の拠点であり、

 

久留米磯城=城島の瑞垣宮=玉垂宮に居たと考えられます、崇神天皇=神武天皇=スサノオが、『アマテラスの御魂霊』(向津媛の魂)を豊鍬入姫トヨスキイリヒメに命じて、笠縫カサヌイ邑=朝倉志波の麻底良山(井上悦文氏の草書体での解読では、『アマテラス』と読める。由。)に祀って、後に、景行天皇(天児屋根アメノコヤネ命=猿田彦=長髄彦ナガスネヒコ)の妹とされる倭姫命が『アマテラスの御心霊』を三重県伊勢に移動した。と謂う考え方であります。

 

笠縫邑とは、地名由来の固有名詞では無くて、笠縫者(作笠者)が多く居た邑。と解釈をするべきである。と考えています。

 

此の、朝倉志波地区の『麻底良山』周辺が、笠縫者(作笠者)が多く居た邑と考えている、わたくしとしては、『日鷲神社』がある。との知らせに、驚きました。

 

 

 

天日鷲命アメノヒワシは、

 

『古事記』では、天照大神が岩戸隠れの場面で、神々の踊りが始まり、天日(鷲)命が弦楽器を奏すと、弦の先に鷲が止まり、多くの神々が、吉祥を表す鳥として、喜び、天日命に鷲の字が加えられ『天日鷲命』になった。とされています。

 

 

先代旧事本記』では、思兼命(ホツマ伝では、天太玉アメノフトダマ命の兄とされています。)発案のもと、天太玉命が御幣を作り、天太玉命と天児屋根命が一緒に祝詞奏上して、その時には天日鷲命が木綿(白和幣)を作った。と述べられています。

 

 

『日本書紀』神代上第七段一書第三では、天太玉命の率いた者として、

 

天日鷲命アメノヒワシ(阿波忌部の祖) 作木綿者=白幣・紙

手置帆負命タオキホウイ(讃岐忌部の祖) 作笠者=笠・蓑

彦狭知命ヒコサチ(紀伊忌部の祖)  作盾者=木工

櫛明玉命クシアキタマ(出雲玉作の祖)  作玉者=勾玉

天目一箇神アマノマヒトツノカミ(筑紫伊勢忌部) 作金者=鉾・鍬

 

 

 

『古語拾遺』では、天太玉命の孫の天富命が天日鷲命の孫を率いて阿波の国へ行き、穀・麻を植えた。

 

 

と述べられています。

 

 

ホツマ伝での、ヒタカミとは日田市とその周辺の事で、豊受大神の子、『耶蘇杵』と、妻の『白山姫=クグリ姫』が、タカキネ=高木神・少名彦命・大宮姫ミチコ(アマテル典侍)・七夕姫コタエ(アマテル内侍)を儲け、

 

長男のタカキネ=高木神が、子を順に、思兼命・天太玉命・天櫛玉命・ヨロマロ・アイミタマ・天活玉命・アヨミタマ・𣑥幡千千姫(天忍穂耳命の内宮)・美保津姫(櫛彦=大國主命【大己貴命と宗像三女神の長女タケコの間の子。※このタケコが、記・紀では多祁理比賣命とされ、本来の市祁島姫で有ります『豊玉姫』と混同されて、混乱を起こしている。】の妻)儲けています。

 

ホツマ伝を信じれば、天太玉命は日田市日高町ダンワラ地区の出身であろう。と考えられ、日田・杷木・朝倉に

天日鷲命(阿波忌部の祖) 作木綿者=白幣・紙

手置帆負命(讃岐忌部の祖) 作笠者=笠・蓑

彦狭知命(紀伊忌部の祖)  作盾者=木工

櫛明玉命(出雲玉作の祖)  作玉者=勾玉

天目一箇神(筑紫伊勢忌部) 作金者=鉾・鍬

 

の存在があると、受け取れます。

 

日田・杷木・朝倉から阿波・讃岐・紀伊・出雲へ進出した事が想像されます。筑後平野には、技術者集団のアヤヒト漢人=綾部が大勢遣ってきています。

 

 

天太玉命』は、阿波の一の宮であります、(鳴門市大麻町に在ります),『オオアサヒコ大麻比古神社』で主祭神として祀り、配祭神としては、『猿田彦』が祀られており、『天太玉命』と『猿田彦』の関係が議論を呼び、本来の主祭神は、『天日鷲命』であろう。と、暗に『猿田彦』を否定的に考えられているようですが、

 

徳島市明神町に在ります、宝暦8年(1758年)に、吉田神道(吉田兼倶カネトモ)で有名な、京都、『吉田神社』の許しを得て創建された、『オオマヒコ大麻比古神社』では、主祭神として、『猿田彦』を祀っています。

 

此の問題は、わたくしの説、天児屋根命=猿田彦=景行天皇=長髄彦を補完する事柄に考えられます。

 

つまり、『天児屋根命=猿田彦』である。事を『吉田神道』は知っていた。と読み解けます。

 

因みに、『吉田神社』の祭神は健御賀豆智命(豊玉彦)・伊波比主神(経津主神)・天之子八根命(猿田彦)・比賣神(豊玉姫)であります。

 

何れのお方も、倭の形成に重要な役割を果たされた人物です。

 

流石、吉田神道。

 

 

 

 

コメント (1)
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