仮説は、点であり空想であります。点と点が繋がり、線になり、線と線が繋がり、面と為り、時間軸と人物が合えば、此れは真実とも謂えます。
文献で、古代史を考える上での一番の肝要なものは、『丹波・旦波』『葛城・葛木』『紀・杵・紀伊』『難波』『日向』の解釈の仕方であります。
殆どの有能な研究者は、間違った解釈で、地図上・時間軸上・人物上の混迷に陥り、皆が納得できる継続的な説明が不能になり、頭を悩ませる事になっています。
おまけに、研究の基準となります、『日本書紀』・『古事記』の噓や改竄(例えば、本来は男神の豊受大神=イザナミの父が、女神の豊受比賣命=イザナミの子に改竄されています。)が『ホツマツタエ』や『宇佐氏口伝の伝承』・『高良玉垂宮神秘書』から浮かび上がってきており、『解釈の仕方』が問われる事に為ります。
古事記では、
武内宿禰(葛城氏です。=豊後出身と考えられます。)の父は、ヒコフツオシノマコトノミコト彦太忍信命(孝元天皇=日高彦彦穂穂出見尊と、伊香色謎命=玉依姫の間で儲けていると、想われます。)で、イカガシコメ伊香色謎命の父はオオヘソキ大綜麻杵(日本書紀)・ウツシコオ内色許男命(古事記)と述べられており、
『大綜麻杵』・『内色許男命』とは、『八咫烏』(=賀茂建角身命=※琴平神=息長宿禰王)の事と、考えられます。玉依姫の母は、『イソヨリ姫』(=伊可古夜姫=葛城高額比賣)です。『イソヨリ姫』は、(ホツマツタエでは、)日高彦穂穂出見尊の内侍で有ったが、『賀茂建角身命』の妻に下されて、二人が玉依姫を儲けた。と、述べられています。
※ 『琴平』は日田市に地名が残っています。『息長宿禰王』は、佐賀県川上狭の『野波神社』下の宮に名前を残しています。『息長宿禰王』を祀る神社は、『野波神社』の他には日本中で知りません。知っている方があったら教えてください。
古代の『葛城』(葛木)とは、近畿の『葛城』では無くて、大分豊後の『葛城』(葛木)を指しています。
※、2012年3月16日のブログ 『丹波・旦波の解釈の仕方』と、
2012年3月24日のブログ 『籠神社は豊後から遣ってきた建田背命から始まったものと捉える事が出来ます』
を参照して下さい。
日田が本貫地の『豊受大神』は、『隠居國』として、豊後九重~ゆふいん~宇佐・日出に『ホツマ國』を造った。と解釈をするべきです。
『豊受大神』は、別名が『朝日神』と呼ばれ、日田市には『朝日町』豊受大神の孫(息子の耶蘇杵=建田背?と白山姫が儲けた、娘。)の『大宮姫』の『大宮』が在り、九重町の飯田高原には、『朝日長者伝説』を残しています。
日田市のダンワラ古墳出土の『金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡』キンギンサクガンシュリュウモンテツカガミは、後漢末~魏王(155年~220年)の『曹操』ソウソウが所有していた、鏡と同じ型物ではなかろうか。と研究者から想われていますが、若しも、此の事が本当であれば、後漢~魏王『曹操』の親族が、紀元206年前後に日田に遣って来ている。と、考える事が可能です。大王が所有すべき貴重なもので、銅鏡1000枚の数とも比べられない、特別の歴史的な研究価値のある鏡であります。
此れを所有していた人物は、時間軸上『豊受大神=高躬』を於いて他は考えられません。
『天道日女命』は、饒速日命=アマテル=櫛玉ホアカリ=瓊瓊杵尊の妃でした。
アマテルは、『ゆふいん』でイザナミ『伊弉冉』から生まれています。
※ホツマ伝の解釈に拠りますと、イザナミは幼名『イサコ』と述べられて、『ゆふいん』を『イサ宮』と表現しています。亦、アマテル=瓊瓊杵尊=饒速日命=櫛玉ホアカリが生まれた場所なので『サカオリの宮』『アサマの宮』とも述べています。
※契丹古伝では、卑弥呼を『イサハミコメ』と述べており、『イサコ』=『イザナミ』の事とも想われます。
『ゆふいん』に在ります『宇奈岐日女神社』の『ウナギヒメ』とは、『イサコ』即ち『伊弉冉』を指しているように思えます。静岡県の三嶋神社(木花之佐久夜毘賣=アマテル=瓊瓊杵尊=饒速日命=櫛玉ホアカリの妻 )を祀っています。では、江戸時代末迄ウナギを祀って食しなかった。と伝わっています。『木花之佐久夜毘賣』は、燃え盛る火の中で出産したので、安産祈願の神様とされています。伊弉冉も『カグツチ』出産時の『火の傷』が元で亡くなります。『伊弉冉』は、『木花之佐久夜毘賣』『ウナギヒメ』=卑弥呼とも思えます。
『天香語山命』(手栗彦命・高倉下)も日出町『愛宕神社』(現在の祭神は、『伊弉冉』と『香具土命』ですが、『愛宕』とは、『天香語山命』を指し、本来の祭神は『天香語山命』です。)で祀られています。
『天香具山』は、別府鶴見岳=イザナゴタケ伊邪那子嶽の事と考えて、正解です。(山頂のホノオホノメ火男火売神社でカグツチ『香具土命』を祀っています。)
アマテル=饒速日命=櫛玉ホアカリ=瓊瓊杵尊は、『ゆふいん』から『飛鳥宮』(田川郡香春町~赤村)へ移動しています。
理由は、鉱山採掘の為で有った。と、考えています。
『丹波』とは、『田庭』の事で、豊受大神が居たと考えられる豊後『ゆふいん~日田』を指しています。
『丹後風土記残欠』には、
『丹波という名前をつけた訳は、昔、豊宇気大神が伊佐奈子嶽に天降された時、天道日女命たちは、この大神に五穀と蚕などの種をお願いした。その嶽に真名井を掘り、それで灌漑して水田陸田を定めて植えた。
秋には「垂穂八握莫々然甚快也。」大神はそれをご覧になって、大喜びされて曰く、「阿那而恵志(あなゑえし)、面植弥志与田庭。」そして大神は再び高天原に登られた。
それで田庭(たにわ)と謂うのである。丹波・旦波・但波、など全て、多爾波(たにわ)とよむ。』
と、述べられています。
つまり、古代には、丹波は、地名では無くて、タンバと呼んではおらず、タニワ(多爾波=田庭)と呼んでいたのです。
勉強の足りない、若い研究者が多いのに、呆れます。
後には息長氏と建田背は、伴に山陰丹後・丹波へ移動しました。
『紀の國』も、大分豊後の杵築・臼杵の味噌・醤油『豊後杵(紀)の國』が和歌山へ移動しています。
日本書紀の景行記3年2月のヤヌシオシヲタケオゴリミコト屋主忍男武雄心命に紀伊の神祇を祀らせた。と、ありますが、此れは和歌山県の事ではなく、豊後の紀伊(大分~ゆふいん・玖珠・別府~国東半島)の事であろうと、考えています。
紀の國には、名草(戸辺)が在らねばならず、玖珠町森に名草の地名と遺跡があり、割られた鏡が出土しています。玖珠町役場に掛け合えば、現物を見せてくれます。名草戸辺が、玖珠に居たと思われます。
因みに、ニシキの戸辺は、大分市錦町の大友宗麟屋敷の傍で、昔は古国府(小墾田宮)で推古天皇が、政務を執った近く。と、考えています。
豊後が『紀伊』の始まりである。の根拠は、『ゆふいん』のオオゴシャ『大杵社』(木へんではなく禾へんです。)の祭神は宇豆彦=椎根津彦(=屋主忍男武雄心命の息子)です。
入り口の鳥居傍の狛犬は、『猿田彦』をイメージする『猿』です。『ゆふいん』の『アサマの宮』は、慶長の大地震で『椿山』が崩壊して埋まりましたが、『椿』と、『猿』は、三重県に在ります伊勢國一の宮『椿大神社』(祭神は猿田彦と瓊瓊杵尊・栲幡千千姫です。)に繋がるものと、考えています。
『ゆふいん』には、山下湖があり、鏃が傍の『小田の池』から出土しており、『山下影姫』(宇豆彦の妹)から、『武内宿禰』は誕生した。と述べられており、『武内宿禰』の誕生は『ゆふいん』で有った。と、考えています。
父の『屋主忍男武雄心命』は佐賀、母の『山下影姫』は小郡市力武の『竃門神社』(アマテルが、ニニギの教育をした『伊勢=妹背』の傍です。亦、景行天皇が行宮を置いた、『高屋宮=弥生が丘』や、仲哀天皇が陣を張った『御勢大霊石神社』が、傍に在り、後世には、『小郡官衙』を『天武天皇』が造ります。『天智天皇』は、田川飛鳥宮が焼けて、奈良藤原京を着手しています。)で、痕跡を残しています。
『ゆふいん』では、イザナミ『伊弉冉』が『アマテル』(初代天照大神=櫛玉ホアカリ=饒速日命=瓊瓊杵尊)を、サカオリ宮(別名アサマ宮=ゆふいんに浅間部落が在りました。が、『慶長の大地震』で『椿山』が崩壊して埋まりました。『佛山寺』には、当時の絵図が残されています。)で生んでいます。『アマテル』は、右大臣『桜内』の娘である『向津姫』2代目天照大神と結婚しており、『天道日女命』とは、『向津姫』(2代目天照大神)の事でありましょう。
建斗米命(多分此のお方が、豊受大神の事?)と中名草姫の子である、
長男の建田背(多分、此のお方が、ホツマツタエで謂う耶蘇杵の事?)は、崇神=スサノオの乱の前・後に丹後に渡り、『籠神社』の『海部氏本系図』附の『勘注系図』に跡を残しています。
亦、日高彦穂穂出見尊(孝元天皇)の第1子であります、大毘古命(阿倍氏=豊後が本貫地)の子『御間城姫』が、崇神=スサノオの皇后になって、『垂仁天皇』(活目入彦五十狭茅命)を久留米磯城の瑞垣宮で儲けています。
伊香色謎命は孝元(日高彦穂穂出見尊)との間に儲けた崇神(須佐之男命)を連れて、伯母の豊玉姫(息長大姫大目命=猿女)と孝元(日高彦穂穂出見尊=山幸彦)が儲けた、ウガヤフキアワセズ(住吉神=開花天皇)の元へ嫁ぎます。(久留米大善寺玉垂宮=磯城瑞垣宮)
磯城瑞垣宮には、アマテルの姉のワカ姫(蛭児=御年神)や、出雲から遣って来た、大己貴命とタケコ=多祁里比賣命の儲けた、2代目ワカ姫(『高姫』、記・紀では『下照姫=御井神』と述べられています。)も一緒に居たものと考えています。
※、ホツマ伝では、ワカ姫(蛭児=御年神)は金折=ウガヤフキアワセズ=住吉神=開花天皇が育てた。と述べています。
わたくしは、此の『下照姫』(高姫=御井神)が『玉垂命』(女神)であろう。と述べていますが、『ワカ姫』(蛭児=アマテルの姉)や、『玉依姫』も可能性があります。
久留米磯城瑞垣宮の開花天皇(稚倭根子比古大毘毘命)=ウガヤフキアワセズ=住吉神に右大臣で仕えていたのが、大田田根子(ホツマ伝の編纂者、オオカシマ大鹿島命)の祖父であります、オオミケヌシ大御気主命です。
オオミケヌシは、開花天皇が(玉依姫=伊香色謎命)を娶る事に、人の道義に反する行いである。として、大臣を辞任した。とホツマ伝で述べています。
ホツマ伝は、大鹿島命が、景行天皇(大帯日子淤斯呂和気命)に献上した。と述べてあり、
『記・紀』の『崇神紀』の叙述にも、大鹿島命(大田田根子)が登場しております。
此の事から、崇神と景行は同時代の人物であることが、理解できます。
と、謂う事は、景行は垂仁の子では無くて、系図上は、崇神の兄弟とされ、行方不明の『彦座王』の位置にあるべき人物であります。
わたくしは、以前のブログで、彦座王は、景行天皇の事であると述べていました。
『彦座王』と『息長水依比賣』の子に『丹波道主命』がいますが、『丹波道主命』との兄弟の位置に『息長宿禰王』が配置されるべきです。その娘が神功皇后(息長帯姫)と謂う事であります。
わたくしの、『丹波道主命』の『丹波』タニワの解釈は、豊受大神の居た『ゆふいん』の事であります。
その根拠は、『丹波道主命』が娶った『丹波之河上之摩須郎女』タニワノカワカミノマスラメは、わたくしの、棲んで居ます湯布院町川上の『鱒郎女』と考えられるからです。
川上地区は、ゆふいん盆地の半分近くを占めています。ゆふいんの川上の地名が、佐賀県大和町川上に人物・地名共々移動しているものと、考えています。
わたくしは、日本書紀が述べる景行即位12年10月の九州での熊襲遠征のオオキタ碩田(大分)クタミムラ來田見邑での『土蜘蛛』退治が、崇神=スサノオを、豊後杵築(小熊山古墳)での殺害の行動であろう。と述べています。
崇神=スサノオに味方した阿蘇氏の中臣・志賀・八田(矢田)氏を直入町~竹田市で討ち果たして、崇神=スサノオの本拠地でありました、久留米磯城瑞垣宮(崇神=スサノオに付いて来た大勢の渡来人を近くに住まわせます。)を監視出来ます処の、アマテル由来の伊勢=妹背の傍であります、鳥栖市~基山町の『弥生が丘』(日向の高屋宮)で陣を張り、同年12月熊襲梟師を征伐。6年程の間滞在します。
纏向(場所は行橋勝山黒田と想われます。)に帰還への足取りは、浮羽から日田(美濃)で途切れて、不明です。
景行4年、美濃の泳宮へ行って、八坂姫を娶った。と、日本書紀が述べていますが、わたくしの解釈では、日田(美濃)の亀山公園(泳宮)近くで『八坂姫』を娶った。に為ります。ひょっとしたら、此のお方が豊玉姫(=ミズハノメ)?
(ホツマツタヱでは、日田盆地を『耶馬手ヤマテの宮』『ケタ臺ツボ』と呼び、邪馬台国論争を起こす切っ掛けになります。後には、瓊瓊杵尊=アマテル=饒速日命が『新治ニハリの宮』を建造しました。)
しかし、記・紀では、景行は『水歯郎媛』ミズハノイラツメを娶って、『基山の伊勢斎宮』を祀ったイオノノヒメミコ『五百野皇女』=久須姫=玖珠姫(名草遺跡の有ります、由布院の隣町です。)を儲けています。
『倭姫』(景行天皇の妹)が朝倉笠縫氏(漢の太祖劉邦→笠縫。つまり、アヤヒト漢人。)の邑から、天照大神の神霊を三重県の伊勢に、遷宮しています。
麻底良山の西を調査しました処、朝倉市須川に『橘の広庭宮』跡の石碑があるのを発見しました。やはり第98代長慶天皇は、此の地で亡くなっているものと考えられます。
『麻底良山』・『麻氐良布神社』マテラフではなくて、アマテラスと呼ぶのが正当です。
書道家の『井上よしふみ』様が草書体から解読されました。偉大な功績です。
アマテラス(向津姫=瀬織津姫)の神魂(神霊)が朝倉の『麻底良山』から、三重県の伊勢へ移動したのであれば、『アマテラスの墓』は朝倉に在ったものと、考えるべきです。
『麻底良山』周辺で一番に考えられますのは、朝倉市山田に在ります『長田大塚古墳』です。直径100m~130m位の円墳です。多分、99パーセント此の古墳に第2代天照大神(向津姫=瀬織津姫穂乃子)が埋葬されているものと、考えられます。魏から頂いた『親魏倭王』の金印も埋葬されている可能性が有ります。
井上様も同様の考えです。